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*** 二人が帰ってきたのは、咲良(さくら)のアトリエだった。 黙々と歩く織人(おりと)について来た(まき)は、織人が咲良に用があると思っていたのだが、アトリエに、その咲良の姿はなかった。 「あいつ、もう行ったみたいだ」 カウンターの上に置いてあったメモ用紙を手に、織人が言う。 咲良が今日出発するとは聞いていなかったので、槙は拍子抜けだった。だが、泣きはらした顔を咲良に見せないで済んだのは、少しほっとした。アトリエでも散々泣いたのだ、また泣いたと知られたら、いい加減咲良も呆れるだろう。 「言ってくれたら、見送りに行ったのに…」 いや、心弱らせて泣いてる人間に、咲良も何も言えないだろう。もしかしたら、自分のせいで咲良の出発を遅らせた可能性もある。だから、咲良は織人に連絡を入れたのだろうか。ちらと、槙が織人を見上げると、織人は不機嫌そうに槙を見下ろしていた。 「な、何?」 「…ここに住んでるんだろ?」 思わずたじろいでいれば、思わぬ言葉が返ってきて、槙はきょとんとした。 「え?俺は親の家にいるよ」 「…は?あいつ、槙はここに住んでるって、さっき言ってたぞ」 「なんでよ、合鍵は持ってるけど…たまに来るよ?これからも換気とか頼まれてるし…まぁ、住んでも良いとは言ってたけど…今日は泊まらせて貰おうかな」 目を腫らしている姿は、母親には見られたくないし、また要らぬ心配をかけてしまうだろう。 槙が苦笑いながら言えば、織人はあからさまに安堵した様子で、大きく息を吐いた。 「なんだよ…焦って損した」 「はは、焦る事じゃないだろ」 「焦るだろ。あんたは命の危機とか言うし、同居してるって聞いて…パニックになるだろ普通」 「命の危機は…でも、本当お前は、なんで俺なんかにそんな、」 そこまで言いかけて、先程織人にプロポーズされた事を思い出し、槙はなんだか途端に恥ずかしくなって、焦ってキッチンへ向かった。 「じ、時間あんの?何か飲む?」 「…いや、いいよ。今日は帰る」 「そっか、ごめんな…あ、いや、…ありがとう」 顔を上げられず俯いたまま礼を言えば、ふと視界に夜空が映った。文人とお揃いのペンダントだ。それを見て、一瞬、時が止まったような気がしたが、織人に腕を引かれたので顔を上げると、不機嫌な顔をした織人と目が合った。 「おり、」 何で怒っているのか、槙が困惑してる間に、腰がシンクに当たった。いつの間にか、シンクと織人の間に閉じ込められている。え、と、驚きに固まっていると、そのまま影が降り注ぎ、槙は咄嗟に織人の顔を両手で押さえた。 「バッカ、お前!バカ!何してんだよ!」 ぐい、と両腕を突っぱねれば、今度は簡単に織人を引き剥がせた。 唇が間近に迫る突然の接近に、嫌でも胸が音を立て、顔が真っ赤に染まり熱くなる。槙は織人と距離を取る為、慌ててカウンターの外へ回り込んだ。 織人は首の後ろに手をあて、悶えているようだ。思い切り腕を突っぱねたので首を痛めてしまっただろうか、いや、今は自分の身の心配、いやいや、それよりも、自分と関わりを持ったら織人の方が大変だと、槙は心配が渋滞を起こして軽くパニックを起こしていた。 「いってぇ…なんだよ、もう教師と生徒じゃないんだし、一度してるし」 「して…!いいわけあるか!元教師と卒業前の教え子だし、その前に、…そうだよ!俺はお前と付き合うなんて、その、」 言いながら織人と目が合って、どくどくと騒ぐ心臓に、今度は別の意味で泣きたくなる。 だんだんと尻窄みになる声に、槙は織人の顔を見ていられず、視線を逸らした。上手く言葉が出ない槙をどう思ったのか、織人はふと、カウンターの上にはりついた槙の手に触れた。びくりと槙は肩を震わせたが、織人の手は槙の手を掴む事はなく、囲うように重ねただけで、逆に逃げる気を失わせてしまった。 「それでも俺は、あんたが好きだ」 視線を合わせないまま、織人が言う。拗ねているようにも見えたが、その声は不思議と槙をすっぽりと包んでしまった。 この心から何も引き剥がさず、どくどくと跳ねる心臓も、触れる手の戸惑いすら受け止めようとしているかのようで、槙は織人の手の下で、困って手を丸めた。 「…そ、それを言うなってば、その、だから、あんな事があったばっかりで、それに、学生に手を出せる訳ないだろ、ついこの前まで俺はお前の先生だったんだから」 それでも頷く事は出来なくて、どうにか反論すれば、織人は再び不機嫌に目を細めた。 あんたは教師と付き合ってたくせに、なんて言われそうだったが、織人は何も言わず言葉を呑み込んだようだ。 小さな溜め息が聞こえ、槙は視線を逸らした。そのまま織人の手が離れていくと、思わず目で追いかけてしまい、あぁ、これがいけないんだなと、不意に思った。 学生の自分は、文人の負担でしかなかった。分かっていながら、追いかけてしまった。 あの頃から自分は、何も変わっていない。 これじゃまた、織人の負担にしかならない、分かっているのに、また追いかけている。 槙ははっとして目を逸らした。同時に引っ込めた手がペンダントに触れそうになった所で、「じゃあ」と織人がその手を掴んだ。 「学生じゃなきゃ、いいんだな」 「え?」 織人はカウンターに手を掛け、まだムスッとした顔のまま、槙の顔を覗き込むように見つめた。 「悪いけど俺、本気であんたを貰いにくるからな」 そう真っ直ぐと見つめられれば、その瞳から目が逸らせなくなる。 今度こそ返す言葉を失っていると、織人はそっと視線を外し、槙の胸元に揺れるペンダントに目を止めた。槙がそれに気づき、思わず織人の手をほどこうとすると、織人はその手を引き寄せ、槙の肩に額を寄せた。 「お、織人、」 「だから…だから頼むから、俺が大人になるまで、誰かのものになんないで」 願うように、必死ともとれるその声に、どうしてこんなに好きでいてくれるんだろうと、胸が震えてしまう。 織人の髪が頬を擽り、その柔らかな温もりに満たされて、思いが溢れていくみたいで。 「…お前以外誰がいるんだよ、こんな物好き」 「あんたが気づかないだけだよ。すぐに大人になる、だから待ってろよ」 「…気長にね」 「すぐだっての!」 織人は勢い良く顔を上げると、槙の頬を両手でむぎゅっと挟んできた。 「余裕でいられんのも今の内だからな!」 今だって、余裕なんかない。 泣きたいくらい胸が苦しいのに、人の顔を見ておかしそうに笑う織人につられて笑ってしまう。 こんな風に幸せでいいのだろうか。 いつだったか織人の母に、「嫌なら追い出して」なんて言われたけど、こんなのもう手放せそうもない。 未来のある少年の手を、分かっているのに、その隣りに立つ自分を望んでしまう。 「…待ってるよ」 そう呟いた言葉は、織人の腕の中で再び涙に変わった。空に昇ったこの思いは、文人にどう聞こえただろう。織人と未来を生きていいと、言ってくれるだろうか。 二人の間に、夜空が揺れる。 槙の涙に濡れたペンダントは星を一つこぼして、ただ静かに二人を見守っているようだった。

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