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第5話

「あ、雨宮さん!!」 ぽたぽたと床に滴る血。雨宮の形の良い額から、つーっと血が流れた。それを見た周りの客がまた悲鳴をあげる。 その雨宮の前では、酒瓶を右手に握り締めた男が鼻息荒く睨みつけていた。 「お客様、困ります!」 騒然となる店内で横山が駆け寄ると、男はその身体を乱暴に押した。 「るっせぇ!コイツが俺のスーツに、わざと酒を零しやがったんだ!」 「それは、言いがかりでしょう」 「何だと!貴様ぁぁあああ!!!」 雨宮が額を押さえて言うと、男はまた酒瓶を振り上げた。多くの客が悲鳴をあげ、危ないと声をあげた。 「あー!!マッカラン1951・オールドボトル!!」 その悲鳴を掻き消す様に静が突如、叫んだ。その声に男も客も雨宮も驚いた。 「ちょ、吉良っ!」 芝浦が驚いて静の腕を掴むが、静はそれを振り切って雨宮と対峙する男の元へ歩み寄る。 雨宮が静に来るなという顔を見せたが、それも無視だ。 「何だぁ、貴様ぁ」 男は酔っているにしては顔が赤くないし、足元もしっかりしている。そして目も焦点がしっかり定まっていて、この情景には何だか違和感を覚えた。 ただの質の悪い酔っぱらいなのか何か気に触らないことがあったのか、どちらにしても面倒事だ。 「お客様、そのボトルはお客様がお買い上げいただいた商品ですか?」 「あー?何だ、女みたいな面しやがって」 静よりも少し背の高い男は、急に出て来た静を舐める様に見た。見るからにひ弱そうに見えたのか、男は小馬鹿にしたように笑う。 だが静はまったく怯む事なく男を見据えたあと、その手に握られたボトルに視線を移した。 中身はある。3割ほど残っているが、振り回されたせいで味がおかしくはなってないだろうか?いや、あれはもうアウトだろうな。 「そのボトル、マッカラン1951のオールドボトルという品物です」 静は男の手に握られたボトルを見て、嘆息した。呆れと苛立と憤り。何てことしやがった!この野郎!!と怒鳴ってもいいくらいの、怒鳴りたいほどの怒り。 男はそんな静の怒りを知る由もなく、自分の手に握られたボトルを掲げて首を傾げた。 「…あ?」 「オールドボトルはただでさえ貴重な上に、お客様が手に握っているのはマッカランの1951年。マッカランのオールドボトルは数も少ない上に、50年、60年もののマッカランはスーパーレアなウイスキーです」 「はぁ?」 「一本、30万ですよ!!」 「さ…!!!」 静の言葉に男は思わず瓶を再度見た。古びたラベルの貼られた酒が30万。 男はふーっと息を吐いてそれをカウンターにどんっと置いた。 「何なんだ!この店はよぉ!」 男は叫び、治まりきらない怒りをスツールにぶつけた。それに雨宮の顔つきが変わり、ぐっと握った拳を凶器に変えようとしたとき、それを静が掴んだ。 「ダメだよ」 ここで雨宮が手を出せば、分が悪くなるのは雨宮になる。何故ならば、雨宮がちょっと殴っただけで男は全治何週間かの傷を負う事になるからだ。 相手はただの難癖をつけてきたサラリーマン風の男。雨宮と同じ位置に立つ極道などではないのだ。 「お客様、いかがされましたか?何か問題でも?」 その時、店の奥から現れた人物に静は胸を撫で下ろした。オーナーの早瀬だ。 にっこり紳士的な笑顔で現れた早瀬は、男の前に来るとチラッと雨宮を見た。 「オマエ、責任者か!こいつが俺のスーツに…!!」 「お客様、あの女性に執拗に声を掛けておられましたね?」 早瀬は男の訴えを笑顔で躱して、カウンターの奥で震える客の中の一人の女に目を向けた。ホールスタッフの一人の腕にしがみついて、何とか立っているといった感じの若い女の目には、薄ら涙が浮かんでいた。 「お客様、うちはお酒と少しの料理とゆったりした時間を提供する店であって、出逢いの場所を提供する店ではありません。ああ、そりゃ紳士的なエスコートの出来る方ならそれもありでしょうが、来店して早々に見ず知らずの女性の隣に腰掛け、いやらし目で撫で回す様に見る様な方はお断りでございます。しかもそれを止めに入ったスタッフに難癖をつけ、挙げ句、暴行まで働き怪我まで負わせる。これは営利妨害ですよ」 相好を崩さぬまま早瀬にビシッと言われ、男はうっと声を詰まらせた。 「警察を呼びますか?それとも、今日はお引き取りいただけますか?ああ、御代は結構です」 「…く、くそ!!」 男は聞き慣れた捨て台詞を吐いて店を飛び出した。ほうっと、誰もが息を吐いた瞬間だった。 