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ひなの家には、槙と咲良で行く事になった。織人も一緒に行くと言い張ったが、仕込みの仕事があるのでお留守番となった。それに、また織人がひなに掴みかかろうとしても困る、クローバーの店長は、それを見越して引き止めてくれたのかもしれない。因みに、移動の為の車も、クローバーの店長が貸してくれた、何から何まで世話になりっぱなしだ。 運転は咲良がしてくれる事になった。助手席には|槙《まき》が、後部座席にひなが座った。 ひなから住所を聞いて、咲良がナビに入力していく。槙が文人の家に行くのは初めてじゃない、文人の死後、門前払いで終わってしまったが、何度か訪ねた事がある。 その時に、文人が天体観測と称して連れて行ってくれた丘が、文人の家の側にあった事を初めて知り、少し複雑な思いに駈られたのを覚えている。自分と来たなら、きっと家族とも来ているだろう。自分だけの特別な場所ではなかったのだと、そんな事当たり前なのに、それがどうしてかやはり寂しく思えて仕方なかった。 車の中では沈黙が怖くて、槙の手は自然とペンダントに向かう。文人の家に行くのが怖かった。自分は行くべきではないと、幸せだった家庭に上がり込んではいけないと思う傍らで、ちゃんと文人の気持ちを確かめたい思いもある。しかし、幸せな家庭を壊した元凶でもある槙を、どうして家に上げるのを許してくれたのか、槙はひなの気持ちが分からず、かといって聞き出すのも気後れしてしまい、結局口を閉ざすばかりだった。 「お母さん体調悪いって言ってたけど、おばあさんの家にいるのは、そのせいなの?」 そわそわ落ち着かない槙に、ただ黙って窓の外を眺めるひな、そんな二人の様子を見てか、咲良がそっと尋ねれば、ひなは窓の外を眺めながら答えてくれた。 「…うちにいたら嫌でも父さんの事思い出すからって、弟と一緒におばあちゃん家に行った」 「君は?」 「私は家にいるけど、今はこっちの友達の家にいる。中学の友達がいるから」 「槙ちゃんの学校の生徒?」 咲良の問いかけに、ひなは躊躇いを見せたので、咲良は「大丈夫だよ」と笑った。 「その子を叱ろうとかそんなんじゃないから。槙ちゃんが|咲蘭《さくらん》の教師をやってる事とか、どこで知ったのかと思ってさ」 咲良の軽やかな声に、ひなは躊躇いながらも、ぽつりぽつりと口を開いた。 咲良は飄々としたところがあるが、隣りに居て感じる空気感は穏やかで、受け入れてくれるような優しさがある。これが大人の包容力だろうかと、槙はいつも甘えて寄りかかりたくなってしまうのだが、ひなもそれと同じようなものを咲良に感じているのかもしれない。 「…お墓参りですれ違った時、お母さんの様子がおかしかったんだけど、何も教えてくれなくて、でもその後、どんどん様子がおかしくなっていって」 ひなはそこで溜め息を吐き、窓の外へ向けた視線を槙に向けた。 「…あの丘に、いたよね」 あの丘とは、文人が天体観測と称して連れて行ってくれた丘の事だろう。槙がその丘に行ったのは、龍貴の車で行ったのが最後だ。体育祭の前、織人に避けられていると感じていた頃だ。 「…あの丘、お父さんが好きな場所って聞いてたから、私も何かあると良く行ってた。そしたら、あんたを見かけて、お墓参りに来てた人だって気づいて。それで、お母さんがおかしくなっのは、あんたに会ったからだって気づいた」 バックミラー越しにひなと目が合い、槙は思わず目を逸らした。ひなはそれには何も言わず、そのまま話を続けた。 「…でも、お母さんは何も教えてくれないから、おばあちゃんに聞いた。そしたら、あんたからの手紙、おばあちゃんが一通だけ持ってて、咲蘭の教師だって知って。中学の友達が通ってるから聞いてみたら、あんたがまだ咲蘭にいる事が分かった。それで、あんたの事、色々調べた」 過去の事は、祖母からの話や、ネットで調べれば分かる事だろう。現在の槙の事は、尾行をしたり、友人達から話を聞いたのだろうか。自分がそこまでひなを突き動かしたのかと思えば、槙は顔を上げていられなかった。きゅっとペンダントを握り俯く槙の姿は、隣に座る咲良にはどんな風に見えただろう。咲良は槙の姿を一瞥し、少し眉を寄せて前を向いた。 「…それで仕返し?」 