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20日目

周から打掛けを贈りたいと言われて、十日が経った。その間も毎晩せっせと通い続ける周に、変わったところはない。羽織を着ると堅苦しいと言ったせいか、最近はずっと着流しばかりで、手土産の菓子の量が少しずつ増えてきているくらい。 ようするに、俺たちの間に取り立てて大きな変化はないということだ。 いや、あるにはある。ささやかだけど大きな変化。それは。 「君も食べればいいのに。すごく美味しいよ」 「知ってる。でも規則なんだ。客の前で食事をしてはいけない」 「私は気にしないよ」 「俺が気にする」 蔭間と客であることには変わりない。百夜経つまで俺を抱けないことにも変わりはない。ただ、話す時の口調が少しだけ緩んできた。俺はもう蔭間特有の話し言葉をやめて、雲雀たちと話すように周と会話をする。周も、俺のことを大仰に「貴方」とは呼ばず、「君」と呼んだ。 もちろん女将の前ではちゃんと「アタシ」と言い、「旦那様」と呼ぶ。でもこの部屋のふすまを閉じたらあとは俺たちだけの世界だ。 まるで幼い頃、両親に隠れて菓子を食べた時のような感覚に、わずかに胸が弾んでいた。 「どうすれば君と一緒に食事が出来るかなぁ」 「むしろどうしてそこまで俺と食事がしたいんだ」 「一人で食べるのは味気ないからね。それに、美味しいものは誰かと一緒だともっと美味しくなる」 「ふぅん……」 そんなものか、と思いながら煙草をふかす。コツンと灰を落としている間に、周は味噌汁をずっと飲み干した。今日も綺麗に食べ終わり、見てるだけで気持ちがよかった。 膳は後で雲雀が下げに来るから、それまでは食後の茶を楽しんでいる。これも、いつもの光景。 これは、なんというか。 「熟年夫婦みたいだ……」 「何か言ったかい?」 「別に。それで? 今日の質問は?」 熱い玉露を啜る周に尋ねると、のんびり湯気を吹くだけ。時間はたくさんあるから焦るな、ということだろう。 これじゃあ本当に熟年夫婦だ。 「なぁ、質問」 「分かってるよ。考えているんだ」 「もう聞きたいことはなくなったのか?」 「そういうわけじゃないんだけど。聞いてもいいのかな、と思ってね」 確かに二十日も経てば質問の内容も少しずつ上辺だけのものから、個人的なものに移っていく。昨日は「好きな季節は」という、なんとも当たり障りないものだったけれど。 さすがに俺も、これ以上なんてことない質問は絞り出せなかった。最初は警戒していたのは事実だ。でもこれほど長く夜を過ごしたのだから周の人となりもなんとなく分かってくる。決して面白半分に他人を傷つけることはないだろう。だから、今、こうやって悩んでいるのだ。 今までよりも踏み込んだ質問をして、俺を傷つけないか。  全く。どこまで優しい男なんだろう。そして愚かだ。陰間茶屋でその優しさはつけ込まれる隙になる。相手が俺でよかったな。 「別に。答えたくない質問には答えない」 「そうか」 「それに……変に気を遣われる方が嫌だ」 「わかった。君は優しいね」 それはこっちの台詞だ。別に俺の事なんて気にしなくていいのに。ここでは毎晩、誰かが傷ついて涙を流す。 また明日、と言って去っていく背中を追いかけられず、その後二度と会えない男を思って胸を痛めることなんて日常茶飯事なんだ。それなのに、たかだか一つの質問にここまで悩むなんて。 やっぱりお前は、優しすぎる。 「君の、御百度姫という名前の由来は分かった。もう一つの名前はどうして」 「舞わずの太夫?」 「……そう。何か理由が?」 まあ、きっと聞かれるならこれだろうなとは思っていた。そして隠すつもりもない。今まで客の誰かに話したことはなかったが、周ならいいだろう。 知ったところで憐れに思うにせよ、馬鹿にはしないはず。 そう思って、打掛けに隠れていた右足をそっと撫でた。 「俺は、舞えないんだ」 「なぜ」 「足を痛めているから。歩くこともままならない」 そう言って裾を捲る。右膝には今も大きな蚯蚓脹れが残っていた。赤黒く走る傷跡は見ていて気持ちのいいものではない。もう随分と昔の傷ではあるが、癒える気配は見えなかった。 周は、何か言いたそうな顔をしたままじっと傷を見つめていた。 「ここに来る前に、怪我をしたんだ。立つことも歩くことも出来ない俺を拾ってくれたのが今の女将だった」 「どうして、そんな大怪我を」 「……逃げ損ねたんだ。俺が幼かったから」 正直あの日のことは朧気にしか覚えていない。それまで親切に接してくれていた街の人たちが、急に冷たくなった。挨拶をしても無視をされ、親が居ない時は石を投げられた。怖くて、堪らなくて、兄の手を握りしめたこともある。その度に「大丈夫だ」と言って笑いかけてくれた兄は、今どこのいるか分からない。 残っている最後の記憶は、燃え盛る家と、俺の名前を叫ぶ兄の声と、右足から流れ出る真っ赤な血だけだ。 