「ご来店中のお客様、せっかくのひと時を台無しにしてしまい大変申し訳ありません。このお詫びにオーナーである私、早瀬から一杯、素敵なカクテルを提供させてください」 少しオーバーなアクションで早瀬がそう言うと、店内に拍手が沸き起こった。そうしながら後ろ手で雨宮に下がれと合図する。 静は額を押さえる雨宮に手を貸しながら、厨房へと戻った。 「うわ!雨宮さん、それヤバいんじゃないですか?」 厨房は雨宮の血に塗れた額に大騒ぎだ。いつもは話しかけてこないバイトまでもが、雨宮に綺麗なタオルを渡して、救急箱!と駆け回っている。 「ったく、何なんだ、あの野郎。ぶっ殺しゃよかった。しかもカウンターに置いてたマッカラン!あーあ、何で俺、あんな所にマッカラン置いてたんだ。思い出すだけでムカつくぜ、あのクソ野郎」 ぶつけられなかった怒りが湧き出てきて収まらないのか、雨宮はいつもよりも荒い口調で言う。ここまでの怒りをよく我慢したものだと感心しながら、血が止まる気配がないのはその怒りのせいかと思う。 頭部は血がたくさん出るものだと聞くが、そこは致命的な症状が出て来るのが遅いとも聞く。どうしようかと思っていると、早瀬が厨房に戻って来て雨宮の顔を覗き込んだ。 「うーん、こりゃ縫わないといけないかなぁ。吉良くん、一緒に病院行ってあげてくれる?」 「ああ、はい。雨宮さん、動ける?」 「あー、くそ、くらくらしてきやがった」 「それは頭に血が上ってきたからじゃない?怒り沈めてよ、マジで」 静は呆れながら、雨宮に言った。 着替えもそのままに二人で店の従業員専用駐車場に行って、静はげんなりする。まさか、こんな日が来ようとは。 静の目の前には目の醒める様なブルーのAudi TT RS Coupe。外車で、もちろん左ハンドルだ。ついでに言えばMT車。 別に静はMTが運転出来ない訳ではい。だが左ハンドルのMT車は経験がない。 青くなる静を雨宮が横目で見て、小さく息を吐いた。 「俺、運転すっか?」 額をタオルで押さえながら雨宮が言うが、そんな状態で運転されるのも静が運転するのも危険度はあまり変わらない様な気がする。静はそう思って首を振った。 「あー、もしさぁ、擦ったら…」 「あ?いいんじゃね?俺のじゃねぇし。組のだし」 組のってことは心のってことか。そう思うとどこか気が楽になった。じゃあぶつけても擦ってもいいやなんて思う始末。 「じゃ、救急、行きますか」 「いや、救急は無理。俺の言う通り運転していけ」 「え?」 どこへ?と聞こうとしたが、雨宮の青くなる顔にゆっくりしてられないなと静達は車に乗り込んだ。 「俺、教習所のセンセとか無理だわ」 雨宮は大きく息を吐いて車を降りた。言いたい事は重々承知。確かに恐ろしかった。自分自身も。 左ハンドル恐るべし。何が怖いって左折。左ハンドルの感覚が分からずに大きく膨らみすぎて、危うく信号待ちをしていた対向車と雨宮の乗る右側を正面衝突させるとこだった。 「…練習しとくよ」 今後のためにも。そう言って、目の前のビルを見上げた。 雨宮の言う通りに来た場所は、繁華街から外れた路地。少し治安の悪そうな、そして街灯も少なくコンビニなど営業している店も見当たらない場所に聳える5階建てほどの古びたそのビルは、どこか不気味。 救急病院でもなさそうだし、そもそも病院とは言い難い様なビル。窓の灯りは全て落ちていて、真っ暗。無人にも思えるそこのビルの前に、静達は居た。 「え…?あの、ここ…」 まさか肝試しに来た訳じゃないよね?という馬鹿げた台詞は飲み込んで雨宮を見れば、雨宮は何も言わずにビルへ向かい正面玄関のドアをドンドン叩いた。 「え!ちょっと…」 裏通りにあるそこは、少しの音でも響く。雨宮が遠慮なく叩くその音も、かなりの反響だ。 不審者で通報されたら元も子もないじゃん!と雨宮を止めようとすると、パッと玄関の灯りが灯った。 「あ、人が居る?」 ガラス張りのドアはカーテンで向こう側が見えないが、灯りが点いたおかげでカーテンの向こうに人影が見えた。 そしてシャッと乱暴に開けられたカーテンの向こうに居た男に、静は思わず雨宮の顔を見た。 「…ちょっと、病院は?」 そこに居た男は、無精髭で無造作ヘアーの様な緩いパーマなのか天然なのか分からない髪型の、どう見ても不機嫌な顔をした医者には到底見えない男だった。 ジーンスにTシャツ姿の男は鍵を開けると、ゆっくりドアを開けて顔を出した。 「何、それ、お洒落?」 男は開口一番そう言うと、ぬっと長い手を伸ばし雨宮の前髪を掴んだのだ。