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「槙 」
不意に名前を呼ばれ、槙は瞬時にそれが理解出来ずに固まった。名前を呼ばれた、その声は、どの国に居ようと、何をしていようと、槙の側に、心の中に、ずっと変わらずあったものだ。だが、おかしい。その人はここには居ない筈だ、文人 の墓前には、今は自分しか居ない筈だ。槙は困惑しながら、そっと振り返った。
しゃがみこんでいたから、振り返った先にはその人の靴先が見える。その薄汚れたスニーカーは見覚えがないのに、それでも、そこから彼を連想させてしまうのが不思議で。くったりとしたジーンズから、恐る恐る視線を上げていけば、期待と不安に胸は自然と、ドクドクと打ち付けてきて、どうしてだろう、涙が込み上げてくるのを感じた。
そして、ゆっくりと見上げた先に、織人 がいた。
「…織人?」
少し伸びた髪はパーマがかって、後ろに結ばれている。背も少し伸びただろうか、肩幅も以前より広くなり、随分大人っぽくなってしまって、思わず緊張に固まってしまったが、それでも、柔らかに緩められた瞳が優しく槙を見つめれば、槙はそれだけで安心してしまって。言葉なく溢れる思いが、涙に乗って溢れ出してしまう。
「久しぶり。なに泣いてんだよ」
困ったように眉を下げて笑う姿に、槙は慌てて服の袖で顔を拭おうとしたが、織人はそれに気づいてか、槙に合わせてしゃがみこむと、槙の腕をそっと掴んだ。
「赤くなる」
織人はそう言うと、槙の頬を包み込むように手で触れ、そっと槙の涙を指先で拭った。その優しい手つきに、柔らかな表情で見つめる瞳に、その大人びた雰囲気に、擦った訳でもないのに顔が赤くなりそうで、槙は慌てて立ち上がった。
「な、なんでここに?」
「咲良 から昨日、連絡貰ってたんだよ」
「え、」
そんな事、一言も聞いていない。槙は、咲良が車に戻っている事も忘れ、咲良を探して視線を走らせたが、それを織人が制した。掴まれた手の熱さに、不意をつかれてどきりと胸が震えて落ち着かない。
こうして、しっかりと触れられて、また自覚する。織人の手は、こんなに大きかっただろうか、こんなに男っぽかっただろうか、そんな風に織人の成長を感じる度、槙は緊張して困ってしまう。子供の成長は早いなんて言っていられない、織人がかっこよく見えて困ってしまう。今まで会う事を怖がっていた自分が嘘みたいに、織人を目の前にしたら、心は織人でいっぱいになってしまいそうで、槙は焦って視線を逸らした。その態度は、織人にはわざとらしく映ったかもしれない、それでも、気持ちを落ち着けるのが先だと、槙は自分に言い聞かせていた。
何より、織人の気持ちだって、まだ分からない。三年もあったら、人の気持ちが変わるのは、おかしな事ではない。
槙はどうにか気持ちを落ち着かせた。本当は、落ち着くなんて出来なくて、無理矢理落ち着いていると自分を装っているだけなのだが、そうでもしないと、いられなかった。
「それで…えっと、じゃあ咲良君には会ったの?」
まずは、現状をしっかり把握しようと思ったのだが、先程までの柔らかな表情はどこへやら、織人は途端に不機嫌に表情を歪め口を開いた。
「咲良なら先に帰ったよ」
「え、嘘だろ…!」
完全に確信犯だ。咲良にしてやられたと、絶句した槙に、織人は更に不満そうに眉を寄せて唇を尖らせた。その表情は、記憶の中の織人と同じで、織人には悪いが、槙は少しほっとしていた。そんな槙の思いが伝わったのか、まだ槙の腕を掴んだままの織人の手が、するすると腕を辿って手の平にたどり着くと、きゅっと手を握った。それだけの事なのに、槙の心臓は再び大きく跳ねて弾み、結局、落ち着くなんて出来そうになかった。
「…毎年帰って来てるなら、顔くらいみせたってバチは当たらないだろ」
ふてくされたように、織人は言う。だが、その俯いた瞳を見れば、ただふてくされているだけではないと知る。きっと、会おうとしなかった槙の行動が、織人を傷つけていた。槙は先程とは違う動揺を覚え、困って視線を揺らした。
「…それは、」
俯いてこちらを向かない瞳に焦り、何か言わなくてはと思うのだが、言葉が先に続かない。決して傷つけたかった訳ではない、そんな顔をさせたかった訳ではないのに。
槙は、焦るまま文人の墓石に視線を向けた。
織人が傷つくのも無理はない、槙は織人に「待ってる」と言った。だが、一度離れてしまうと、待つどころか臆病風が首をもたげて、織人に会う事が怖くなっていった。
果たして自分は、織人と一緒にいる事が許されるのか、織人にはもっと相応しい相手がいるんじゃないのかと、どうしても不安が過ってしまう。
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