14 / 16

大切なもの

 夜中にふと目を覚まし、亜弓はうつ伏せの頭を上げて枕に両肘をついた。まだぼんやりとして、再び深く閉じればすぐにでも眠りへ引き戻されてしまいそうな両の目を、亜弓は軽くしばたかせる。  少し寝違えたらしい首を回して考えても、なぜ眠りの途中で目が覚めてしまったのかが亜弓にはわからなかった。薄闇の中目を凝らすと、頭上では時計の夜光塗料が、午前五時前の角度に両針を仄かに浮かび上がらせている。  隣では、宥めるように亜弓の背に手のひらを置いた中村が、規則的な寝息を立てていた。  確かに在る体温に、我知らず亜弓のくちびるから安堵の息が落ちる。その息の重さにはっとして、亜弓はほんの一時前まで、自分が独りでいたことを思い出した。  ずっと、隣には中村がいたのに。  そう思うと今し方夢に見た孤独が急に中村に済まなくなって、亜弓はふと自分の肩を抱いた。そして今度は、寒さを感じていなかった裸の肩がひどく冷たくなっていたことにやっと気づいた。 (そりゃそうか、こんな時期に裸で寝てれば……)  隣で眠る男も自分と同じ姿であるのに苦笑して、いつの間に寝入ってしまったのだろうかと考える。  一緒に遅めの夕食をとって、中村にねだられて一緒に風呂に入って。服を着る間もなく、脱衣所で事が始まろうとするのをなんとか寝室まで持ち越して。  始まってしまえば異様に血が沸いて、湯あたりしたときのように頭が白くて、躰はただ熱くて。  それでもいつもなら情事が終われば何か羽織ってから眠るのにそうしようとした記憶がないあたり、たぶん最中に意識を飛ばしてしまったのだろう。 (もうお互い、若くもないのにねぇ)  どんな醜態を晒したのかと思えば気が遠くなるので考えないようにして、とりあえず羽目を外してしまった責任を全て中村に押し付けることにする。  自分のせいにされたとも知らずに中村は変わらず寝息を立て続けていたが、亜弓がその寝顔を眺めているうちに急に眉をしかめ、短く息を吸ったかと思うと、くしゅっ、とやった。亜弓が中村の肩に触れるとそこは自分と同じように冷えており、しかも自分が体を起こしているせいで布団に冷気が入り込んでいることに気づいて、亜弓は布団を引き上げて隙間なく中村の上にかけ直す。  するとその気配に気づいて、中村が細く目を開けた。 「…亜弓?」  掠れた声を聞き、起こしてしまったかと亜弓は首を竦める。 「ごめんなさい、まだ寝てていいですよ」 「ずっと起きてたの?」  まだ靄のかかったような目で亜弓を見上げ、肩までしっかりと覆われた布団から腕を出して中村は亜弓の髪に触れた。 「いえ、さっき目が覚めて」 「怖い夢、見た?」  心配するというよりは自身が不安であるような声に問われ、亜弓は薄く笑んで首を振る。  中村が懸念するような、いつもの悪夢を見たわけではない。そういう怖い夢を見たわけではないのだと、中村を安心させたくて亜弓は問いを否定した。  けれど亜弓の眠りに訪れたそれが怖くないものであったかと問われれば、否定しなかったかもしれないと亜弓は思った。  一度否定しておいてやっぱり怖い夢だったのだと、わざわざ中村を不安にさせたいわけではなかったけれど。 「あのね、一臣さん」  自分がどんなものを怖いと思えるようになったか、その変化を中村に今知ってもらおうかと、安堵して眠りへ戻ろうとしていた中村の意識を、少しだけと亜弓は呼び止めた。 「さっき俺、夢の中で独りだった」  実父も、幼い自分も、そこにはいなかった。けれど中村も、秀明も石田も、柴崎の両親も中村の両親も、誰一人亜弓の傍にはいなくて。  少し前の自分なら、それでも安寧を覚えていたかもしれないと亜弓はぼんやりと思う。自分以外に誰もいなければ、自分が害をこうむることはない。誰かがいて煩わされるくらいなら、独りでいる方がよほど気楽だと、そんな風に。  