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きみの名は。
月曜の夜。二十一時を過ぎて、ようやく帰れることになった中村は帰り支度を始めた。
ロッカールームで白衣を脱ぎ、ジャケットを羽織る。そのポケットに重みを感じ、今日一日携帯をそこに入れっぱなしにしていたことにやっと気づいた。
「わ、しまったな」
慌てて携帯を開くと、入っていたのはメールが一件だけ。急用の電話がなかったことに安堵しつつ受信ボックスを開くと、メールは亜弓からだった。
『今夜はなるべく早く帰ってきてくださいね』
文面を見て、我知らず笑みがのぼる。
うちの亜弓は世界一可愛い。そう確信して中村は返信した。
『今から帰るよ』
末尾にはしっかり絵文字。どんな新婚夫婦も裸足で逃げ出したくなるようなラブラブっぷりである。
養子縁組の届けが正式に受理されて一週間。今のところ口喧嘩一つない仲良しの二人だ。
はじめのうちこそ別れていた二ヶ月のブランクのせいかぎこちなかった亜弓だが、徐々に中村と触れ合うことにも慣れ、少しずつ甘え方も覚えてきたようだった。
食事が終わってテレビを見ている時など、さりげなく肩に頭を寄せてきたりする。さらには中村の指に触れ、くすぐったり手を繋いだりして気を引こうとする。そんな亜弓の仕草の一つ一つが、中村には可愛くて仕方がないのだ。
今夜もその愛しい亜弓のために車を飛ばして二人の愛の巣へ帰宅する。駐車場からエントランスのエレベーターまでの間も小走りだ。早く会いたくてたまらない。
所帯じみてもいい。新鮮さなどなくなってもいい。亜弓の傍にいられることが当たり前でありたい。二度と彼を失いたくないから。
一度インターホンを鳴らしてから鍵を開ける。ドアを開けると、亜弓がスリッパを鳴らしながらパタパタと迎えに出てきた。
「お帰りなさい」
「ただいま」
出迎える亜弓の子犬のような笑顔が可愛くて、不意打ちに中村は亜弓にちゅっと触れるだけのキスをする。途端、頬を赤くする亜弓。こんな慣れないところも中村を惹きつけてやまないのだ。
と、靴を脱ごうとして、そこに見慣れない男物の靴が一足揃えてあるのに気づいた。
「あれ。誰か来てるの?」
「はい、あの、秀明が」
「お邪魔してまーす」
リビングの方から、秀明の声だけが聞こえた。上着を脱ぎながらダイニングへ入ると、テーブルに肘をついた秀明がにこにこと会釈をする。
「いらっしゃい。今日はそうか、月曜か。仕事休みだったんだね。淳は?」
「なんか友達と飲み会とかって。置いてかれて寂しかったから来ちゃいました」
「今晩御飯食べさせたとこなんです」
確かにテーブルの上には、片付けかけの食器が残っている。
「僕の分はありますか、亜弓さん」
気づいてしまうと夕食のいい匂いはひたすら食欲を刺激して、さすったそばから中村の腹が盛大に鳴る。
「もちろんですよ」
それに笑って、亜弓はキッチンへ入って行った。
「まあまあ、幸せそうに笑っちゃって」
秀明の向かいに座った中村に向けて、亜弓には聞こえないように秀明がからかう。
「そりゃぁ、幸せにしようと努力してるからね」
からかいを真っ向から受けて、中村はにやりと笑った。
「今日はねぇ、中村さんの好きな里芋の煮つけと鯵の塩焼き。ちょっと待ってくださいね、えーと、すだちすだち…」
いいお嫁さんよろしくキッチンで立ち回る亜弓に、秀明が一言。
「あれぇ、亜弓。さっき中村さんのことなんて呼ぶって言ってたっけぇ?」
「ぎゃっ!」
明らかにからかうのが目的の声に、すこんと包丁がまな板にぶつかる音が重なった。
「どうしたの?」
悲鳴に似た声に、ためらいもなく中村が立ち上がる。
「や…ちょっと手が滑って」
そう言って左の人差し指を押さえる亜弓の手元が、じわりと赤く滲む。
「うわ、切っちゃったの?」
「あ、大したことないですけど」
「え、なに亜弓、すだちじゃなくて自分の指切ったの?」
「うるさい秀明、お前がからかうから…って、いったー!! すだちがしみるっっ!」
「あーあー、ちょっと亜弓、手ぇ洗ってこっちおいで」
蛇口をひねって亜弓の手を流水へ突っ込んで、中村はリビングへ走って救急箱を引っ張り出す。そこから綿球とオキシドールとガーゼとテープと包帯と…と手際よく取り出し、手を洗ってきた亜弓の左手の手当てを始める。
