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時間は、放課後に三十分だけ。それでも、今までを思えば、槙には十分過ぎる時間だ。 苦手だった数学から授業は始まり、勉強はするのだが、その合間にする二人きりのお喋りが、槙の心を落ち着かせてくれた。文人の左手の薬指に指輪がはめられている事は、勿論気づいていたが、それでも目が合って、微笑まれて、どうしようもない思いは、もう引き返せないところまで来ている事に気づいてしまった。 もっと一緒に居たい、もっと知りたい、他の生徒とは違う特別が欲しい。好きだな、と胸の内で呟いた一言が、渦巻く気持ちを呑み込んで、槙の中を満たしてしまう。同性だからと、教師だからと戸惑う事もない、ただ恋してしまった人が文人だっただけ。槙の世界を変えてしまったその人に、槙の外側だけを見て否定せず、ちゃんと中身を見てくれたその人に、どうしようもなく、恋をした。 告白をしたのは、槙の方だった。 どうしても気持ちが抑えきれなくて、文人のカーディガンの袖を摘まんで、好きだと告白した。文人がいつからそう思ってくれていたのか分からない、けど、誰もいないいつもの教室で、文人は槙をその腕の中へ入れてくれた。 体の関係はなかったけれど、秘密を共有する事は胸を擽った。そっと目配せして、学校ではない二人の秘密の場所で寄り添って、唇を合わせた。 奥さんも子供もいる人、二人の未来の話は一つしなかった。それでも、ここに愛がある事は、その瞳とその手が教えてくれた。 それだけで良かった、槙は、この時間が続くだけで良かった。 天体観測の活動と称して、二人で小さな丘の上に行って、車の中で一夜を過ごした事もあった。 手を握って側にいられるだけで、それだけで嬉しかった。 「…こんなおじさん、どうして好きになったの」 「なんでかな、運命じゃない?気づいたら好きだったんだもん。先生は?」 「…生徒だと思えなくなったんだ、僕はきっと良い死に方しないな」 「何それ」 「だって裏切ってる。それでも、君といたいんだ、どうしようもないよ」 「…先生は、自分の事も裏切ってきたでしょ?女の人より、男が恋愛対象でしょ?それなら、報われてもいいんじゃないの」 槙は、文人の手を取って、その指輪にそっと指で触れた。胸の奥に、ふつふつと言いようのない思いが生まれ始めている事に気づいて、落ち着かない。 「でも、家族だから」 その言葉に、槙の指が思わず止まる。途端に、どっと大きく震えた胸に、顔が上げられない。体中に震えが起きるようで、縋るようにその手を握りしめた。 「…俺、今振られたの?」 「…振りたくないから困ってるんだ」 どうしたら、良いのかな。そう言って頭を撫でる手に、槙は胸が苦しくなって、その苦しさから逃れるように、文人の胸に顔を伏せた。優しく抱きしめてくれる腕が、こんな時ばかりはどうしても槙を寂しくさせる。 自分が好きになってしまったから、そのせいで文人に辛い思いをさせている。それでも、離したくないと思ってくれるのは、どんな種類の愛情なのだろう。もし自分が生徒ではなくて、もっと大人だったら、文人をこんな風に追いつめる事はなかったのだろうか。 未来を語れない関係に浮かぶのは、別れの言葉で。槙はそれを認めたくなくて、少しでも文人の心に自分を置いてほしくて、胸に埋めた顔を上げ、文人を見つめた。文人が見つめる瞳は、いつものように優しくて、いつもと違って少し悲しくて。槙は、その瞳に、いつかの別れを感じてしまって、その時が来るなんて想像もしたくないのに、文人の手を離す未来がどうしても頭から離れてくれなくて、その未来を掻き消すように、文人の唇に自分のそれを触れあわせた。唇はすぐに応えてくれるのに、どうしてか、ただあやされているような気になって、寂しくなる。 それでも、今は何も知らないと、槙は文人の肩に手を回して、その唇の思いを追いかけた。 二人の胸元には、夜空を閉じ込めたようなペンダントが揺れて重なり、離れていく。 まるで、槙の涙を飲み込んだように、それは暗い車内に寂しく煌めいていた。 *** 「いけない事してるのは、お互い分かってたんだ。でも、離れられなかった。俺がせめて高校を卒業したら何か変えられるかもしれないと思ったんだけど、甘かった。子供だったんだ」 槙はアトリエを離れると、|龍貴《たつき》に連絡をして車を走らせて貰った。二人で向かったのは、文人と天体観測をした小さな丘だ。そこには展望デッキが設置され、町を見渡せた。 空には雲が分厚くたれ込み、星が見える気配はない。 初夏の風は、湿り気を帯びて肌にまとわりつく。夜の闇にこのまま吸い込まれてしまえばいいのに、そうしたら、文人に会えるだろうか。 槙は見えない星の下、ネックレスを見つめながら、文人との思い出をぽつりぽつりと語っていた。龍貴はそれを、拳を握りしめて聞いていた。 「…俺の存在が、先生を追いつめてたんだ」 「坊っちゃん、違いますよ」 「でも、うちがヤクザなんかやってたから。母さんは家を出てたって、娘には変わりないんだし、俺は孫だ。誰かが俺達の事に気づいて、先生を脅したんだろ」 「噂ですよ、俺達はそんな事しません」 ぎゅっと拳が握られる気配を背中で聞いて、槙は俯いた。 「…分かってる。尾ひれのついた噂だ。先生を追いつめたのは、俺だ」 掠れる声に、龍貴は槙の肩を掴み振り返らせた。 「違います!坊っちゃん!」 泣き顔に必死に届くように声を掛けるが、槙には届かない。俯く瞳からは涙が零れた。 「…俺が、先生を死なせたんだ。殺したんだ…」 そんな自分が、やはり誰かを想っていい筈がない。

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