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101日目

*** (101日目) 喉の掠れで目が覚めた。軽く咳き込むと、身体中が甘いだるさにまとわりつかれていた。普段は痛まない箇所がじんわりと熱を帯びている。瞼がやけに重たかった。 見慣れた天井、使い慣れた布団、そのはずなのに何かが違う。まるで、薄皮が一枚剥がれたように景色が澄んで見えた。 「おはよう。体の具合はどう?」 「あ、まね」 囁くような声が、嫌でも昨夜のことを思い出させる。嫌、ではなかったけど、恥ずかしかった、様々なことを。 「どこか痛むところはある?」 「まあ……それなりに」 「そう、だよね……ごめん」 「どうして謝るんだ。痛いけど、別に嫌じゃない」 むしろその逆で、この痛みがあるから俺は昨夜、周に抱かれたことが夢ではないと確信できるんだ。目が覚めて、もしも隣に誰も居なかったらきっと俺の願いが見せた幸せな夢だったのだろうと勘違いするところだった。 だから、身体中が痛いことも、身動き一つ取れないほど強く抱きしめられていることも、何一つ嫌じゃないんだ。 「むしろ、どうだったんだ……貴方の方こそ」 「……それ、聞くんだ」 「俺ばっかり貰っているのは気が済まないんだ」 「君だけじゃ、ないよ」 周の腕に、ぎゅっと力が込められた。強すぎず、でも決して弱くはない。逃げ出す気なんか奪ってしまう、優しい拘束だった。 しっとりとした素肌からは嗅ぎ慣れた白檀の香りがした。 「君は私の光だ。あのまま、冬の日に死んでしまうはずだった私が生きる希望を得た。誰かを好きになるとか、愛おしいと思うとか、そんなこととは無縁で生きていくと思っていたのに。今こうして君を腕に抱いている。それがどれほど幸福なことか」 「な、なにをそんな、恥ずかしいことを」 「昨夜はもっと恥ずかしいことをしたのに?」 「うっ……」 周が、どこか悪戯めいた顔で笑う。そんな表情も出来るのか。また一つ、新しいことを知った。それでも腰に回った手は俺を気遣うようにずっと優しく撫でてくれている。恥ずかしかったけど、頭がクラクラしたけど、やっぱり嬉しかった。 誰かに愛されることなんて、もう一生ないと思っていたから。 「ああ、ずっとこうしていたいな。鴉を恨む気持ちが今ならよく分かるよ」 「まだ時間はある」 「そうだね……父と母も、こんな気持ちだったのかな」 「ご両親?」 そういえば、俺と周が初めて出会った時、確か既に周は家から出ていたと言っていた。やけに上質な、だけどボロボロになっていた紅白の着物を思い出す。父も母も、居ないと言っていた。 一体何があったのか気にはなったけれど、昨夜は話す暇がなかったな。それに、触れていい話題なのかも分からない。俺にその資格があるのか、分からない。 「夜明けまで、もう少し時間がある。昔話に付き合ってくれるかい?」 「俺でよければ」 「君に聞いて欲しいんだ」 そう言われて、小さく頷く。ゆっくりと頬を撫でられる。気持ちよくて瞼を閉じると、穏やか声で周は話し始めた。 「私の実家は、多摩の奥深くにある神社なんだ。本家はとても由緒正しいけれど、うちは分家だったから本筋とはかなり離れてしまっていたらしい」 「離れていた?」 「そう。有り得ない考えが常識としてまかり通っていた。狐憑きが大切にされていたんだ。そのために大きな屋敷も作られていた。分家として、本家に負けたくないという気持ちもあったんだろう。俗世間から隔離され、狭い世界で生きていた」 狐憑きだなんて。子供の頃はまだしも、今は誰も信じちゃいない。本気で言っていると逆にその人の方がおかしいと思われる。 でも、周の生きてきた世界ではそれが当たり前だったのか。 「外から人が来ることもない。だからどうしても身内同士で結婚する。そうすることで狐憑きが生まれやすいと考えていたんだ。