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「部屋は自由に入れるんだ、本棚の本とか好きに見て良いって。でも、本棚の裏の押し入れは開けちゃダメって言われてる」
「これを動かすのは、一人じゃ無理だな」
咲良 は本棚を軽く押してみるが、びくともしない。
重たそうな本が詰まっているせいもあるが、棚自体が重厚感のあるもので、何も入っていなくても見た目から重そうだ。彫刻が彫られているので、お洒落なアンティークに見える。動かすとなれば、男性でも一人では苦労しそうだし、ひなの細腕では無理難しいだろう。実咲 も、親族や友人の手を借りたのかもしれない。
なるほど、ひなが来いと言ったのは、この本棚のせいもあるのかもしれない。槙 と咲良はそう納得し、ひなの指示に従って、本棚の移動に取りかかった。
一旦本を取り出してから、床を傷つけないように、本棚を慎重に動かした。やはり棚自体もずっしりと重く、床には幾つもの傷が見えた。実咲が、或いは生前の文人が動かしてつけた傷だろうか。
「…こんな事して、本当に大丈夫かな」
やはり、後ろめたさが勝る。槙が不安に呟くが、ひなは怯む事なく閉ざされた押し入れに向かった。
「母さんがいたら出来ないもん。それに、私じゃこれ動かせないし」
「弟は?」
「頼めるわけないよ」
ひなは自嘲した。咲良も、そりゃそうだと、余計な事を聞いたと頭を掻いた。弟には、あまり知られたくないだろう、父が生徒と不倫していたなんて、それも男とだ。そして、それを理由にこの世を去ったなんて。
槙は押し入れからは目を背け、ひなと咲良の背中を見つめた。決めた決心は揺らぎ、どうしても文人の思いに触れる勇気が出ない。文人が自分に対してどんな思いを持っていたのか、見るのは怖いし、ひなや実咲の事を思えば、自分が触れてはいけないもののような気がしてしまう。
躊躇う槙とは対照的に、ひなは黙々と押し入れの中の物を出して、咲良もひなの指示に従いながらそれを手伝っていく。出てきたのは、幾つかの衣装ケースや段ボール箱だ。
「これが、多分遺品だよ」
「あっちの机の中は空?」
「何度も見てるけど、筆記用具くらいしか入ってなかった。だから多分、こっちに全部片したんだと思う」
ひなは答えながら、段ボール箱を開けていく。中には、文人 のコレクションなのか、ミニカー等のオモチャや、天体観測部の活動でも見かけたノートの束や、授業に使う道具なども出てきた。
二人が懸命に何かないかと探す横で、槙は二人がよけたノートを一冊手に取った。星の観測日誌だ、綺麗な文字が懐かしく、文章を目で追えば、文人の声が蘇ってくるようだった。
いつだって、文人はまっすぐと愛情深く見つめてくれて、優しい手に触れられれば、それだけで不安なんて消えてなくなった。
未来なんていらない、この時が続けばいいなんて、そんな事を望んだから、文人はいなくなってしまったのだろうか。
槙はペンダントを握りしめ、床に膝をついた。思い出が文人の香りを蘇らせれば、溢れる思いを止める事なんて出来なかった。
「…ごめん、先生、」
お揃いのペンダントの片方は、どこかへ消えてしまった。いくら握りしめ願っても、この思いは文人にはもう届かない。文人がこんな自分を見たら、どう思うだろう。いくら願っても、夢枕にすら立ってくれない。やはり文人も、自分を恨んでいるのだろうか。
踞る槙を、咲良が言葉もなく、ただその背を撫でてくれる。
「…ごめん、俺、」
「謝るな、いいんだよ」
優しい声に、槙は涙の止め方を忘れてしまう。ぼろぼろ涙を流す槙に、ひなは何も言わなかった。唇を噛みしめて、ただ懸命に手を動かしている。小さな背中は、槙を責めるでもない、受け止められる訳でもないだろうに、槙の存在を、その思いすら許してくれているような気がして、槙はぐいと涙を拭った。
「ごめん、大丈夫」
泣きたいのは、ひなの方だろうに。そう思ったら、泣いてなんていられないと思い直す。槙はどこまでも弱い自分を叱咤して、大事にノートを床に置くと、段ボール箱の前に膝をついた。
「無理しなくていいよ」
「…ううん、俺も手伝わせて」
自分もきちんと向き合わなくてはいけない。ひなが向き合おうとするものから、逃げてはいけない。
「…ありがとう、泣いてくれて」
そんな槙に、ひなは顔を上げないまま、ぽつりと言った。
それは、ひなが槙に言うには見当違いの言葉かもしれない、けれど、文人を思う気持ちは同じだと、その一点だけでも、槙の思いを受け入れてくれたようで。
槙は何も言えないまま、同じように俯いて、涙が溢れそうになるのを必死に堪えていた。
衣装ケースを含め、文人の遺品を改めていく。手紙の束や、星に関わるグッズ、昔は音楽をかじっていたのか書きかけの譜面もあったが、文人の思いを測れそうな物はない。あるとすれば、ひなや弟が描いたであろう絵や、作文、工作、それらは文人へと贈られたもので、文人が大切にしてきた物だ。きっとここにあるのは一部で、この押し入れ以外にも、それらは大事に保管されているのだろう。
家族への愛を知る一方で、槙に関わる物は、何一つ無かった。手紙というには大げさな、こっそり交わしたメモのやり取りも、写真も、お揃いのペンダントも見当たらない。
文人は、槙に関わる物は、全て処分したのだろうか。
それが当然だと思う反面、槙は正直ショックだった。ばれてはいけない秘密の関係は、やはり文人にとっては負担でしかなかったのだと、そう思わざるを得なかった。
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