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*** 「よっ」 「…どうも」 翌日の夜、織人(おりと)がいつものように、レストラン“クローバー”で、アルバイトをしていると、店にとある男がやって来た。その人物に目を止めた途端、織人はそうでなくても愛想の悪い顔をあからさまに嫌そうに歪めた。 「何だよ、その顔。相変わらず嫌われてんなー俺」 織人の態度にへらっと笑って見せたのは、咲良(さくら)だ。織人がどれだけ失礼な態度を取ろうが、咲良は全く気にした素振りも見せずに笑い飛ばす。そんなおおらか過ぎる性格も、織人は癪に障るというのに、それすらもどこ吹く風といった様子の咲良を見てると、苛立つ自分が幼稚のようにも思えてきて、織人は更に苛立ち舌打ちをした。 咲良は、それだっていつもの事、そんな風に思っているのか、やはり大した気にする素振りも見せずに、慣れた足取りでカウンター席に着いた。織人は仕方なくといった様子で、お冷やを運ぶ。メニュー表は、各テーブルに置いてあり、咲良はそれを機嫌良く捲っている。 「次はいつ日本を発つんですか」 「はは、帰ってきたばかりなんだけど。だから、暫くいるつもり」 織人が、チッと再び舌打てば、咲良はまたおかしそうに笑った。店には、他の客の姿があるのだが、他に人の目があろうと気にせず、織人の態度は悪くなる一方だ。 愛想が悪い、目つきが怖いと言われ続けている織人だが、さすがに他の客にまでこんな態度を取ることはない。咲良にこんな態度を見せるのも、織人は咲良の事が嫌いだからだ。なんたって咲良は、|槙《まき》にとっての心の支えだ、織人はそう思っている。 槙は、何かあれば咲良のアトリエを訪れるし、咲良は憧れなんだと、照れくさそうに話していたこともある。咲良が槙の事をどう思っているかは知らないが、慕う後輩を、あの槙を可愛く思わない筈がない…と、織人は思っている。この推察には、槙に恋する織人だからこその考えが大分入り込んでいるが、とにかく織人は、自分よりも大人で、自分がなりたくてもなれないポジションに居る咲良が嫌いだった。 更に咲良は、そんな織人の気持ちすら、棘もなく上手く拾って包んでしまうところがある。咲良はそんな人だ。だから、織人は余計に面白くなかった。 「そう嫌ってやるなよ」 「やるなよって、あんたの事だろ」 「はは、今日も噛みつくねー」 「うっせ」 「何やってるんだ、織人!」 恒例となりつつある軽口を交わしてると、厨房の奥から恰幅の良い男がやって来た。年齢は七十代半ばを過ぎたというが、しゃんと伸びた背筋や張りのある声を聞くと、年齢よりも若く感じられる。彼はこの店、クローバーの店主だ。彼は厨房から出て来るなり、一目散に織人に向かうと、勢い良くその頭を小突いた。 「いて!」 「お客様相手に失礼だろ!ったく、お前はいつもいつも」 「はは、もっと言ってやってよマスター」 「咲良、てめぇ!」 「お前は、さっさと厨房戻れ!兄ちゃん、いつもの?」 「うん」 「よし。じゃあ、こいつに腕をふるってもらうか」 「は!?やだよ、なんでこいつに!」 「だから、お客様だろ!」 やいのやいの言い合って厨房に戻る二人を、咲良は楽しそうに見送った。咲良はこの店の常連でもあり、咲良が来た時には決まって見られる店主と織人の小突き合いは、すっかりこの店の名物となっているようで、店にいた他の客達も、温かな目で織人達を見守ってくれているようだった。 「旨かったなぁ。また腕上げたんじゃない?」 「…レシピ通り作っただけだし」 「はは、そっかそっか」 何を言われても、咲良は軽やかに笑って先を行く。 バイトが終わったなら途中まで一緒に帰ろうと咲良に言われ、織人は仕方なく咲良の背中を追いかけ夜道を歩いているところだ。 織人よりも背は低いのに、咲良の背中は妙に大きく感じてしまうのはこんな時だ。誉められたら嬉しくて、嬉しいと思った事を咲良に気づかれたくないからぶっきらぼうに返すのだが、咲良はそれを分かって素知らぬ顔をしてくれる。そんな些細な事に苛立つ自分がまた子供のような気がして、と、織人の心はそんな事の繰り返しだ。 “さくら”ってのは、嫌なもんばっかだ。和菓子の桜餅すら、見るのも嫌になる。 「今年の桜は、随分粘るなー」 ふと足を止めた咲良につられて、ふて腐れていた織人も顔を上げた。街灯に照らされた桜の木には、随分葉が生い茂っているが、まだ健気に花を咲かしているのも、一輪二輪じゃない。 「…もうすぐ散るだろ」 吐き捨てるように言えば、咲良は「そりゃそうだ」と、寛容に笑った。 「…なぁ、次はどんな花を咲かせたい?」 「は?」 「春は桜だけじゃないだろ?上ばっか見てたからなー。地べたにだって綺麗な花はいっぱい咲いてる。雑草だって綺麗だ、見方を変えればなんだって綺麗に見える、知らないなんて損だよな」 咲良は笑ってそう言ったが、織人には、彼が何を言いたいのか良く分からなかった。天才と呼ばれる芸術家の言うことは理解に苦しむと、眉を寄せたが、不意に地面に散らばる桜の花びらを見ていると、なんとなくだが咲良の言いたい事が分かった気がした。 桜を見上げて思う事なんて、咲良も織人も、槙に関する事だけだ。 「…花なんか、俺よく知らないし」 「うん、俺も知らねー」 なんだよ、それ。肩透かしを食らった気分だったが、大人だと思っていた男が、悪戯っ子のような顔で覗き込んでくるので、織人は目を瞬いた。 「だから、なんでもいいんだよ。これさえあれば」 とん、と胸を小突かれ、織人は何の事か分からず、首を傾げた。

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