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序 柊の休日

 桜の花が、国のあちこちで美しい薄桃色を見せ始めた。  寒い冬の間ずっと色を潜めていた草々も、見る間に鮮やかな新緑の色に染まり、ちらほらとその蕾に色を乗せ始める。  春の訪れ。それは人々の心を軽やかに騒がせながら、青葉の国を美しく彩っていく。  青葉国の忍頭である柊は、滅多にない休日を過ごしていた。  里帰りをしている姉の椿に赤子が生まれたため、祝いを言うべく会いに来ていたのだ。  任の最中、傷を負って忍の仕事から退いた椿は、かねてからの許嫁の元へようやく嫁いだ。  世間から見れば、齢二十九での縁談は遅すぎるものであるが、夫となる男はそれを快く許すような器の大きな男であった。  椿の夫は、商人だ。各地とのやり取りも多く、海を行き来するような生業に身を置く男であるが故に、二人共が忙しかったのだ。  しかしようやく、二人は祝言を上げた。そしてその三月後には、椿は赤子を授かった。  姉として、忍としてではなく、ひとりの女としての人生をようやく歩み始めた姉の姿を、柊は我が事のように嬉しく想っていた。  赤子をあやす姉の姿、こんなにも穏やかな姉の横顔を見ることなど、一生ないと思っていた。柊は平服で縁側に立ち、そんな平和な光景を見守っている。 「次はあんたの番やなぁ」 と、姉は柊に声をかけた。 「え?何が?」 「次はあんたが嫁さんもらう番やなって言うたんや」 「……俺はそんな暇ないわ」  柊は素っ気なくそう言い、姉の腕の中で眠る赤子の顔を覗き込む。 「あんたももうええ年やろ、そろそろ身を固めんとあかんで」 「……そらそうやけど」 「待たせすぎて許嫁にふられたらしいやん。ああもう、情けないなぁ」  椿は眉を寄せて首を振り、小馬鹿にしたように柊をちらりと見る。柊は額に青筋を浮かべると、じろりと姉を睨んだ。 「……あんな品のいい姫さん、俺には荷が重いわ。うまくいくわけもないし」 「ま、あたしが豪商に嫁いだんやし、安泰や。あんたは誰でも好きな女もらい。誰かいいひんの?」 「好きな女なんて、おらへんなぁ」 「寂しい男」  椿はまたため息をついて首を振る。 「やかましいな。ここ数年、おかしな事件が続いてそんな余裕なかったわ」 「まぁ、そうやなぁ……。千珠のお守りもあったしな」 「お守りなんて言うたら、ぶん殴られそうやけど……。ま、舜海も戻ったし、宇月ともええ感じやから、落ち着いたもんやな」 「やっぱりそろそろあんたの番やな」 「もういいって、その内や、その内」  柊は煩そうに姉の言葉を遮る。椿はそんな柊を困ったように見ていたが、意を決したようにこう言った。 「あたしの知り合いでええ子がおるんやけど、どうや?」 「え?」 「城に出入りしとる武具商人の娘さんなんやけどな、忍具やらも色々納めてもらってて、世話になってるやろ。いっぺん会うだけでもええから、時間作ってや」 「……先に周り固めてたんかい」 「当たり前やろ!弟のあんたのことは、あたしがしっかり考えたらなあかん」 「もうお互い大人なんやし、もうええのに……」 「何言うてんねん!あんたは一生あたしの弟やろ。まぁ会うてみ!あたしが手はず整えといたるから。な!そうし!」 「……」  椿の大声に驚いた赤子が、火がついたように泣き出した。椿はそんな赤子を愛おしそうに見下ろすと、立ち上がってあやはじめた。 「はいはい、大きい声出してもたなぁ。ごめんごめん」  すっかり母の顔になっている椿を見上げて、柊はふと真剣に、自分の将来を思った。  このおせっかい焼きの姉を安心させることが、今まで間者という過酷な任を負わせ続けた恩返しになるのなら、それもいいかと。 「まぁ、歳も歳やしなぁ……」  一人になった柊はそう呟くと、のどかに光の差す庭を見遣った。  小さな桜の木が、花をつけはじめている。 「春やしなぁ……。関係ないか……」  柊はぼんやりと、桜の花を見つめた。

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