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To be with you -前編-
午後九時。
バーテンダーとして、帰宅するには早すぎる時間帯の家路を、秀明は急ぎ足に歩いていた。
八時頃に石田から電話が入り、大事な話があるから今夜は早く帰ってきてもらえないかと懇願され、店長に無理を言って早退させてもらってきた。
仕事中にそんな風に石田から電話があるのは初めてのことで、しかも電話口の声が少々頼りない、泣き出しそうなものだったのが気にかかる。一体大事な話とは何なのだろうか。
マンションの前まで戻ってきて、そのエレベーターに入るのをしばしためらう。
帰り道、いろいろと想像は巡らせたのだけど。折り入っての大事な話など、秀明にはされる覚えがない。しかも、どうしてあのいつも気丈な石田が、あんな心細げな声でわざわざ電話してきたのだろう。
(やっぱ……別れ話かなぁ……)
エレベーターのボタンを押して降りてくるのを待ちながら、秀明は足元を見つめ、ひとつ小さく息をついた。
石田との仲は、至って順調だ。と、秀明は思っている。
けれど実際、二人の関係に引っかかるところがないわけではない。
薬剤師とバーテンという職業の違い、そして決定的に違う二人の生活時間帯の違い。
ほぼ同棲しているとはいえ、一緒に住んでいる意味があるのかと疑いたくなるほど、二人の生活はすれ違っている。どちらかが帰宅すれば、一方は出かけているか眠っているかというのがほとんどだ。
休日が合うことは少なくない。秀明の定休日の月曜に石田の休日が合うよう、亜弓がシフトの調整をしてくれているのだという。しかし、せっかく休みが合って昼行性の石田がどこかに出かけたがったとしても、夜行性の秀明はなかなか起きられなかったりする。それが原因で、小さな喧嘩はちょくちょくする。
けれどそんな不満が大きな喧嘩に発展することはなく、呆れた石田が外出を断念し、夕食を一緒に食べに出ることで譲歩してくれているのが常なのだ。そういう意味で、石田にいろいろと我慢させていることがあるのは、秀明も重々わかっている。
だが石田の性格をよく考えてみると、そういった些細な不満を抱え、けれどいつも我慢し、飲み込み続けてくれている石田は、口には出さないがかなり負担を感じているのではないだろうか。
顔を合わせているときはいつも笑顔で、いつも幸せそうで、それ以上に秀明を幸せな気分にさせてくれるけれど。
――そうだ。石田はいつでも自分を殺して相手を許そうとするけれど、その優しさに甘えてばかりの自分を、我慢も限界の石田が見限ろうとしているのだとしたら?
俄かに石田に対する申し訳なさがこみ上げてきた秀明は、降りてきたエレベーターに飛び乗って、『閉』ボタンを連打した。
(ちゃんと今までのこと謝ろう、それからちゃんと淳の希望も叶えてあげられるようにしよう。別れたいって言われてもちゃんと引きとめよう。だって俺、)
これからもずっと淳と一緒に居たいから。
「ただいま!」
長く一緒にいると忘れてしまいがちな相手の大切さや己の怠慢が身にしみて、とにかく石田の言い分を聞いてやろうと勢い込んで玄関のドアを開ける。
…と、秀明の目に飛び込んできたのは、一揃いの女物の靴だった。
とたん、秀明の目の前が真っ暗になった。
――反省が遅かったのだろうか。もう既に自分は見限られて、石田は女性と結婚でもする気になって、一方的に別れを告げられるしかないのだろうか。
秀明が呆然と立ち竦んでいると、声がしたままなかなか上がってこないのを不審に思ったのか、リビングのドアからおずおずと石田が顔を覗かせた。
「お帰り、秀明……ごめんな、仕事中にいきなり」
「いや、いいけど。…お客さん?」
「そうやねん、お前に会ってもらわなあかん人で…」
そう言って、明らかに気乗りしていない石田が、秀明をリビングに促す。妙な胸騒ぎを覚えながら、気の進まない足を動かしてリビングの中を覗いた。
そこにいた女性と、秀明の目が合う。
まさか、という思いで秀明は石田に視線を向けた。案の定石田は、困り果てたようにその女性を紹介した。
「俺のおかん」
「どうもー」
リビングのテーブルについていた石田の母が、若作りの感の否めない顔で愛想よく笑った。
瞬時に、秀明はリビングに背を向ける。
「…俺、ちょっと心の準備があるんで…」
「ちょっ、待ってや秀明ー!」
逃げようとした秀明を、すかさず石田が服の裾を掴む。
「ほんまごめん、ほんまごめんて。あんな、こないだ引越しの話したやんか、どっか二人で住める広い部屋借りて、お前の部屋はもう引き払ってまおうって。でな、今日の午前中にちらっとその話をおかんにしてんけど、そしたら相手はどんな奴や言うて、電話切った一時間後には新大阪から新幹線乗っててんっ」
ひそひそと必死で弁解する石田の手を、振り払おうと秀明は苦闘する。
「いきさつはわかった、でも何の心づもりもないのに俺にお母さんと会えってのか!? 無理だ、そんないきなりっ…」
小声でもみ合っていると、間近で、カタンと音がした。
恐る恐る振り返ると、大きく開かれたリビングのドアの向こうに、アニマル柄のTシャツに紅色のロングスカートで固めた石田母が、腕組みをして仁王立ちになっていた。
「何をこそこそしてんのや?」
その低いドスの利いた大阪弁に、腹を括るしかないのだと、秀明は悟った。
「うちの大事な息子を寄越せゆー話やろ。いきなりも何もあるか、男やったら納得のいく話をしっかり聞かせてみんかい!」
「ハイ……」
肩を落としてリビングへ戻る秀明の後ろで、半泣きの石田がポツリと、ほんまごめん、と繰り返した。
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