けれどそんな感覚が、もうぼんやりとしか思い出せないほどに自分からは遠いことを亜弓は知っていた。  かつては怖がりなどしなかったものが、今は怖い。 「それで構わないと思ってた頃も確かにあったけど、今は違う」 「…うん」 「今は、得たものは全部持ってたいし、みんなに傍にいてほしい」  中村と共に在るようになってついえたと思っていた孤独は黙って今もここにいて、元の場所へ戻ろうと亜弓の手を強く引きたがる。  大事なもの、大事な存在を持たずに生きる身軽さは見知った安寧で、得るもの全てを抱えて取りこぼさぬようにしようとする疲れと秤にかければとても魅力的なものにも映る。  だから亜弓の手を引こうとするそれに抗うにはひどく力が要ったけれど、その力さえ自分ひとりのものではないと今は知っている。  諦めていたけれど、本当は全てを与えられたかった。  亜弓自身すら気づいていなかったその望みを汲んで、与えてくれた人がいた。  そして亜弓が手にした幸福を、亜弓以上に喜んでくれて、持ち続けることを望んでくれる人がいる。 「なくすことを考えて怖くなるのは、仕方ないことですよね」  むしろそれは幸せな怖さだと、亜弓は笑った。 「大事なもの、これからもっともっと増やしたい」  中村の与えてくれるものを、見逃すことなく受け止めたいと、亜弓は握った手に力を込めて見せる。その手がもっと多くのものを持っていられるはずだと、中村が信じたように。 「欲張りに……なっちゃったかな、俺」  唐突な告白に照れたように、亜弓が笑う。  子どもが逆上がりができるようになったと両親に報告するような無邪気な笑みを、中村は複雑な思いで見上げた。  人一人が満ちるためにどれほどのものが必要なのか、それは中村にはわからない。それがこの先、亜弓に全て渡されるかどうかもわからない。  けれど、大事なものを増やしたいと笑う亜弓はまだ、何も満たされてはいない。ようやく足りないそれを求めるために、手を伸ばすことを覚えただけで。  ならば足りないものを埋めるためにこそ自分が彼の傍にいるのだと、思って俄かに中村はぞっとした。 「……亜弓」  触れた髪を深く抱いて、中村は亜弓を肩へ呼ぶ。  亜弓の足りなさを埋めるため、渡せる多くを与えるために亜弓の傍にいるのなら、彼に必要とされたい自分は、彼がいつまでも満たされないままであることを望んでいるのだろうか。 「きっと、どんどん増えていくよ」  そうではないと、中村はきつく目を閉じた。 「亜弓にいろんなものを持たせたいと思ってるのは、僕だけじゃないんだから」  亜弓が手を伸ばしさえすれば、与える手は一つではない。中村ももう、自分以外から受け取ってほしくないとは思わない。だから、いつか亜弓は満ちるはずなのだ。中村が亜弓の手を引いたのは、そのためでもあるのだから。 「くふふ。どーしよ。俺、幸せだ」  抱かれるままに寄り添った亜弓が、中村の肩口に顔をうずめてどうしようもなく嬉しそうに笑う。  満ちたような声を聞けば先にどんな不安があろうとそれを喜ばずにはおれず、ただ中村は亜弓の背を深く抱いた。  その背がふと撓み、何かの合図のように中村の腰に亜弓の腰が擦り寄った。 「……ちょっと。亜弓さん?」  中村が不審な声を上げると、肩口から顔を上げた亜弓が濡れた瞳で中村を覗き込んでくる。 「ダメ?」 「ダメ、てアナタ。もう無理、て言ってたのは自分でしょーが」 「そんなこと言いました俺?」 「覚えてないの?」 「……覚えてない。覚えてないから、無効。ねーえー」 「ねーえーじゃなくて……ちょっとっ、どこ触ってんのよっ!?」  あらぬところを、触られなくとも亜弓に求められれば実は中村に抗える術などなく、休憩を挟んだ延長戦は冬の遅い日の出まで続いた。 <END>

ともだちにシェアしよう!