その男の行動に静が慌てた。 「おい!ちょっと!!」 「あ?何?お前、誰?おいおい、パックリ割れちゃってるよ、この人」 男は笑いながら額を押さえる雨宮の手を乱暴に外して、傷口を無遠慮に開く。それに少し量が減った様に見えた出血が、再度増した様に見えた。 「るっせーな、早くどうにかしろって」 雨宮は男の腕を払って、ふらつく足元をどうにか堪えた。 「ああ?くそ夜中にいきなり現れてそれか、麻酔なしで縫うぞ、或人」 「マジ、やべぇって…」 ぐらり、雨宮の身体が揺れた。はっとして手を出した静の前で男は雨宮の身体を支えると、そのままずるずる中に引き摺っていった。 抱えられてとか気遣われながらではなく、本当に何かの”物”のように引き摺る状態。 「え!!ちょっと!おい!あんた!!」 「あ?何?」 「け、けが人だろ!」 「は?丁重に扱ってるだろ」 「どこがだ!!早く医者連れてかないと!!」 「だから、ここに来たんだろ」 「あ?」 「あー、俺ね、塩谷。医者」 「…は?」 男ー塩谷の思いも寄らぬ告白に静はただ、立ち尽くしてしまった。塩谷はそんな静に首を傾げながら、雨宮を奥へ連れていってしまった。 「ま、マジかよ」 あんないかにも極悪人面した男が医者?額から血を流す雨宮の髪を引っ張って、笑ったのだ。 そう、パックリ割れてると笑いながら言った、あれが医者? どうせなら組の人間と言ってくれたほうがしっくりくるのに、医者と言われて安堵するよりも不安が増した。 ハッと気が付いた時にはそこに二人の姿はなく、奥で無茶苦茶されてるんじゃないかと静は急に不安になり、その場でうろうろしだした。 そこは会社のロビーの様なところで、ソファが何脚かあるだけであとは何もない。受付も案内図もTVも何もない。 磨りガラス付きのドアは無数にあるが、磨りガラスが真っ暗なので中は無人のようだ。 外に看板もなかったし、病院ではないのは明らかだが…。 「あー、もう!しっかりしろって、俺!!」 とりあえず雨宮の様子と居場所を確かめないと、何をされているのか分かったものじゃないと中に進もうとした時、静の後ろの正面玄関が乱暴に開いた。 「静さん!!」 「…あ。成田さん」 作業着姿の成田は慌てて静の元へ駆け寄ると、静の身体をぐるりと見渡した。 「いや、俺じゃねーし。雨宮さんだし」 「静さんはどっこもケガしてはりません?」 「してないし…ってかさ!変な奴に連れてかれちゃって!どうしよう!」 「は?」 「塩谷って名乗ったんだけど、めっちゃ乱暴に雨宮さんを…!」 静の尋常ならぬ様子に驚いた成田は、”塩谷”の名前を聞いた途端ににっこり笑った。 「ああ、塩谷センセはいっつも、そんなもんっすよ」 「え?」 「あのセンセ、闇医者ってやつっすよ。あ、大丈夫、腕はええんで。ちゃんと免許も持ってる、当たり前の医者やし。俺も崎山も、組の連中は塩谷センセの世話なったことある連中ばっかりですわ。雨宮は…まぁ、初めて組長に会うた時に…あのー、ボコボコにされてもうて。まぁ、その雨宮を診たんもセンセやし、あの二人、初めっからめっちゃ仲悪いから。あれなんていうんでした?犬と猫?」 「…は?犬猿の仲…?」 「ああ、せやせや、それ。やから、大丈夫ですよ」 はっははーなんて豪快に笑われると、どっと疲れてしまう。確かにあの無遠慮さは、旧知の仲と言われれば納得出来ないこともない。 だが医者という職業の人間が、患者に対してあの振る舞いはどうなのか。どう考えても静の不安はぬぐい去れなかった。 「で、雨宮は?ええ酒で殴られたんでしょ?」 「ええ酒って、まぁ、高い酒の瓶でね。それで、額が割れちゃってって、あれ?どうして知ってるの?」 「ああ、早瀬さんから電話貰うたから。いやー、焦りましたわぁ。怪我した言うし。雨宮で良かったわぁ」 「よくねーし!!」 「あ、そうですね、すんません」 静の怒りに成田がシュンとした。 成田は過去に静の目の前で酷い目に遭っている。それこそ生死を彷徨うような状態で、こうして元気なのが不思議なほどだ。 そのせいもあって静は誰かが傷つくのをひどく嫌う。自分の無力さを思い知り、ひどい後悔の念に襲われるからだ。 二度と自分の目の前で誰かをあんな目に遭わせたくない。日に日に強くなる思いに、静は一人もがいたこともあった。 だが、もがいたところでどうしようも出来ないのもよく知っていて、結局、考えは堂々巡りになるのだ。

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