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日曜日の朝、(まき)は黒いスーツに身を包んでいた。全身鏡の前でワイシャツの襟を直しているが、鏡に映る顔はどこか虚ろで、その指もただ規定通りに動かしているだけに過ぎない。 インターホンが鳴ると、槙は我に返った様子で顔を上げた。 「は、はーい!」 慌てて狭い部屋の中を小走りで抜け、玄関のドアを開ければ、そこには背の高い男が、爽やかな笑顔を浮かべて立っていた。 「おはようございます、坊っちゃん!」 「だから、…」 と、口に出かかった文句が抜け落ちる。満面の笑顔の前では、どんな矛も無力に思う槙だ。 槙は肩透かしをくらった気分で眉を下げると、仕方なく表情を緩めた。 「坊っちゃんはやめろって言ってるだろ、龍貴(たつき)」 「ははは、これは癖みたいなもんだから無理ッスよ」 朗らかに笑う彼は、福市龍貴(ふくいちたつき)、三十八歳。スポーツジムでインストラクターとして働いている。 明るい茶色の短髪で、鍛えられてはいるがスラリとした体格、服装はキャップにジャージ姿が多いが、そのスタイルの良さの妨げにはならなそうだ。たれ目がちの優しい瞳には笑顔がよく似合い、その人懐こく親しみやすい人柄のせいか、ジムには龍貴を目当てに女性客が多く訪れるという。 「もう出られます?」 「うん、行こう」 槙が出やすいよう、龍貴が開いたドアを押さえると、槙は礼を言いながら外に出てくる。その後に、いつもくっついてくる少年の姿がない事に気づき、龍貴は部屋の中を覗いた。 「あれ?今日は|織人《おりと》さん、いないんすか?」 「うん、日曜は朝からバイトだって」 槙は龍貴に鍵を渡すと、アパートの廊下を歩いていく。龍貴は当然のようにドアに鍵をかけると、ゆったり歩く槙の後を追いかけた。 「相変わらず働きもんすね」 「勉強もしてほしいけど、あいつの家の事情も分かってるからなぁ」 「母ちゃんの働きじゃ厳しいんすかねぇ。あのハイツなら、家賃もそんな高くないっすよね?」 アパートの外階段を下りて敷地の外に出ると、路肩に車が一台停まっているのが見えた。どこに置いても目立つ、ピカピカに磨きあげられた真っ赤なボディーを持つ車は、龍貴自慢の愛車だ。休日には、いつも楽しそうに車を磨き、愛車を走らせている。 龍貴は小走りで槙の先に回り込むと、その車の助手席のドアを開けた。 「学費とか色々あるんだろ。あいつ、自分でなるべく稼いで、早く母親に楽させてやりたいって言ってた」 「しっかりしてますね」 「…でも、将来の事とか考えるとさ」 槙は助手席に乗り込むと、シートに沈みながら呟いた。唇を尖らせ眉を寄せるのは、槙が悩む時に見せる癖のようなものだ。龍貴はそっと表情を緩めると、助手席のドアを閉め、自分は運転席に乗り込んだ。 「それは織人さんが決める事でしょ。あの母ちゃんなら、子供を縛りはしないだろうし」 「…そうだけどさ」 「その内、やりたい事も見つかるんじゃないっすか?まぁ、俺は偉そうに言えねぇっすけど」 「ううん、ありがと。さて、行くか」 「了解っす!」 槙の合図を受け、車は軽快に走り出した。 過去の話になるが、久瀬ノ戸(くぜのと)の家は、特殊な家柄だ。その家で仕事をしていた龍貴は、槙の事を、つい“坊っちゃん”と呼んでしまうように、龍貴は槙のお世話係といった関係にあった。だが、それも昔の話、今では二人は対等な立場の筈なのだが、龍貴は今でも槙には敬語を使い、当然のように荷物を持ったり、ドアを開けてエスコートしたりと、昔からの習慣はなかなか抜けないようだ。それに対しては槙も同じのようで、龍貴のしてくれる事を昔の感覚のまま受け入れてしまい、結局、世話を焼いて焼かれてという立ち位置は変わらないまま。だがそれが、この二人にとっては、互いに過ごしやすい距離感のようだ。 とはいえ、二人の間には堅苦しさはない。冗談も言い合えるし、龍貴が槙を前に無理をする事もない。ただ、今日はいつもと違い特別な日なので、槙は笑っていてもその表情はどこか寂しく映り、それが龍貴の心を落ち着かなくさせていた。 龍貴の運転で二人が向かったのは、とある墓地だった。高台にあるそこは、軽やかに春の風が抜ける気持ちの良い場所だ。 槙と龍貴は、田所という名前が彫られた墓石の前で足を止めた。 「…久しぶり、先生」 槙はそう墓石に声を掛け、手にしていた花束を手向けた。ここに来る前、近くの花屋で包んで貰ったものだ。槙には、花の名前や種類は分からなかったが、どの花も彼のように優しく微笑んでいるみたいな色合いで、きっと彼も喜んでくれるだろう、そんな風に槙は思い、そっと目を閉じ、手を合わせた。 墓石の前で膝をつき、心の中で静かに語りかける槙とは対照的に、龍貴は一歩下がった場所で手を合わせる事もなく、睨み付けるように墓石を見つめていた。だがそれも、目の前でどこか頼りなく見える背中を目にすれば、龍貴の視線も力なく歪み、悔しそうに拳を握りしめた。 槙は毎年、桜の季節にこの場所を訪れる。槙にとって、この故人、田所文人(たどころふみと)が大切な人だからだ。だが、龍貴の思いは全く違う。槙が来ると言わなければ、龍貴がこの墓の前にやって来る事はなかったし、もし文人が生きていたら、一発ぶん殴ってやらなきゃ気が済まない、そんな思いを抱いている。 それなのにと、龍貴は唇を噛みしめ、槙の背中に目を向ける。目を閉じ、心の中で静かに文人に語りかける槙の姿からは、未だに親愛の情が感じられる。 文人が亡くなってから十二年、槙のその思いは変わらない。この男のせいで、どれだけ槙が傷ついてきたか、それを知っている龍貴にしてみれば、いくら槙が許そうとも、槙を傷つけた文人は絶対に許す事の出来ない存在で。それだけ龍貴にとって、槙は大切な存在だった。 例え久瀬ノ戸(くぜのと)の家がなくなっても、龍貴にとって槙はいつまでも坊っちゃんで、いくらその肩書きが変わろうとも、槙を生涯守り抜くと心に決めている。 それは、槙が、龍貴に生きる理由を与えてくれたその人の孫だからだ。 だから、龍貴は殴り飛ばしたい墓石の前でも、黙ってその拳を握りしめ耐えている。自分がいくら許せなくても、龍貴にとって最も大事にすべきは槙の気持ちだ。その心を守る為なら、どんな事でもする、我慢くらいどうという事はない、そう自分に言い聞かせていた。

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