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30日目

「姉さん! 届きましたよ、打掛け!」 「わかった、わかったから叫ぶな」 その日は昼過ぎから雲雀がずっとうるさかった。本当に、名前の通り喚き続けていた。理由は簡単、先日、周が頼んでいたという打掛けが完成したからだ。 馴染みの呉服屋ではなく、少し遠い店で注文したらしい。きっと周の行きつけなんだろう。ただ「周様より」としか差出人の欄には書かれていなかった。大きなたとう紙を、まるで宝物のように俺の部屋まで運んできた雲雀が、今度はいそいそと開こうとしている。 さすがにそれは俺の役目だろうと言い張り、「姉さんだって素っ気ない態度取ってるくせに!」と逆に言われ、最終的に女将から二人とも叱られた。一体俺たちは何をしているんだ。 「どんな打掛けなんでしょうねぇ」 「さあな」 先日、大きめの柄が似合うと言われていたのは覚えている。鮮やかな色がいいとも言っていた。 一体どんなものを選んでくれたんだろう。周が、俺のために選んでくれた打掛けか。たとう紙に伸ばした手がわずかに震えていた。妙な緊張を感じる。今まで何度も客から贈り物をもらってきた。でも、ここまで心が揺れ動いたことは無かった。 自分で買わなくて済んだ、くらいにしか感じていなかったのに。 「開けるぞ」 どうして、周からというだけでこれほどまでに胸が高鳴るんだろう。 ゆっくりと、たとう紙を開く。真新しい着物の香りと、かすかに白檀がした。その香りが、周が纏っている香りと同じだということに気づいて、また胸の奥が締め付けられる。 「うわぁ! 綺麗!」 「っ、」 鮮やかな藤の花が、一面に広がっていた。流れるように花房が連なり、色合いが裾に近づくにつれて濃くなっていく。金の刺繍で縁取られているから、光が当たる度に美しく輝いていた。 大きく羽ばたく鶴も描かれており、一目見てかなり上質なものだということが分かる。藤色は本来、淡く優しげな印象を与える。しかしこの打掛けは濃く、鮮やかな色ばかりが使われていた。 一体、どれほどの金をかけたんだろう。しかものれほどの物をたった十日で仕立てさせるなんて。 「あの、馬鹿……」 まだ出会って一月ほどしか経っていない陰間に、どうしてここまでするんだ。すぐに抱けるわけでもないというのに。触れられるわけでもないのに。 もう、本当に、わからない。 わからないけど。 「姉さん、顔が真っ赤ですね」 「……ふん」 周と同じ香りがする打掛けに袖を通すと考えただけで、口許が緩んでいくことだけはよく分かってしまった。 いつもより念入りに支度をして、普段は滅多に使わない伽羅の香を焚き、あとは打掛けに袖を通すだけになった。姿見で合わせただけでも、俺の顔立ちによく似合っていると思った。 しかし、いざ袖を通すと思ったら変に緊張してしまう。 「こう、高いものにホイホイつられる軽いヤツ、とか思われないか?」 「百夜通えと仰る方が、軽いヤツとは誰も思いませんよ」 「でも、届いたその日に着るなんて、浮かれてるみたいだ」 「あのねぇ、姉さん」 指先に残っていた紅を懐紙で拭いながら、雲雀は呆れたようにため息をつく。今まで一度も見たことがない表情だった。 「どう思われるか、なんて。今更そんなこと考えてなんになるんですか」 「うう……」 「少なくとも周様から打掛けを贈ってもらい、嬉しくて、浮かれているのは事実でしょう?」 違う、と、きっと普段なら言っていただろう。でも今は否定することが出来なかった。 少なとも本当に、僅かではあるが真新しい打掛けに胸が高鳴っているのだから。それが周から贈られたからとは、認めたくないが。 雲雀に隠し事は、できなさそうだ。 「悪いか、浮かれていて」 噛み潰すようにそう言うと、雲雀はやけに嬉しそうな顔でにこりと笑った。そうして、今にも抱きついてきそうな素振りで俺の肩に打掛けを羽織らせてくれた。 そんなことがあって、もうすぐ店が開店という時間になり。 俺は、やはりというかなんというか、とても緊張していた。 (打掛けは大丈夫、化粧も雲雀がしてくれた、普段通りだ、普段通り……) そう、何度も自分に言い聞かせる。