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「え、なに、おれ、たんじょうび…?」 「なんで片言?ほら、立った立った」 ぽん、と、恋矢(れんや)に笑いながら背中を押され、(まき)は少しつんのめりながら部屋に上がった。後ろで恋矢が部屋の明かりを点けてくれると、部屋の全容が見えてきた。 狭い部屋の中には、キャンバスが沢山立て掛けてある。そこに描かれた絵は全て青い花で、所々に置いてある小さな丸いライトも、星飾りも、用意するのは大変だったろうと思えば、感動で胸が震えた。 「すっかり忘れてた…皆で用意してくれたの?これ、こんなに絵…」 目を輝かせながら絵に近づいたが、槙はある絵を前に、ふと首を傾げた。床に座り込んでキャンバスを手に取り、隣の絵と見比べる。同じ絵は二枚とないが、明らかに咲良(さくら)の絵のタッチと違う絵が、あちらこちらに紛れていた。 「でも、なんか咲良君にしちゃ、下手、」 「下手で悪かったな」 むすっとした声が背中に降りかかり、槙が驚いて顔を上げると、部屋の奥に隠れていたのか、いつも織人(おりと)が寝てる部屋から、その織人が不機嫌な様子でやって来た。 「え、もしかしてこれ、織人が…?」 きょとんとする槙に、織人はそっぽを向いたまま答えようとしない。 槙は驚いた顔をそのままに、手にした織人の絵を見つめた。アトリエに入り浸っていたのは、まさかこの為だったのだろうか。 「………」 そう思えば、下手だとすら思った絵が、キラキラと輝いて見えて、何にも変えがたいような感情が生まれてくる。 あんなに料理が上手なのに、同じ手を使う作業でも、絵は不得手のようだ。それでも、一生懸命描いてくれたのかと、この花畑の景色を見せようとしてくれたのかと、そう思えば愛おしい以外の感情が見当たらなくて、槙は困ってしまって言葉が出てこなかった。 言ってくれたら良かったのに。 距離を置いたのも、もしかして、今日のサプライズの為だったのだろうか。 聞きたい事があっても、どの言葉も声にならずに溶けてしまう。決して上手いとは言えない絵なのに、どうしてか、胸の奥に潜めた思いが優しく包まれていくようで、苦しくなる。 黙ってしまった槙に、織人が不安そうに視線を向けていたが、それを遮るように「はいはい!」と、龍貴(たつき)が元気良く声を上げた。 「それに、ケーキとか料理もありますよ!でも、まさか倒れたなんて…坊っちゃん体調は?」 「あ、あぁ、もうなんともないよ」 はっとして槙は龍貴を見上げたが、龍貴は槙に何か言う前に、恋矢に両肩を掴まれ、ぐるりと体の向きを変えさせられてしまった。 「そんじゃ、邪魔者は退散しますんで」 恋矢の言葉に、え、と、槙は立ち上がった。止める間もなく、恋矢は龍貴を引き摺って玄関に向かって行ってしまう。 「ぼ、坊っちゃん!無理しちゃダメっすよ!俺はいつでも、坊っちゃんの味方っすからねー…」 最後の方はドアに遮られ、龍貴の声は遠くから聞こえてくる、恋矢が急いで龍貴を連れて帰った様子が窺える。 そんなに慌てて帰る事ないのにと、不思議そうにしていれば、「いつまでふて腐れてんの」と、穏やかな声が聞こえてきた。振り返ると、咲良が笑って織人を小突いた所のようだ。槙がその様子をぼんやり見ていると、咲良は槙の視線に気づいたのか、優しく目元を緩めた。 「この絵さ、ほとんど織人が描いたんだよ。ごめんな、秘密にしてて」 「う、ううん!」 「サプライズにした方が驚くだろって。桜の上書きが出来るかなってさ、満開のネモフィラの花畑だ」 咲良の視線に導かれ、槙は再び絵の数々に目を向けた。咲良は、ぽん、と槙の肩を叩くと、部屋の明かりを消した。あ、と槙は咲良を振り返ったが、既に玄関のドアは閉まっている。 お礼を言いそびれてしまった。申し訳なく視線を部屋に戻すと、再び目の前には、夜空の下に花畑が広がっていた。 なんだか、香る筈のない花の香りまで感じられそうだ、花の香りなんて知らないのに、おかしなものだなと、槙はようやく表情を崩した。 「…織人が描いてくれたのか、凄いなこんなに沢山」 「どうせ下手だよ、咲良のようには出来ない」 ふいっと不貞腐れたように顔を背けた織人に、槙は笑って、織人の側に歩み寄った。 「当たり前だ、相手はプロなんだから」 こんな言葉では、織人の慰めにはならないのだろう。床に座り込んだ不貞腐れた背中を見ていたら、なんだか胸が苦しくなって泣きそうになる。 織人が離れてしまうのが寂しいとか、自分の事しか考えていない自分が恥ずかしい、織人はずっとこちらを見ていてくれたというのに。 それが、こんなに嬉しい。嬉しくて、涙が溢れそうで、槙は泣きそうになるのを必死に押し込め、織人の背中の後ろにしゃがんだ。 「…俺の為にありがとう。あの…避けてたのも、これが原因だったりするの?」 ぽつぽつと尋ねれば、織人は少しだけ後ろを向いたが、またふいっと顔を前に戻してしまった。 「…なんか、話したくなりそうだったから」 その不貞腐れたような言い方が可愛くて、槙はそっと頬を緩めた。 「はは、大変だった?」 「…あんたの為だから」 ちらと、こちらに視線を向けて、不意打ちでそんな事を言う。その照れくさそうでありながら、熱を宿した瞳が槙を心ごと捕らえるものだから、どきりと胸が震えて、槙は慌てて視線を絵に向けた。 「…えっと、ネモフィラって言うの?この花」 「…誕生花でもないけど、五月頃に咲くみたい」 「へぇ…」 織人は再び顔を前に戻して、「…たまには良いだろ」と、ぽつりと呟くので、槙は「え?」と、顔を上げた。 「桜じゃなくて、他にも花は沢山あるんだし、あいつだけじゃなくて、あんたを思ってる奴はいるんだし。今、生きて、いるんだし」 言いながら顔を俯けていく織人に、槙は途端に胸が騒いで、膝の上でぎゅっと握られた織人の手を見つめ、同じように自分も手をぎゅっと握った。 「…織人、も?」 手を伸ばしてはいけないのに、手を伸ばしたくなる。そろりと振り返った瞳は不機嫌に歪んでいたが、それが照れ隠しだと、どうして気づいてしまったんだろう。 「…当たり前だろ、ずっとそう言ってるじゃん」 不貞腐れたように見えるのは、きっと照れ隠しの延長で。織人の言葉に込められた思いは、まっすぐ槙へと降り注いでくる。織人は、またすぐに、ふいっと顔を正面に向けたが、星空が見つめるその下で、槙は嘘なんかつけなかった。 槙は胸元のペンダントを握り、織人の背に額を寄せた。突然の接触に驚いてか、織人は小さく肩を跳ねさせたようだった。

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