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「…お母さんに今日の事は?」
「言える訳ないじゃない」
「…裏サイトに書き込んだのはどうして?」
「言ったでしょ、母を苦しめたって!」
その言葉に、槙 は胸を詰まらせ、ぎゅっと膝の上の拳を握った。
「だから、教師を辞めさせようと思ったの?」
咲良 の問いに、ひなは顔を上げた。その顔には、戸惑いが滲んでいた。
「…こんな大事になるとは思わなかった」
ひながそう呟けば、織人 が店長の腕を振り払って厨房から飛び出して来た。咲良は困った顔で立ち上がり、ひなに飛びかからんばかりのその体を止めた。
「思わないって、普通考えれば分かるだろ!」
「こらこら、織人、黙っとけ」
「黙ってられるかよ!言いたい事言いやがって!こいつは、」
「織人!」
咲良に真正面から両肩を掴まれ、織人はようやく咲良に目を向けた。咲良の訴えるような眼差しに、織人は言葉を詰まらせ、「分かってる」と視線を俯けたが、その声には、抑えきれない苛立ちが滲んでいた。
飛び出して来た織人に、ひなはさすがに怯んだ様子で、それが引き金になったのか、やがて堪えきれなくなったかのように、声を張り上げた。
「だって…だって!じゃあどうすれば良かったの!あんたとお墓で会ってから、お母さんまた体壊したんだよ!?」
ひなの泣きそうな叫びに、え、と槙は顔を上げた。
「倒れて、動けなくて、どんどんおかしくなってるのに、なのにあんたは、父さん殺しておいて、のうのうと生きてさ、今度は生徒に手を出して、」
「てめぇ!」
「やめろ、織人!」
「私は何も覚えてないのに!まだ三歳で、弟なんて一歳だった。だから何も分かんない、父さんは突然いなくなって母さんは毎日泣いて、無理して夜通し働いて!なのにあんたは何も罰せられず普通に生きてて!」
「普通な訳ないだろ!」
咲良の腕を振り払い、織人がひなに掴みかかろうとするので、槙は焦ってその体を後ろから止めた。
「こいつがどれだけ傷ついたか、お前こそ知らないくせに!なんでこいつばっか責めるんだよ!ただ好きになっただけだろ!責めるなら、手ぇ出したお前の父親にだって責任あるはずだ!あることない事言って、いまだこいつを縛って苦しめてんのはあんた達の方だ!」
「だってこの人の家が!」
「お前の父親が、槙の家がヤクザだって知らない訳ねぇだろ!こいつの担任だぞ!知ってて手ぇ出してんだよ!それに、槙の家に出入りしてたのは|龍貴《たつき》だけだ!あいつが組の奴らにそんな事言うかよ!誰がそんな教師脅すんだよ!組はほとんど終わってたってのに!槙が教師になったのだって、戒めの為だっていうのに!」
「や、やめてくれ、織人」
か細い声に、織人はようやく槙を振り返った。槙は青ざめ、それから織人を退けると、再びひなに頭を下げた。
「申し訳ありません、俺の言い分は聞かなくていいです。俺の存在があなた達を苦しめていた事に変わりありません。俺が、先生を追い詰めたんです。俺が憧れたりしなければ、苦しめる事はなかった。本当に申し訳ありませんでした」
謝って許される事じゃない、だけど、これしか方法を知らない。ひなの気持ちが救われる訳でもないだろうが、それでも槙には頭を下げるしかなかった。
「…そんな風に謝って、その“先生”はどう思うんだよ」
織人は吐き捨てるように言うと、厨房へ戻っていく。その言葉に反応したのは、槙だけでなかった。
ひなも何故か戸惑いを浮かべているようで、咲良はふと眉を寄せた。
「…先生は、本当に自殺だったのかな」
その呟きに、ひなは恐々と咲良に視線を向けた。
「俺も、槙ちゃんとは学年違うけど、先生の生徒だったからさ。絵ばっか描いてた俺の事気にかけてくれたし、卒業してからも連絡は取ってたんだ。まだ小さかった君の事も話してたよ」
咲良の言葉に、ひなは、え、と目を丸くした。それは槙も知らなかったようで、言葉なく咲良を見れば、槙の視線に咲良は少し居心地悪そうに眉を下げた。
