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コツ、とカップを置く音が聞こえ、織人は思い出から顔を上げた。
「まあ、織人のおかげだよ、槙ちゃんがあんな風に立ち直れたのは」
咲良の言葉に、織人は眉を寄せる。先程も、恋矢は似たような事を言ったが、すっかり自信を失くした今では、信じきれなかった。
「槙ちゃん、俺らとも暫く会ってくれなかったからな」
「ね。その内、槙ちゃんのじーさんが亡くなって、家もなくなって、学校もますます行けなくなって退学したでしょ?でもある時、ひょっこり連絡くれてね」
「そうそう、ちょっと吹っ切れた顔してたなー。夏だったかな」
「無理矢理、色んなもの押し込めて飲み込んだみたいな顔だったけどね」
二人の言葉に、織人は再び肩を落とした。
「…無理矢理かよ」
力なく呟いた織人に、二人は顔を見合せ表情を緩めた。
「無理矢理って言ってもね、力がいるもんだよ。その力は、簡単に出せるもんじゃないしね」
ぽん、と咲良は織人の頭を撫で、スツールを下りると、絵の具の匂いが渦巻く画材の前へ向かった。
織人は撫でられた頭をくしゃくしゃと掻き、その後に続いた。
***
「側でずっと、うるさいのがいてさ。ずっと、大丈夫って言うんだ。そいつだけが信じてくれてる気がして、こいつの為に、俺もくよくよしてらんないってさ」
槙が龍貴の車でやって来たのは、文人と何度も訪れた、星の見える高台だ。少し寂れた印象はあるが、ここはあの頃と何も変わらない、この場所が槙にとって大切な場所である事は、何も変わらなかった。
槙は展望テラスの手摺りに寄りかかり、空を仰いだ。
「織人さん、ずっと側に居てくれましたからね。俺、坊っちゃんが前みたいに接してくれて、嬉しかったっすよ」
「あの時はごめんな、色々。組の事も、龍貴の親父さんが力になってくれたんだろ?」
「当然っすよ。久瀬ノ戸の親父には、親子揃って恩がありますから!不良の悪ガキだった俺をまっとうにしてくれたのも、うちの会社がピンチの時に助けてくれたのも、久瀬ノ戸の親父っすから。組の方が危ないってのに、家に招き入れた奴の家族は皆家族だって助けてくれて。心強かったっすね」
「…まぁ、でかい人だったみたいだね」
槙には、あまり祖父の記憶はないが、龍貴がそんな風に言うのだから、きっと悪いばかりの人ではなかったのだろうと、槙は思う。それでも、家に苦しめられていた母親を思えば、素直にいい人なんて思えない。そして、結局自分も、母親や周りの人を不幸にする道を選んでしまった、人の事をとやかく言えないと自分を責めれば、どうしてか織人の姿が頭を過り、槙は唇を噛みしめた。
ずっと、織人は側にいた。
あの当時、騒動が落ち着いてきた頃、ちょうど織人達の住むアパートの隣の部屋が空いたので、槙達はそこに転居する事にした。その時に住んでいたアパートは、マスコミ騒ぎで暮らせなかったし、織人達が暮らしていたアパートの大家さんも、事情を知っていながら、面倒になりかねない槙達に部屋を貸してくれた。きっと、織人の母親が口添えしてくれたお陰もあるだろう。今では、槙はそのアパートを出たが、槙の母親はまだその部屋で暮らしている。その部屋で、槙の母はようやく平穏な暮らしを手に入れられたのかもしれない。
だから、ずっと織人が側にいて、槙は織人の存在に支えられていた。
アルバイトをしながら夜間の高校に入り直し、教員免許を取って、教師になって。
隣を見れば、可愛かった少年が少しずつ大人になっていて、ずっと好きでいてくれて、応えられないのに、まだ織人は手の届く距離にいてくれる。
頼っては駄目だと分かっているのに、まだあの手に縋ろうとしている。離れてほしくないと願ってしまっている。その気持ちの中に、絶対抱いてはいけない思いが混ざっている事も、それを捨てきれない事も。
「…俺、結局変わってない、ダメな奴なんだな」
「何言ってるんすか!坊っちゃんはダメなんかじゃないっすよ!そんなん言ったら、バカな俺はもっとダメな奴っすよ!」
龍貴は必死な形相で、槙の両肩を揺さぶった。真剣な眼差しは、今度こそ、この思いが伝わってくれと願っているようで、さすがの槙も、龍貴が必死に励まそうとしてくれているのが分かった。
でも、分かってしまえば自分がますます情けなくて、これ以上龍貴を心配させないように、槙は精一杯、頬を緩めてみせた。それを見て、龍貴は同じように表情を緩めた。それでも眉が寂しそうに下がっていたのは、槙がそんな表情をしていたからかもしれない。
「今日は、帰りましょう。ほら、もうこんなに冷えてますよ!夜はまだ冷えるんすからね!」
そして、もう余計な事は考えさせまいとばかりに、龍貴は槙の背中を明るい足取りで押していく。
「分かったから、押すなって!」
「もう、坊っちゃんは世話が焼けるんすからー」
「だから、坊っちゃんはやめろってば!」
龍貴につられてか、槙の口からも軽口が飛び出して、いつも通りのやり取りが戻ってくる。
その様子を見つめる姿があった事に、この時、槙達は気づかなかった。
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