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85日目
「姉さん……今、いいですか?」
「雲雀?」
今日も今日とて、周と二人で膝を付き合わせ書類の精査をしていた。陰間の半分ほどは行き先が決まったが、残りはまだ候補を見つける段階で止まっている。
女将さんの言う期限は残り一月程。早いところ提案してやらないと不安になるだろう。そう思い、食事もそこそこに話し合っていたところに。
なぜか、普段は仕事中に決して部屋を訪ねてこない雲雀が、ふすまの向こうから声をかけてきた。今日はまだ周は寝ておらず、見られて恥ずかしいところはない。視線だけで周に問いかけると、中に入れるよう促した。
それを見て、ふすまを開けてやると、案の定不安そうな顔をした雲雀が膝まづいていた。
「どうしたんだ、こんな時間に」
「……なんとなく、姉さんは、なにをしてるかなと思って」
「何って……客の相手だよ。見たら分かるだろ」
相手と言っても別に色事とは縁遠く、ほとんど事務的なことばかり。それを知っているから雲雀も部屋に来られたんだろう。
しかし、本来なら仕事中に禿が太夫の部屋を訪れるなんて有り得ない。よほどの大事が起きたかのかと思えばそういうわけでもなさそうだし。
一体、どうしたというんだろう。
「雲雀、何かあったのかい? 私は席を外そうか?」
「いえ、いえ、そうじゃありません。周様、違うんです。ただ……その……」
何か言いたげに口元をもぞもぞさせる雲雀は、大きな目をふるりと震わせた。そしてそのまま涙が溢れてくる。
突然のことにぎょっとして、慌てて部屋に引き入れた。今はもうほとんど客もいないから見られて困ることは無い。それよりも、普段は滅多なことでは弱音すら吐かない雲雀が泣き出したことに動揺したのだ。
「ど、どうした? 何があった?」
「姉さん……ううー……」
普段は快活で、にこにこと笑っている雲雀が、まさか涙を流すなんて。もう随分と長い付き合いになるが初めて見たかもしれない。タチの悪い客に何か言われたのかとも思ったけれど、今はもう本当に馴染みの客しか来ていない。
だとしたら、どこか体調でも悪いのだろうか。最近あまり眠れていないようだったし。まだ幼いとはいえ、店がどういう状況か分からないほど子供でもない。どうしたらいいか分からず、とりあえず頭を撫でてやると今度は思い切り抱きついてきた。
「雲雀、何か言わないと何も分からない」
「ひっ、く……うっ」
「もしかしたら寂しのかな?」
「えっ?」
困り果てていた俺の横で、周がどこか落ち着いた声で話しかけてきた。それは、俺だけではなく雲雀にも。その証拠に、雲雀は俺の胸に顔を埋めたまま小さく頷いた。
寂しい、って。
まさかそんな、子供みたいな。
(いや……どんなに大人ぶっていても、まだ子供か)
仲の良かった禿たちは、ほとんど店を出ていっていた。子供のいない夫婦の元へ、里子に迎えられたのだ。今まで当たり前に存在していた日常が、少しずつ無くなっていく。
いきなり失うのも恐ろしいが、じわじわ消えていくのも怖いだろう。
「雲雀は今何歳かな?」
「……とお」
「そうか。私も同じ歳の頃に両親を亡くしたんだ」
「周……そうだったのか……」
「うん。君にも話したことがなかったけどね」
今まで様々な話をしてきたけれど、お互いの家族について深く話したことはなかった。弟と二人で商いをしているとは聞いていたけれど、まさか両親を亡くしていたなんて。
しかも、十歳の時に。
俺と同じだ。
「寂しくて、つい夜鷹のところに来たくなったんだろう?」
「そう、です……」
「だからって、俺は客の相手をしているんだぞ」
「まあまあ。客と言っても私なんだ。気にしないで」
「でも……!」
こんなこと、本来ならあってはいけない。部屋に入ったら禿どころか女将さんだって邪魔をしてはいけないのだ。
なのに、客である周を放っておいて雲雀を慰めるなんて。普通だったら怒ってもいいはずなのに。周は、雲雀の頭をゆっくりと撫でていた。
「いいかい、雲雀。辛い時は泣いてもいいんだ。たくさん泣いたら、寂しさも辛さも全部流れ出していく。そうしたらきっと、いつか、また笑えるようになる」
「……えっ?」
ぐしゅぐしゅ泣き続ける雲雀を抱いたまま、周の言葉に記憶の糸が引っ張られるのを感じた。