「んもう亜弓、刃物持ったら気をつけなさいよ?」
「はい…いたた」
「ほら、結構さっくり切れてる。縫うほどじゃないけどちょっとの間治らないよ、これ。薬品扱う時は気をつけるんだよ」
「はい、すいません」
されるがままの亜弓の手はあっという間に包帯に巻かれ、中村のさすが本職な手当てを見ていた秀明が大げさになった亜弓の手をしげしげと見つめた。
「…怪我した時に便利ね、旦那が医者だと」
「お前なぁ、誰のせいでこんな」
「ハイハイ、悪かったですね。もーお邪魔虫は帰りますよぅ」
「え? もう帰るのか?」
「だってー、新婚家庭って居辛いんだもーん」
そう言って、秀明は早速のようにすたすたと玄関へ向かってしまう。しかしふと思い出したように振り返り、亜弓の肩に手を置いてわざわざ亜弓と目を合わせた状態で、
「じゃあまたね、中村さん」
と言って帰って行った。
「中村さん? …ああ、中村さんね」
中村からも意味深に見つめられ、亜弓は真っ赤になるしかなかった。
中村も食事を終え、亜弓は手当てをしてもらった左手にビニール袋をかぶせてもらい、それが水にかからないように不自然な体勢で湯船につかっていた。
中村さん。
ずっとそう呼んではいるが、実際自分も『中村さん』なのだ。
しかし今更中村のことをどう呼んだらいいものか。
「か…一臣、さん…?」
口に出すと、なんだか落ち着かなさにあわあわしてしまう。湿った浴室に自分の呟きが響いて耳に返り、その名前に…
――ドキドキする。
知らない人の名前みたい、でもそれは確かに彼の名で。
「う~~~っ…」
そう呼びたい気もするがただひたすら恥ずかしくて、顔を半分湯に沈めてぶくぶくと泡を吐く。
その瞬間、バタンと突然浴室の扉が開いた。びっくりして顔を上げたそこには、全裸の中村。
「ぶはっ、中村さん!?」
「何やってるの亜弓、ぶくぶくしちゃって」
「な、中村さんこそなんで急に入ってくるんですか!?」
「え? 亜弓が片手じゃお風呂入るのに不自由かなと思って」
しれっと言って、中村は亜弓の動揺など意に介さない様子で掛け湯をして湯船に入ってくる。広い湯船とはいえ、男二人で入るにはやはり狭く、密着しなければ入りきらない。二人でも落ち着いて収まる体勢を模索すると、中村が亜弓を背中から後ろ抱きにするのが一番だという結論に達した。
「…なんで亜弓、そんな緊張してるの」
「だって…中村さん、入ってくるなんて言わなかったのに」
「一緒にお風呂だけはいつまで経っても慣れないねぇ、亜弓」
「だって明るいしっ…」
耳まで赤くなっている亜弓の後ろ頭が見える。湯に濡れて薄紅色に上気したうなじのなんと色っぽいことか。
「――あの、中村さん」
「ん?」
「あたっ…当たってるんですけど、背中に、その、硬いのが」
「あはは~、気にしないで。だって亜弓が裸なんだもん。それよりさ、亜弓は僕のこと、いつまで『中村さん』なの?」
「えっ」
ついさっきまで考えて身悶えていたことを訊かれ、思わず亜弓は振り返った。
「職場では柴崎のままでいいけどさ、もう亜弓も『中村』なんだよ? 僕のこともそろそろ名前で呼んでくれても…ね?」
「うぅっ…」
「ダメ?」
上目遣いで覗き込まれて、承諾するどころかもう逆に恥ずかしくてたまらなくなって再び背を向けた。
「よ、呼ばないっ!!」
「えー、なんでー、ひどい」
「今すぐは無理!!」
本気で恥ずかしがっているのが分かって、無理強いもできず、中村は顎を掻いた。
「う~ん、じゃあ今はいいけど」
「…けど…?」
「えっちの時は呼んでねっ」
「~~~ッ!! もっと無理っっ!!」
早いとこ逃げた方がいい、と判断して亜弓は湯船から上がろうとしたが、左手を上げた状態ではうまく立ち上がれず、容易く中村の手に捕まってしまう。
「じゃあ、早速今から開始ということで」
「だめっ、無理っ、ほんとに無理! …やっ、あぁっ、やめ、中村さんッ…」
「はーい1ペナ。ちなみにペナルティ一つにつき一回ね」
「ひーーーッ!!」
結局、秀明が蒔いた火種のおかげで酷い目に遭った亜弓は。
風呂場でニ回、ベッドで三回。
気を失うまでペナルティの数は増え続け。
それでも中村の名を呼ぶことはできず、残りの罰ゲームの実行は後日に繰り越されたのだった。
<END>
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