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89日目
毎日遅くまで作業をした結果、ようやく全ての作業が終わった。すでに店を出て新しい家で暮らしいている蔭間もいる。周が選んでくれた家族はどこもしっかりとしているから、届けられる手紙には楽しく過ごす日々と、お礼の言葉がつめられていた。
部屋の隅に積み上げられたいた書類がなくなり、これからは周とのんびり過ごすことができる。支度をしながら浮き足立っている自分を必死に宥めつつ、周が訪れるのを待ち侘びていた。
「夜鷹」
「ああ、こんばんは」
「うん……」
珍しく、周が落ち着かない表情をしていた。何かを悩んでいるような、言い出しにくそうな、不思議な顔だ。
一体どうしたんだろう。
「周、どこか調子でも悪いのか」
「いや、そうじゃないんだけど」
「だったら悩み事か?」
「うん……」
ふう、とため息をついて腰を下ろした周は、今までとは少し異なる憂いを帯びているように感じた。
「夜鷹……女将さんには了承を得たんだけど、君との約束の話についてなんだ」
「約束?」
「そう。百夜通う、約束」
その瞬間、なんだか悪い気配がした。今まで当たり前に周はずっと傍にいると思っていた。でも、あと十日もすればここの客ではなくなってしまう。
分かっていたのに。なぜだろう、今になってその現実を突きつけられる予感がした。
「それが、どうしたんだ」
「回りくどい言い方は嫌いだから、単刀直入に言わせてもらうね」
「……うん」
もしかしたら、もうここに通わないのだろうか。やるべき事も終わったし、店もなくなる。それならもう、ここに来る理由がなくなったと言いたいんだろうか。
そんなことを考えていると、周はぎゅっと俺の手を握ってきた。少しだけかさついた手のひらが、なんだかとても心地よかった。
「明日から、しばらくここに来られない」
「そう、か」
分かっていた。いつもそうだった。どの客も、いつも途中でいなくなる。俺のことを好きだとか綺麗だとか言っておいて、結局すぐにいなくなる。
その度に、ああ、やっぱり、と。
少しずつ現実に見切りを付けてきた。
でも周だけは違うと思っていた。信じていた。それさえも、俺の勘違いだったんだろうか。
「そんな顔をしないで。事情をきちんと説明するから」
「別に、飽きたのならそう言えばいいだろ!」
「夜鷹!」
こちらに伸ばされた手から逃げようと体を捩る。それでもすぐき抱きしめられてしまい、俺たちは随分と近くに居たんだと気付かされた。いつの間に近づいてしまっていたんだろう。
心も、体も。
もうこの距離じゃないと落ち着かないほど、俺たちは近くに居すぎてしまった。
「……なんで急に、来られないなんて」
「少なくとも君に飽きたわけじゃない。決して。それは分かっていて欲しい」
「信じられるか! 陰間には、客は何とでも言える! そうやって見捨てられた姉さんたちを何人も見てきた! それで、どうやって信じろなんて……!」
「じゃあ、どうやったら信じてくれる?」
覗き込んできた周の瞳は、あまりにも真剣だった。もし、俺が「貴方の小指が欲しい」と言ったら、なんの躊躇いもなく小刀で切り落とすだろう。
そう思わせるほど、周の表情は真剣だった。
そうだ。周はそういう男じゃないか。馬鹿みたいに正直で、純粋で、俺が喜ぶためなら何でもしてくれた。言葉にも行動にも裏表がない。
なるほど。今になってようやく理解した。 俺は、周のそういうところが。
(すき、なんだ)
「夜鷹?」
「いや。貴方はとても、可愛らしい人だと思って」
「え、ええ? そういう話をしていたっけ……?」
切れ長の目をぱちぱちさせる仕草も、妙に可愛らしく見えてくる。これが惚れた欲目というやつか。
「理由を教えてくれ。ここに来られない理由。話せるところだけでいいから。それで貴方を信じるよ」
「それだけ?」
「十分だろう。俺たちの間では」
大丈夫。会えない期間があっても、俺は周を信じている。そしてきっと周も。
「少し遠くに行かないといけないんだ。すぐには戻ってこられない」
「それは、引き取り手探し?」
「そう。私が一番懸念していたところだから、直接行きたくて」
「……わかった。信じる」
「ありがとう」
周を信じる。それは、今の俺に出来る唯一の手段だと思った。それでも胸の奥をチクチク刺すような痛みは消えてくれない。呼吸が浅く、目の裏がじんわりと熱を持っていた。
この感情は一体なんだろう。今まで一度も感じたことがなかった。
「寂しい?」
「自惚れるな。暇を弄ぶなと思っただけだ」
「それは悪いことをしてしまうね」
「だいたい……貴方はどうなんだ」
「寂しいよ。とても」
「……っ」
こうもまっすぐに見つめられ、噛み締めるように言われると流石にこちらも居た堪れない気持ちになる。変に強がったところで周には意味が無い。この長い付き合いで分かっているはずなのに。
今でもこの視線に、勝てる気がしない。
「君は? 寂しい?」
「い、言わせたいだけだろう!?」
「うん。聞きたい」
優しく、諭すような声がすとんと胸に落ちてくる。そうして、胸に詰まっていた名前の付けられない感情の正体にようやく気づいた。
そうか。俺は、寂しかったのか。
「寂しい……俺も」
「うん」
「それだけか!? 他に無いのか、こう、慰めるとか、なにか」
「色々と考えてはいたけれど、難しいね」
「なんだそれは……やっぱり貴方はどこか抜けている」
小さく笑ったら、周も安心したように口元を緩めた。それから袂から藤色の巾着袋を取り出した。
いつも周が纏っている白檀の香りが強く漂ってくる。
「これは?」
「私が普段使っている香袋だ。これの香りが消える前に、必ず戻ってくるから。だから、君に持っていて欲しい」
「大切なものなんじゃないのか。随分と使い込まれているようだし」
「そう。だから君に預けるんだ」
香袋にしては少し大きな巾着袋は、所々生地が薄くなっている。そこを丁寧に縫い合わせているのが分かって、周がとても大切にしていることがすぐに分かった。
そっと鼻先に近づけると、周と同じ香りがする。それだけで寂しさがちょっとだけ消えていくような気がした。
「分かった。待ってる」
「ありがとう」
「でも香袋だけだと、貴方のことを忘れてしまいそうだ」
「え?」
ぎゅ、と抱きついていた腕に力を込める。着物から、肌から、髪先から香る白檀と、周自身の香を思い切り吸い込む。
じゃれつくように首筋へ唇を寄せると、弾けるように周の体が飛び上がった。
「よ、よだか……!?」
「十日も置いてけぼりにするんだ。少しくらい甘やかしてくれ」
「……うん」
結局その日は、朝日が登るまで二人とも眠ることはなかった。俺の着ていた内着には、周の香がたっぷりと染み込んで、着ているだけでまだ抱きしめられているような感覚になる。
熱を帯びた琥珀色の瞳に見つめられながら、三千世界の鴉を疎む理由をようやく知った。
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