それでも「普段通り」がどんなものだったのか自分でも思い出せない。女将に呼ばれて、部屋のふすまが開いて、見慣れた周の姿を確認して。 それから、俺たちは何をしていたんだっけ。 「夜鷹、周様のおいでだよ」 「は、はい!」 いよいよだ。ぎゅっと自分の手を握りしめる。なぜだか冷たい汗が滲んでいた。こんなにも緊張したのは久しぶりだ。しかもまだ一月ほどしか共に過ごしていない相手に。 たかだか贈られた打掛けを身につけている姿を見られるだけというのに。口の中がカラカラに乾くほど、俺は緊張していた。 そうして。すらりとふすまが開き。 「やあ、夜鷹。こんばんは」 「こ、んばん、は」 いつもと変わらない顔した周が、俺の姿を捉えた瞬間。 (あ……) 表情が、一気に変わった。  目尻が朱に染まる。切長の、美しい瞳が驚きでまん丸になった。何か言いたげな口は、言葉を紡ぐことなく開いたままになっている。  そんなにもおかしな格好だろうか、これは。少なくとも周が贈ってきたもので、俺はただそれを着ただけなのに。想像よりも酷かった、とかだったら、どうしよう。  でも雲雀は似合っていると言っていたしな。俺も、まあ、それなりにいいじゃないかと自画自賛したけれど。やっぱり周がどう思っているかが一番の気掛かりだった。しかもこの反応とは。 「あ、周。これ、今日届いたんだ」 「え、あ……うん。そう、だね」 そうしてまた、不自然な沈黙。頭からつま先までまじまじと見つめてくる周に、俺もどうすればいいか分からないでいた。 試しに打掛けの袖口を引っ張って柄がよく見えるようにしてやる。それだけのことに、周はぐっと息を飲んだ。 「そんなに変か……?」 「え? なにが」 「なにって、貴方のその反応だ! さっきから何も言わず、ただジロジロ見るだけで……! 似合わないならさっさとそう言ってくれ!」 なんだか急に居た堪れなくなって、ついおおきな声を出してしまった。いくら化粧をしていて、陰間としてはギリギリ許される年齢だとしても、やっぱり男であることは隠しきれない。おまけにこの性格だ。 通例に沿って打掛けを贈ってみたが、いざ直面すると言葉を失うくらい似合わなかったということか? だとしたらさっさと笑ってくれ。そっちの方がまだ傷は深くない。恥ずかしさで涙が出そうだった。思わず袖口で顔を覆うと、周は焦ったように手を伸ばしてきた。でも、俺たちの間には一畳分の距離がある。 触れられることのなかった手が、躊躇したように空をさまよっていた。 「似合わないなんて……どうしてそんなことを言うの」 「だって貴方が、何も言わないから」 「それは……あの、夜鷹。笑わないで聞いて欲しいんだ」 「ん……」 顔を隠していたから、周がどんな表情かは分からなかった。でも、いつもは穏やかで余裕のある話し方をしているのに、今の声は分かりやすく震え、わずかに裏返ってもいた。 決して触れるな、という言葉を律儀に守っているのか、近づけるギリギリのところまで身を乗り出していた。白檀の香りが鼻先に触れる。こんなにも近づいたのは、これが初めてだった。 「想像よりも、ずっと綺麗で、なんと言えばいいか分からなかったんだ」 「……そのまま、言えばいいだろう」 「君はそういう褒め言葉に慣れているだろうから、ありきたりな言葉なんて嬉しくないと思ったんだよ」 「慣れてなんか、ない」 上辺だけの言葉は確かに聞き慣れていた。必死になって俺を振り向かせようとするが透けて見えて、いつも笑い飛ばしていたのだ。 でも周は違った。本当に、なんの下心もなく、純粋に美しいと思ったのだ。俺の事を。綺麗だと。ただの陰間である俺を、綺麗だと言ってくれた。 それが伝わってきたから、俺も本音を伝えようと思ったのだ。 「嬉しい……本当に。周から綺麗と言われるのは。すごく、嬉しい」 そろりと袖口から周の表情を覗き見る。思っていた以上に嬉しそうで、耳まで真っ赤にしている姿が見えたから。 これはお互い様だなと、湯気が出るほど熱くなった頬をそっと緩めた。

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