昔、その言葉を聞いたことがある。どこで聞いたんだろう。誰が言ったんだろう。思い出せない。とても寒い日だった気がする。でもそれだけ。
一体、なんなんだ。
声を上げて泣き始めた雲雀を慰めているうちにその悩みはどこかに消え去り、ついには泣き疲れて眠ってしまった雲雀をどうしたものかという方が大きな悩みになった。
目の端が赤く腫れている。冷たい布で冷やしてやらないと。
「寝たか……悪かったな、周」
「気にしないで。誰しも別れは寂しいものだ」
「雲雀は俺の布団に寝かせるか……あれ?」
抱き起こそうとしたら、いつの間にか雲雀の手が周の着物をしっかりと握っていることに気がついた。無意識のうちに引っ張っていたのだろう。気づかずに引っ張ったせいで周の体も引きずられる。
突然のことに体を支えられなかったのか、周がぐらりと揺れる。
「あっ」
倒れないよう、咄嗟に畳に手を着いたから押しつぶされることはなかったけれど。
「あ……え、っと」
「ご、ごめん」
思いのほか、周の顔が近くにあった。薄い琥珀色の瞳が目の前にある。長いまつ毛が絡まるほど近くにあって。嗅ぎなれてしまった白檀の香りが、鼻先に触れて。
まるで、この瞬間、時が止まってしまったかのような気持ちになって。
(あ、また)
誘われるように唇が近づいていく。吐息が混じり合う。心臓が馬鹿みたいに鳴り響いて、身体中が震えてしまって。
このまま、あの日の続きをするのかと、目を閉じた。
「んぅ……ねぇ、さん……」
「っ!?」
雲雀の寝言に、一気に現実へと引き戻される。あの時は誰もいなかったけれど、今は雲雀がいるんだ。うっかり目が覚めて見られてしまったら気恥ずかしくてたまらない。
何事も無かったかのように雲雀を布団まで運び、横にしてもまだ心臓が痛いくらい跳ね上がっていた。布団に寝かせた雲雀は、毛布を抱きしめて小さく縮こまっている。これだとしばらくは起きないだろう。
「あ、ありがとう、雲雀のこと」
「気にしないで。でも、雲雀を運んで足が痛んだろう? 今度は君を運んであげる」
「はぁ!? いや、いい! そんな恥ずかしいこと、っ、うわっ!?」
さっさと膝の裏に手を差し入れられ、軽々と持ち上げられる。視線が一気に上がって思わず声が出てしまった。
あまり大きな声を出すと雲雀を起こすかもしれない。言いたいことは山のようにあるが、ここは大人しくしておいたほうがいいだろう。
わずか数歩しか離れていない文机まで運ばれたが、そのまま抱き抱えられて動けない。後ろから抱きしめられているようだ。
「あ、周?」
「いや、ちょっと……あんまり動くと、雲雀が起きるかと思って」
「そんなこと……なぁ、もしかして」
頑なに顔を見せようとしないうえに、おかしな言い訳をこぼす様子を見てぴんときた。それに、今日はまだ質問をしていない。
腰に回った腕を撫でながら、声を潜めてたずねてみる。
「もしかして、悋気を起こしたのか?」
「……」
「質問に嘘はついちゃいけないんだろう?」
案の定、ぐっと黙り込んでしまった。しかし沈黙は肯定ということだ。視界の端に、真っ赤な耳朶が返答を物語っていた。
「……自分でもみっともないと思っているよ」
「まあ、今までずっと俺を独り占めしてきたからな。突然横取りされたらそうなるかもしれん」
「それもあるけど……私の知らない君の顔を雲雀は知っていると思ったら、なんだか……嫌な気分になって……」
だからごめん、と小さく呟く姿を見て、胸が震えた。
ああ、なんて可愛らしいんだろう! 俺よりも年上で、冷静で、余裕のある周が。十歳の禿にこんなにも悋気を起こしているだなんて。
可愛らしすぎて、体まで震えてしまいそうだ!
「周、周……貴方しか知らない顔だってあるだろう?」
「たとえば?」
「たとえば……こんな」
顔を後ろに向けて、惚けた表情の周にそっと唇を寄せる。頬に口付けて、そのまま流れるように唇へ。ちゅ、と音を立てて離れると、ますます顔を赤くした周が驚いた顔で固まっていた。
「よ、だか」
「これは、貴方だけが知ってる」
「もう……ずるいなぁ、君は」
結局その日はもう作業を続けるのとは出来ず、戯れのような口付けを交わし続けた。
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