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「ごめん、待たせた」 それから少しして、(まき)文人(ふみと)との話を終えたのか立ち上がり、龍貴(たつき)を振り返った。 そのどこか無理したような笑い顔に、龍貴は「いいえ!」と、パッと笑顔を浮かべた。槙の前では、例え憎き相手が側にいようとも笑顔でいると決めている。そうでなければ、自分が文人を憎んでいると知る度に、槙を悲しくさせてしまうからだ。だから、気まずい思いをさせないように、龍貴は努めて明るく声をかけた。 「そろそろ腹減りませんか?どっかで食べて行きましょうか」 「…そうだな」 頷いたその表情が自然と柔らかくなるのを見て、龍貴はほっとした思いだったが、それはまたすぐにもどかしさでいっぱいになる。 槙は再び墓石を振り返ると、そっと墓石に触れた。「またね」と別れを告げる声が、墓石を辿る指先が、龍貴にはどうしても寂しく映ってしまう。 こんな時、ここに織人が居てくれたら良いのにと、龍貴はつい思ってしまう。あの少年が、槙の支えになってくれていた事を知っているからだ。誰かが槙の側に居てくれる事は、龍貴にとっては何よりも安心出来る事だった。 槙の「帰ろうか」の声で、龍貴は再び表情を明るめた。心配も不安も憎しみも、ちゃんと胸の奥に押し込める。十二年もこんな風に過ごしていれば、気持ちを押し込めるなんて慣れたものだ。槙の為を思えば自分の感情など、どうという事はない。 ただ、何事にも例外はある。 墓地の外へ向かって歩いていると、前から賑やかな声が聞こえてきた。家族のようだ、高校生と中学生の男女と母親の姿がある。その家族を目に止めて、槙は足を止めた。それは、向こうの母親も同じだった。 「お母さん、どうしたの?」 「…なんでもないわ、ちょっと車に忘れ物したから、お姉ちゃん先に進めといてくれる?」 「はーい」 姉弟は母親から桶を受け取ると、槙達の横を通りすぎていく。姉弟達は何も知らないだろうが、槙と龍貴は彼女達が文人のお墓参りに来た事を知っている。姉弟達の背中が遠ざかると、母親は何も言わずに槙に視線を向けて踵を返したので、槙は小さく肩を下ろした。深呼吸をしたのだと、龍貴は思った。 「…行こ」 「はい」 振り返った槙は微笑んでいたが、その頬は少し引きつっている。だが、それでも龍貴は、槙の様子に気づかぬ振りで頷いた。龍貴は龍貴で、繰り出しそうになる拳を収めるので必死だった。 母親が言った、車に忘れ物とは、単なる口実だ。子供達に話を聞かせたくなかったのだろう。槙にとっても、その方が幾らか気が楽な筈だ。龍貴は黙ったままの槙の背中に目を止め、胸の中に再びグツグツと沸き立ち始めた苛立ちを必死に抑えていた。 「もう、夫の墓へは来ないで頂けますか」 駐車場まで引き戻してくると、彼女は槙に背中を向けたまま、唐突に口を開いた。吐き捨てるように言ったその声は震え、その震えは、槙への憎悪からくるものだと、理由を聞かなくても分かる。 彼女は、田所実咲(たどころみさき)。先程、槙達が手を合わせた墓で眠る、田所文人の妻だ。 龍貴は槙の背中越しに、静かに拳を握った。 「毎年毎年、あの花束を見る度、苦しめられてる私の気持ちを考えた事はありますか」 「…申し訳ありません、僕はただ」 「やめて下さい!聞きたくもない!全てあなたのせいだと分かってるんですか!?主人をたぶらかして、主人を死に追いやったのは、」 「てめぇ、まだそんな事!」 「やめろ、龍貴!」 さすがにそれ以上は口にされたくないし、槙に聞かせたくない。龍貴はそもそも、実咲から出る言葉の全てを、槙には聞かせたくなかった。 龍貴が我慢の限界に声を荒げてしまえば、槙は咄嗟に龍貴の前に腕を伸ばし、踏み出す体を制した。実咲は短く悲鳴を上げ、直後、槙に対して侮蔑の視線を向けた。 「…ほら、やっぱり」 「…え?」 「そういう家の方ですもの、主人が断れないのも当然です」 「あんたなぁ!」 「龍貴やめろって、」 「あんな家潰れて当然よ、もう私達に関わらないで下さい」 実咲は憎々しげに頭を下げ、その場から立ち去った。 コツコツと、ヒールの音が空に響き、まるでそれは槙を責めているみたいだった。少し丸まった背中にこけた頬、文人の死から十二年、まだ彼女は、文人の死を過去のものになんて出来ないのだろう。それだけ、大事な人を失ったのだ。 だが、そうは理解出来ても、龍貴はどうしたって槙を思うし、槙を責める実咲を憎んでしまう。 傷ついているのは槙だって同じだ、槙だって同じだけ傷ついて、いやそれ以上に苦しんで耐えてきたのだ。 龍貴は、槙を思えば思う程に実咲の言動に腹が立ち、忌々しげに舌を打って「あいつ、やっぱりただじゃおかねぇ」なんて、ぶつぶつ言ってしまうのだが、当の槙からは力ない笑みが零れていた。 「そう怒るなよ」 ぽんと軽く背中を叩かれて、さすがに龍貴はムッと表情を歪めた。 「だって坊っちゃん、何で黙ってるんだよ!あいつ、全部坊っちゃんのせいだって決めつけやがって!坊っちゃんがどんな思いで、」 「良いんだ!」 遮る声の強さに、龍貴は言葉を飲み込んだ、飲み込むしかなかった。 「…その通りだ、先生は俺のせいで死んだ」 「坊っちゃん、それは、」 「帰ろう」 槙は笑って、龍貴を置いて歩き出してしまう。 違うと言いたかったが、龍貴の言葉はきっと槙には届かない。槙は、痛みも苦しみも周りには見せようとしない、槙が望まないのなら、龍貴はただ槙に従う事しか出来ない。 槙を見守るしか出来ない自分が、悔しかった。 それでも、龍貴が槙を信じる気持ちを手放す事はなかった。それは、十二年どころか、出会った頃から変わらない。 帰りの車内でも槙は静かで、龍貴はこれだけは言っておかないと、そう思い、勢い込んで口を開いた。 「坊っちゃん、俺は久瀬ノ戸(くぜのと)の家を誇りに思ってます!」 勢い込んで、予想外に大声での宣言になってしまった。槙は驚いて目を瞬いている。 「…なんだよ、急に」 「行く宛もなく、荒れてた俺を拾ってくれたのは、親父さんでした。俺に、坊っちゃんを守る役目をくれた。それは、俺がこの先も生きていける証なんすよ」 親父さんとは、槙の父親ではなく、槙の祖父の事だ。 槙は龍貴を見つめていた瞳を窓の外に移すと、小さく笑った。 「大袈裟だなぁー、その家だって、もうないだろ」 「あんたが生きてる限り、俺は生きていられるんだ。俺はいつだって坊っちゃんの味方ですからね」 「……」 槙は何か言おうとしてか口を開きかけたが、その言葉が声に乗る事はなく、窓の外に目を向けたまま、ズルズルとシートに体を沈めた。 「…だから、大袈裟なんだって」 その呟きが濡れている事にやはり気づかぬ振りで、龍貴はわざと笑ってみせると、自分の被っていたキャップを取り、それを俯く槙の頭に被せた。視界を覆うように被せたそれは、槙の鼻をすする音も奪っていくようだった。

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