「姉は嫁いでいたから無事だったが、両親も兄も何処に行った分からない。俺も気づいたらここに拾われ、禿として働くことになった。だがこの足だ。舞うことはおろか、客を取ることもできない」 「それでわざと、百夜通えと行ったのですか」 「まあな。噂が広がれば興味本位でやって来る奴もいる。だが百夜通うなんて出来るわけがない。そうして、気がついたら俺は高嶺の花になってたってわけだ」 他の陰間と比べたら俺は技量も何も持っていない。三味線も舞いも、琴も苦手だ。おまけに床の方はからきしで、準備の仕方や悦ばせる方法は知識としては知っているが実践したことはない。 だからこそ、誰にも気づかれてはいけなかった。誰も床に入れてはいけなかった。この秘密を客に伝えることも、本来は厳禁だ。でも周は、今までの客とはどこか違う気がした。興味本位で俺を抱こうとはしていない。本気で、俺を手に入れようとしている。 それならば俺も本気で向かわなければ。生まれの血が廃るというものだ。 「幻滅したか?」 「まさか。君のことが知れて嬉しいよ」 「ふん。強がれるのもいつまでかな」 口ではそう言っても、やっぱりどこか不安だった。周が俺に舞いや三味線を期待しているとは思わない。それでも、どうせ抱くなら傷のない綺麗な少年がいいだろう。 俺みたいな傷物で、不完全な陰間なんて。抱いても本当に楽しいのだろうか。もし、今まで女性とだけ関係を持ってきたとしたら尚更俺に幻滅するだろう。 いつだって俺たち陰間は選ばれる立場にいる。いくら俺が「百夜通え」と言ったところで、抱きたくないと床を拒めるのは周の方だ。もし、そうなったら。俺はどうするんだろう。 (いやいや、どうしてもうそんなことを考えているんだ、俺は……! 気が早いだろ!) そんな先のことは、その時になってから考えればいい。そもそも本当に、周は性欲を抱くのだろうか。どこからどう見ても欲の欠片も見当たらないのに。 なんだか、ふと、そういうことが気になって仕方なくなった。 「じゃあ、俺からの質問」 「うん。どうぞ」 「周は、その」 なんと聞けばいいんだろう。陰間茶屋を訪れるのはこれが初めてだと言っていた。でも、数年前までは巷でも男色が見られていたんだ。むしろ当たり前の光景だった。 薄暗い路地裏を見れば男とも女とも分からない影が重なり合っているのを見たことがある。そうしたら、周も。 もしかしたら。 「誰かと、その、共寝をしたことがあるのか」 「共寝?」 「だから、ええと……肌を重ねたことが、あるのか」 口に出してから、時分がどれほど恥ずかしいことを言ったのか後悔した。これでもし「ある」と返ってきたら、俺はなんと答えればいいんだろう。「ない」と言われても、喜ぶわけにもいかないし。 これじゃまるで、俺が周の過去を気にしているみたいじゃないか。 とはいえ、一度言葉にしてしまったことは取り消せない。ぱち、ぱち、きっかり三回分の瞬きを繰り返して、周はようやく困ったように笑った。 「な、なんだよ」 「いいや。まさか君からそんなことを聞かれるとは思ってもいなくて」 「いやなら、答えなくても」 「嫌じゃないよ。ただ、なんだか嬉しくて」 なにが、どうして、嬉しいんだ。やっぱり周のことは理解できない。 理解できないけど、ゆるんだ口元から本当に嬉しいんだということは理解出来た。 「ないよ。一度も」 「一度も?」 「うん。家の教えが厳しくてね」 一体どんな家なんだ。俺はまだ幼かったが、近くの大きな家には妾がいるところもあったし、色街に通う若者も少なからずいた。 親が決めた相手と結婚することがほとんどだったせいか、わりと性におおらかだったのだ。それが当たり前だと思っていた。俺も父親と同じくらいの年齢になったら誰かと結婚して、子供が出来ていくんだろう、なんて考えていた。 陰間になるまでは。 「今でこそ自由に生きていけるけど、家を出る前は何もかも掟に縛られていたよ。食べるものから着るものまで」 「それは……大変だったな」 「でもそれが当たり前だと思っていたからね。なんとも感じなかった。このまま父の跡をついで、同じような道を歩むんだとばかり思っていた」 その言葉を聞いて、妙な安心感を得た。なんだ、周も俺と同じなのか。当たり前という籠に囚われて周りが見えていなかった。外に出て初めて、こんな世界があったのかと新鮮に感じた。 もちろん、俺はまだ籠の鳥だ。自由に外には出られないし、客に主導権を握られている。周は自由に見えるが、もしかしたら同じようなしがらみがあるのかもしれない。そこまでは、分からないけど。 なんだか、少しだけ、心が救われた気がした。 「夜鷹、なんだか今日の君は嬉しそうだね」 「気のせいだろ」 「そうかい?」 その日は、初めて俺たちの間にあるわずかな距離が疎ましいと感じた夜だった。

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