……本当、恐ろしい話だけど」 何と言ったらいいか分からず黙り込んでしまう。笑い飛ばすことも、同情することも、どちらも正しくないと思ったのだ。 「私の母はとても綺麗な人だった。薄い色をした瞳は、まさしく「お狐様」だと言われていたらしい。だから、祖父母は母を完璧な狐憑きにしたかった。そのために、本家の次男を婿にした。それが、私の父だった」 「政略結婚?」 「まあ、そうだね。本家の血が混ざればより強い霊力を持った子供が生まれ、その子も狐憑きになると思っていたんだろう。二人の気持ちなんか考えもせず、お互いの名前も顔も知らないまま結婚した。でも、幸か不幸か父と母は本当に愛し合うことになる」 周の母親は瞳の色が薄かったらしい。だったら、周は母親似なのかもしれない。驚くほど整った顔立ちもきっとその影響だろう。 それに、どこか世間知らずな一面があったのも、ずっと狭い世界にいたからだ。俺は周のそんなところが可愛らしいと思っていたけれど、もしかしたら周にとってみれば触れてほしくないことだったかもしれない。 「私が生まれ、その翌年には弟が生まれた。母に似た薄い色の瞳と、父そっくりの白い肌に長老たちは大喜びだったそうだ。ようやく本家を越えられる、素晴らしい狐憑きが生まれた、と」 「でも、貴方は狐憑きなんかじゃ」 「……そう。当然ながら私も弟も、極めて普通の子だった。霊力なんか持っちゃいない。占いも、幻視も、憑依も出来ない。でも長老たちは諦めなかった。元々女系の一族だから、女として育てることになったんだ。そして昔から霊力が高まると言われる秘薬も飲まされた」 「阿片とか……?」 「いいや。土地の作物で作られた酒だ。一体何が入っていたか知りたくはないけれど、少なくとも五感が鋭くなる作用があったことは事実だね」 そこでようやく腑に落ちた。周が酒を苦手としていた理由は、これだったんだ。それし少しでも酒を口にすると五感が鋭くなってしまうのも。 全て、幼い頃にされていたからだ。 「毎日、両親から引き離されて狭い部屋に入れられていた。美味しくない秘薬を飲まされ、訳の分からないことを何度も尋ねられる。分からないと言えば殴られ、適当なことを言ったら蹴り飛ばされた。夜になると親の元に返されたけれど、朝が来ればまた同じことの繰り返し。そんな日々を過ごしていた」 「そんな……」 たまらず、周を強く抱きしめる。少しでも今が幸せだと思えるように。今更こんなことしても過去は変えられない。でも、そうすることしか俺には出来なかった。 * 俺も、思い返してみれば厳しい躾をされて来たと思う。父は武士で、母は武家の娘。お前も武士の息子なんだからと礼儀作法から躾られた。それでも毎日一緒に居られたし、話しかければ優しく接してくれた。 姉も、兄も、末っ子の俺を甘やかしていたと思う。周は、それさえも受け取れなかったのか。一番甘えたい時に、両親から引き離されていた。だから、たまに俺の腕を引き寄せるのか。まるで子供みたいに。追いすがるように。遠くに行かないで、と言わんばかりに俺を引き寄せていた。 俺は、どこにも行かないというのに。 「そんなある日、長老たちが集まって何かを話していた。私は幼くてよく理解できなかったけれど、不意に母の名前が聞こえてきたからきっとこれは大切なことなんだとすぐに分かった」 そうして、周は深くため息をつく。少しだけ手が震えていた。 「無理しなくていい。苦しいならまた今度でもいいから」 「いや、話すよ。話したいんだ。君に知っていて欲しい」 「……わかった」 ここから先はきっと周の人生で一番苦しかったことなんだろう。無理に思い出して、苦しむことはないのに。そこまでして話したいという気持ちに、俺はどう向き合えばいいんだろう。 ただ抱きしめることしかできない俺は、必死になって腕に力を入れた。 「生まれた子供がお狐様じゃなかった。