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十年後のふたり

 玄関の鍵が開く音を敏感に聞きつけて、食卓テーブルで問題集と睨めっこしていた千草はリビングを飛び出した。 「お帰りなさいパパ!」 「あー、ただいま、ちぃ」  眼鏡を押し上げながら、少し疲れた顔で笑う一臣に千草はいつもと違う雰囲気を感じて、手にした問題集を後ろ手に隠した。  本当は、中学受験用の問題でわからないところがあって、一臣に教えてもらおうと思ってその帰りを待っていたのだ。 「パパ、疲れてる?」  問えば一臣は優しい笑顔で「そんなことないよ」と返してくれるが、千草はそれ以上続けられなくなる。  どうしようかと迷っているうちに、台所仕事をしていた亜弓もリビングから出てきた。 「お帰りなさい、一臣さん」 「……ただいま、亜弓」  亜弓の姿を見るなり、一臣の纏う雰囲気が緩み、その腕が柔らかく亜弓の背を抱く。  頬への小さなキスはいつも通りだけれど、そのあとほんの数秒、珍しく一臣は甘えるように亜弓にハグをねだった。 「……お疲れ様。今日はお風呂入って、もう休みますか?」 「うん……そうする。ごめん、夕飯は朝いただくよ」 「わかりました」  微笑み合って腕を解いて、一臣はまっすぐバスルームへ向かった。  見送る亜弓の袖を、そっと千草は引いてみる。 「かずパパ、なんかあった?」  探るように見上げる千草に、亜弓は苦笑してその背をリビングへ促した。 「ちぃはほんとに敏いなぁ。一臣さんに勉強教えてもらおうと思ってたんだろ?」 「なんか元気なかったから」 「そうだね。俺でよかったら勉強見るよ」  二人で食卓テーブルで向かい合って、問題集を覗き込む。亜弓は「連立方程式使わずにどうやって解くんだコレ?」と首をかしげた。  なんとか解法を見つけて答え合わせをしたところで、亜弓は千草と正面から顔を合わせた。 「……今日ね、一臣さんの患者さんが亡くなったんだよ」  聞いて、あぁ、と千草も納得した。  いつも一臣から、聞き飽きるほどに聞かされている。我々医療従事者が向き合っているのは『人』だと。誰かにとって大事な、かけがえのない『命』なのだと。そのうちのひとつとして、向き合うことを作業にしてはいけないし、送ることに馴れてもいけないと。  祖父は、患者を見送る度にひどく落ち込む一臣を半人前だと窘めたりもするけれど、何も感じなくなるよりはよほどいいとも言っていた。そして千草が志す医者とはそういう仕事だよ、とも。  中村家に里子に来て三年。千草は男同士の夫夫という特殊な家族の中で、有り余る愛情とともに、医師を志す上での大事なことを学び続けている。 「……パパ、あとでかずパパのとこに行ってあげた方がいいんじゃない?」  悲しいことがあれば心だって傷つく。事情を抱えて乳児院から施設で育った千草は、そのことをよく知っている。  心の傷は絆創膏では癒えないけれど、愛情によって覿面に癒えることがあることも、身を以て知った。 「今のかずパパには、あゆパパでしょ」  それが特効薬だと、千草は笑った。 「……そんなの、どこで覚えてくるの。最近の小学生は怖いな」  少し顔を赤らめて、亜弓は眉をハの字にして笑う。笑いながら、亜弓がちゃんと一臣を思いやっているのが千草に伝わる。 (……パパたちは、ちぃの憧れ。世界一のカップルだよね)  特殊かもしれないけれど、家族の誰かが悲しい思いをしても、ちゃんとそれを癒せるなら、それはとても幸せで素晴らしい家族だ。  誇らしさでいっぱいになって、千草はぱたりと問題集を閉じた。 <END>

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