その声に、いつもは見えない怒りが含まれている気がして、槙は困惑して咲良に視線を向けた。表情からは読み取れないが、やはり怒っているように見える。自分の為に怒ってくれているのだろうか、だとしたら、咲良の気持ちは嬉しいけど、怒ってもらう資格は自分にはない。槙はそんな思いで口を開きかけたが、それはひなの声によって遮られてしまった。 「…悔しかったのは本当だけど、怖かったから」 思いがけない言葉に、槙は思わず後部座席を振り返った。 「…お母さん、ちょっとおかしい事言って泣いてたから」 「おかしい事って?」と、咲良も戸惑いを滲ませつつ尋ねると、ひなは唇を噛みしめて俯いた。 「…お母さんのせいじゃない、きっと。悪いのはあんたなんだから」 ひなは咲良の問いには答えず、その視線を窓の外へ向けた。 それからひなは、何を聞いても答えてはくれなかった。 ひなの家は、住宅街の中にある、二階建ての一軒家だ。建物の外壁はグレーで、玄関前にはポーチがあり、敷地を囲う白い壁に、胸の高さ程の門扉がある。駐車スペースが建物の隣にあるが、車は実咲が使って出て行ったのか空っぽだった。 家の近くにはパーキングがあるので、槙達はそこに車を停め、家の前までやって来た所だ。 ひなが玄関ドアの鍵を開けている間、槙はその手前、門前で立ち止まった。とても入れるような気持ちにはなれなかった。 「…俺、外で待ってるよ」 そう呟けば、ひなが「は?」と、苛立ったように振り返った。 「あんたも来てって言ったじゃん」 「いや、でもさ、」 「でも、なに?」 「………」 問い詰められ、槙は自然と俯いた。 文人の気持ちがどうあれ、槙が文人とそういうつもりで付き合っていたのは変わらない。自分は文人の不倫相手だ、それも文人の死の原因を作った男だ、そんな自分が、文人が家族と共に築いた家に上がるなんて。家族の幸せで満ちていた家に自分が踏み込んでしまったら、綺麗な思い出までも汚してしまうのではないかと、どうしても足を踏み出す事が出来なかった。 それに、ここは、何度も実咲に突き返された場所だ、例えひなが許しても、実咲が許さないだろうし、彼女が不在の中で上がり込むのは、良いものとは思えなかった。 躊躇いに下がる槙に、ひなは怒った顔をして門まで戻ってくると、その手首を掴んだ。驚いて槙が顔を上げれば、こちらを睨むひなと目が合った。ひなは怒っている、苛立っている、泣き出しそうなのを必死に我慢して、この手を掴んでいる、そんな気がして、槙は言葉を失った。 「大人なんだから、しっかりしてよ!私が来てって言ってるんだから!」 許せないはずの手をぐいぐいと引いて、ひなはドアを開ける。槙はひなの行動にそれでも躊躇い、縋るように咲良を見れば、咲良は苦笑い、槙の視線に頷いて返した。それは、ひなに従った方が良いと言っているようで、槙はまだ戸惑いを抱きつつも、それでも意を決して家に上がった。 「誰もいないから、遠慮しないで。正直、私も怖いんだ」 玄関に上がれば、部屋の中がきちんと掃除や手入れが行き届いているのが分かった。きっと、いつ来客があっても困る事はないだろう。母である実咲の丁寧な暮らしが、娘のひなにも受け継がれているのかもしれない。 文人が亡くなって、今もその苦しみを抱えている。彼と共に過ごしたこの家は、きっとその当時のままなのだろう、そう思うと、実咲の文人に対する愛情がこの家に満ちているように感じられて、槙の胸を苦しくさせた。 「綺麗にしてるんだね」 「私も今は友達の家に泊まってるけど、掃除とか風通しにちょくちょく来てるから」 「そうなんだ、偉いね」 「…別に。その…二階は私達の部屋とお母さん達の寝室で、父さんの書斎が一階にあるの」 感心した様子で咲良が褒めれば、ひなは照れくさかったのか、不機嫌な様子で説明してくれる。そのあからさまな様子に、咲良は肩を竦めて槙に目配せするので、槙は少しだけ胸の強ばりがほどけたような気がした。 廊下の突き当たりにその書斎はあった。部屋のドアを開ければ、目の前にはデスクがあり、壁には本棚がある。デスクは磨かれ、筆記用具がきちんと並べられており、本棚の本も埃が被る事はない。 六畳の書斎は、今も主が帰ってくるのを待ちわびているようだった。

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