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忘れられないことがある

 未明。ふと途切れた眠りに隣にあるはずの熱を探った淳は、ひやりとした感覚に覚醒した。  裸の上半身を起こしてしょぼつく目で周りを見回すと、一緒に寝ていたはずの秀明の姿はなく、寝室のドアがわずかに開いている。  床に落ちていたシャツを拾って素肌に羽織り、淳はベッドを降りた。  音を立てないようにそっとそのドアからリビングを覗くと、暗いリビングのラグに秀明がじっと正座して俯いているのが見える。  ――あかんやん。  刺すような胸の痛みをこらえて、淳は口許に笑みを用意した。 「何、してるん?」  静かな呼びかけに、秀明は応えないけれどゆるりと頭を上げる。 「もう、いやや言うてるやん。一人でベッド出るん」  暗くてよく見えない秀明の頬にはたぶん涙があって、それがわかるから、淳はその背後からぎゅっと首に抱きついた。 「いやや。お前が一人なんが、寂しい」  耳朶にそっとくちびるを寄せると、ひっとその肩が大きくしゃくり上げる。 「……淳、俺っ……」 「なんやなんや、何があってん。やなことあったんか? 怖い夢でも見たか?」 「う、うーっ……」  子どものように、回された淳の腕に両手で縋って、声を上げて秀明は泣いた。  頻度は高くないけれど、時々不安定になる秀明を淳はよく知っている。強く抱いて、髪をすいて、全部吐き出してしまえと促しても決して秀明が口を割らないことも。  楽になれない理由があるのだと、淳は思う。  どうにかしてやりたい。こんなふうに一人で泣かせたくなどない。けれどこの時間が必要なもののようにも思われる。自分がこうして秀明を抱いてやれるのならば。  ひとしきり泣いて、大きく息をついて落ち着きを取り戻した秀明が、手の甲で目元を拭いながら気まずそうに苦笑いを浮かべた。 「……ごめんね、あっちゃん。取り乱した」 「ええよ。溜めてられへんもんは出すしかないやん」 「なんで俺……売りなんかやってたんだろ。消せないんだ。なかったことにしたいのにな」  はぁ、と秀明は力なく笑う。 「忘れられないことがあって……忘れたいけど、でも忘れないんだ俺。絶対に」  声を上げて泣くほどの後悔を、明かさず持ち続けるという秀明の決め事は淳にはよくわからないけれど、それなら泣き終えるまでつき合うだけだと淳の腹は決まっている。 「ええやん、消さんで」  涙の残る頬を、淳は両手で包んだ。 「消さんでええし、忘れんでええよ。それがなかったらおまえ、今ここに俺とおらへんやん。そんなん俺、困るで」  ちゅっと触れるだけのキスをすると、目の前の秀明が驚いたように目を丸くした。それがおかしくて、淳は笑う。 「好きや。おまえまるごとやで。ちゃんとわかってんのおまえ、なあ?」 「ふっ……なにそれ、その押しの強さ」 「わからん? 口説いてるんやん」 「あははぁ、やったぁ口説かれた~」 「けど寝るけどな。もう寝るでほんま。何時や思っとんねん、四時やぞ。俺仕事やっちゅうねん」 「あぁー、あっちゃん待ってー」  先を歩く淳が秀明に捕まって、手を繋いで寝室のドアをくぐる。  静かに閉まったドアの向こうで、やわらかに夜は明けていった。 <END>

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