「…娘も息子も可愛くて、日に日に大きくなるから目が離せないって。成人したら一緒に酒飲みたいとか、嫁に行かせたくないとか。…まさか、裏で槙ちゃんとくっついてるとは、その時は思ってもいなかったけど」
「………」
視線を戸惑いに揺らすひな、槙はどこか呆然として力なく椅子に座り込んだ。
「…俺との未来は何も話してくれなかった。当然だよな、手を繋いで、お喋りして。今思えば、先生は俺の思いを、自分の生徒だからって受け止めてくれただけだったのかも。暴走しないように、手綱を引くみたいに。…本気でも、火遊びでもない、先生は先生だっただけかもしれない」
「それは…」
力なく言う槙に、咲良は返す言葉に迷っているようだった。ひなを前に槙をフォローする訳にもいかない。槙は咲良の様子に気づくと、ごめんと眉を下げた。
「…なら、どうして父さんは死んだの?」
「警察が自殺って発表した。でも本当かどうかは分からない。槙ちゃんと先生の事がばれる前は、事故だって発表されてたから」
「え?」と声を上げたのは、ひなだった。わざわざ|実咲《みさき》が、二転三転した経緯をひなに話す事はないだろう、槙の事なんて思い出したくもないのだから。槙はそう納得したが、咲良はひなの様子を見て、意を決した様子でひなの傍らに腰を下ろした。
「ねぇ、何か分からないかな?先生の日記とかなんでもいいよ、先生の気持ちが分かる物とかないかな?自殺じゃないって理由がどこかにあるかもしれない」
縋るようにも見える咲良の言葉に、ひなは戸惑いを滲ませる。
「…父さんの遺品は、母さんがしまってるから。そういえば、一度も見せて貰ってない。私も見せてって言えなかった、母さんが辛そうで」
「それ、見せて貰う事って出来ないかな」
「は?」
咲良の言葉に、ひなは眉を顰め、さすがに槙も驚いて、血の気を引かせた。
「咲良君、何言ってんの!」
「だって、槙ちゃんの事が警察やマスコミの耳に入るまでは、事故って言われてたんだよ?俺は先生が自分から死ぬような人とは思えない。先生がそんな意思はなかったって、もしかしたら分かるかもしれないだろ?」
「いや、だからってさ図々しすぎるよ。それに何か見て分かるなら、奥さんがもう気づいてるだろ」
「でも、」
「分かった」
ガタッと音を立てて、ひなは立ち上がった。
突然の事に、槙と咲良はきょとんとしてひなを見上げた。
その時、槙はひなと目が合い、その強い眼差しに目を瞪った。
「その代わり、あんたも来て」
「え」
「…来て」
まるで懇願するような眼差しに、槙は瞳を揺らした。ひなが何を考えているのかは分からない、だけど、助けを求められているような気さえして、槙は戸惑いつつも頷いた。
「…分かった」
槙が頷けば、ひなはどこか安堵した様子で肩を落とした。
「なら、今からでもいい?今日は、皆おばあちゃん家に居るから」
今から。急な展開に、槙は戸惑いを浮かべたが、それでもひなの気持ちを無駄にはしたくなくて、槙が咲良に視線を送れば、咲良も視線を合わせて頷いてくれた。
「これで、はっきりするな」
「お、織人…!」
堂々と言ってのける織人に、槙はやめてくれと、焦って声をかけた。
遺品を見たからといって、文人の思いが明らかになるかは分からない。突発的に川へ入ったなら、何も残していない可能性もあるし、何か思いを記したものがあったとしても、やはり槙が文人を追いつめたんだと知る事になるかもしれない。
「何だよ」
だが、織人はそれでも、槙のせいではないと思っているのだろうか。こちらを見下ろす眼差しからは、揺らがない思いが伝わってくる。大丈夫だと、恐れる事はないと言ってくれているようで、槙は何だか泣きそうになってしまう。
織人がいてくれるだけで、こんなにも心強い気持ちになる。
「…ううん、」
その先は言葉にならず、槙は涙を飲み込むと、一つ頷いて、ひなに向き直った。
そして、槙達は、ひなの家に向かう事となった。
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