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*** その頃のアトリエでは、絵の具の代わりにコーヒーの香りが部屋を満たしていた。キッチンのカウンターにそれぞれ腰かけ、咲良(さくら)恋矢(れんや)の知っている限りの(まき)文人(ふみと)の話を、織人(おりと)は聞いていた。槙に長年片想いを募らせている織人には、あまり聞いていて心地よい話ではなかったが、それでも、槙をもっとよく知りたいと、その一心で辛抱強く聞いていた。 「俺と槙ちゃんは、三年に上がるタイミングで、咲良君は卒業してたよね。桜が満開の暖かい日だった。前日に大雨が降ったせいで増水した川に、先生は身を投げたって世間では言われている。家庭があるのに、生徒に手を出したから。しかも槙ちゃん家はヤクザだったから、その家に脅されたとか何とか」 恋矢(れんや)が肩をすくめ言う。その口振りでは、恋矢は文人の死の理由に疑問を持っているようだった。 「違うのか?脅されたかどうかは置いといて、自分で川に飛び込んだのは事実だろ?」 織人が分からないと眉を寄せれば、恋矢は眉を下げて織人を見た。 「事故だとは思わない?」 「え、」と、織人は目を見開いた。 「そういや、最初は事故とも言われてたよな」 「うん。それに、もし脅されての自殺だっていうなら、端から槙ちゃんに手出さないでしょ。だって先生、槙ちゃん家の事も分かってたし」 「あの頃の龍貴は、今と違って、本物だったからな」 「そうそう」 今は爽やかな風貌から、ジムで人気のインストラクターとして働いている龍貴だが、当時はちゃんとヤクザの組員に見えた。織人も当時の龍貴には会っているが、怖い人という記憶はあまりない。織人が幼かったというのもあり、一緒に遊んでくれる陽気なお兄さん、といった印象が強く、龍貴をヤクザの組員として見た事は、そういえば今までない。 今更その姿を想像しようとしても、今の槙に対する忠犬っぷりが邪魔をして、上手く想像出来なかった。 それにさ、と恋矢が続ける。 「久瀬ノ戸(くぜのと)って、そりゃ極道で、どこまでの悪事を働いてんのか知らないけどさ、そんなつまんない事するかね」 「…でも、ヤクザはヤクザだろ?普段どんな仕事してんの?」 織人の疑問に、恋矢は、うーんと唸り顎に手を当てた。 「龍貴からは金貸しとか、まぁ、水商売の運営とかやってたとかはうっすら聞いた事はあるけど、なんか突っ込んで聞くのも怖いし、あまり深くは聞けなかったな…。それにさ、先生が亡くなって数年後くらいに槙ちゃんのじーさんも病気で亡くなったから、組は間もなく解散したって話だし、そもそも龍貴が入った時だって、組員はほとんど居なかったって言ってたよね」 恋矢が問いかけると、咲良は、記憶を巡らせながら頷いた。 「うん、槙ちゃんの母ちゃんは、潰れかけてるんだから、早く組なんか解散すれば良いって、よく言ってるってのは、聞いた事ある」 「言ってたね。組がなくなってからは、実家の土地もすぐに売却してたし、借金とかもあったって言ってた」 その言葉に、織人は溜め息を吐いて肩を竦めた。 「教師を脅して金を巻き上げようとしてたんじゃないのか?」 「高校教師に背負わせて乗り切れる借金でもないだろ。もっと大掛かりな事してたら別だけど…」 「それなら、組員を減らしたりしないんじゃないの?分かんないけど。なんか、組を畳む準備してた感もあるよな」 咲良の言葉に頷きながら、恋矢はカップを揺らす。コーヒーの水面には、暫し沈黙が落ちて揺れた。 「…もし、あれが自殺でも何でもないなら、槙ちゃんが今も自分を責める事はなかったのかな」 恋矢と咲良の話に、織人はふと視線を伏せた。 槙の過去の恋しい人の話なんて聞きたくなかった、槙は今も昔も、ずっと文人に心を寄せていたから、自分では文人には叶わないと思っていたし、早く槙の元から消えてくれと願っていた。文人は酷い奴なんだ、だから早く忘れてしまえと、そうすれば楽なんだからと。 でもそれは、槙を苦しめていただけなのかもしれない。 自分のせいで死んだなんて、文人を忘れた分だけ槙はきっと、自分を苦しめるんだ。 呆然とする織人の顔が、コーヒーの水面に映る。 呼び起こされるのは、いつかの春の記憶。文人が亡くなって少しして、どこから噂を聞きつけたのか、槙の家にマスコミが押し寄せて来た事があった。高校教師が教え子と不倫し自殺、しかもその相手は男子生徒、生徒の家はヤクザの家系だなんて、マスコミには良いネタだったのだろう。 槙達母子は家には居られず、織人の母子が暮らす狭いアパートに、一時身を隠した事があった。 さすがに、槙と織人の繋がりまでは分からなかったのだろう、織人達のアパートまでマスコミが押し掛ける事はなかった。 部屋に来てから槙はずっと涙を流していて、涙を流しながら、槙や槙の母も、織人達に何度も頭を下げていた。織人には、どうして槙達が謝っているのか、その意味が分からなかったが、子供ながらに涙を流す槙を放っておく事が出来なかった。 「大丈夫だよ」と、ずっと声をかけ続け、小さく丸まった背を、いつまでも撫で擦っていた。 「大丈夫だよ、もう怖くないよ、僕がいるよ」 震える背をどうしたら守れるだろう。優しいお兄ちゃんだった槙が、織人にとって守るべき人へと変わった瞬間だった。

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