本家の血を入れたのに駄目だった。それなら他の血を入れたらいい。ちょうと本家にはあと一人、未婚の男性がいる。その人となら良い結果が得られるかもしれない……長老たちは、自分たちの都合で父と母を結婚させ、また自分勝手な理由で他の男を当てがおうとしていた。私が、お狐様じゃなかったばかりに」 「そんな、周は悪くないだろう!」 「うん、でも、その時はひどく後悔したよ。私に力があれば、とも思った。でもそれは父も同じだったようだ。寝室に戻ると、父と弟が揃っていて、私に座るよう言ったんだ」 幼い子供を前にして、彼の父は何を思ったんだろう。大人たちの都合で振り回される子供に、何を感じたんだろう。胸が、張り裂けそうに傷んだ。 「父が話してくれたのは簡単なことだったよ。私たちに、生きて欲しい。ただそれだけだった。もう以前から覚悟は決めていたんだろう、売れば金になるような宝物を袋にまとめていて、それを渡された。それから江戸までの地図と、何日分かの食料も。生きてさえいればきっと何とかなる。でもここに居たら生きていけない。だから逃げなさい、と」 生きろ、だなんて。それはあまりにも重たい願いだ。 「それから先のことはよく覚えていない。弟の手を握って山を降りる道まで辿り着いた時、本殿から大きな音が響いた。振り返ると大きな火柱が立っていて、建物だけじゃなく森まで燃えていたんだ。両親は、愛する人を愛したまま生きたかった。そしてこれ以上の不幸が続かないよう、命懸けで断ち切ろうとした。私と弟は、二人ぼっちになってしまったけれど」 これで終わり、と言う周は、普段とあまり変わらない表情をしていた。困ったように笑う顔も、優しく俺の髪を撫でる手つきも。何もかも、いつも通りに感じた。 でもそれが周の優しさだってことはよく知っていたから、癖のある柔らかい髪を何度も何度も撫でてやった。 * 「ごめん、聞いていて楽しい話でもなかったのに……長話をしてしまったね」 「俺の方こそ、聞けてよかった。貴方にはたくさん質問してきたのに、知らないことがまだあったんだな」 「そうだね。私も、知らないことばかりだ」 腰に触れる手のひらは優しい温かさに満ちていた。お互い襦袢だけしか身につけていないから、肌の温もりや湿り気を感じ取ってしまう。俺は、昨夜、この男に抱かれたのかと嫌でも思い知らされて、また腹の奥が熱くなる。 共寝をした後はみんなこうなるんだろうか。 「夜明けまで、あとどれくらいあるのかな」 「さあ。でも、鴉はまだ鳴いていない」 「この辺りの鴉たちは気が利くんだね」 「よく躾られているんだ」 そんな軽口を叩きながら、二人で小さくクスクス笑う。はた、と視線が絡み、それか合図だったかのようにまた口付けを交わした。触れ合うだけのはずが、いつしか深いものになっていく。昨夜の名残で腰が跳ねると、そのまま抱き寄せられた。当然のように硬くなった熱が太ももに押し付けられる。 でも、俺も同じようなもので。今はもう何も入っていないはずの後孔がはしたなく震えていて。 「困った……朝は当分、迎えられないみたいだ」 「今日くらい別に構わないだろう? どうせこれから、毎日迎えるんだから」 「そう、そうだね、うん、毎日君と迎えるんだ」 「泣くなよ、なんだってそんな、っ、ちょっと、周!? 急にどこ触って……っ!?」 結局、その日は昼過ぎまで布団から出られなかった。雲雀には心配され、女将さんには笑われ、ヨネは微笑ましそうに微笑んでいた。 気恥しいし、体はだるいし、どんな顔をすればいいか分からなかったけれど、なんだか世界は光が射したように眩しくて。ああ、ああ、これが幸福なのかとぐっと奥歯で噛み締めて。  広くて大きな、優しい世界にを羽ばたいていく気持ちになった。

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