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第6話
「あー、久志かぁ」
静かなホールに声が響きハッとした。振り返れば、暗闇に人影。
「あ、塩谷センセ、何や、手間かけてすんません」
奥から白衣を身に纏った塩谷が現れ、成田が頭を下げた。
こうして白衣を着れば医者に見えなくもないとは言い難く、胡散臭さが増しただけで静は顔を顰めた。
白衣を着て、ほら医者でしょみたいな姿を見せられると、益々如何わしさが強まる。詐欺師特有の、では証拠を見せましょうみたいな如何にものシチュエーションに思えてしまうからだ。
上から下まで見て、本当に雨宮をこの怪しげな男に渡して良かったんだろうかという自責の念に駆られるほどにだ。
「雨宮、どないです?」
「ん?或人?かすり傷。5針縫った程度。大した事ねぇわ」
「5針も!?」
静は思わず声を荒らげた。5針が大した事がないと言う意味が理解出来ない。かすり傷がどんな状態の怪我を意味するのか知っているのか、掴み掛かって問いつめたいほどに腹が立つ。
世間一般常識では、5針縫うというのはかすり傷とは言わないはずだ。憮然とした面持ちの静をしかめっ面で見た塩谷は、唐突に指を鳴らした。
「あ、あん時の兄ちゃんじゃん」
「は?」
どの時ですか?塩谷に見覚えがない静は唐突に告げられた言葉に、面食らった。
あの時ってなに?もし、鬼塚組の屋敷で逢っていれば忘れない顔だ。胡散臭さが半端ないからだ。
だが、逢った覚えはない。組関係以外で、こんな胡散臭い自称医者のような男と会うような機会はないのだから、やはり初対面のはずだ。
「あの…俺、見覚えないんですけど?」
「あ、そっか、寝てたもんなぁ」
「ね、寝て!?」
「あ、そうそう、静さん、あのときに」
「はぁ!?どの時!?」
成田まで言う”あの時”が、当の本人の静には全く身に覚えがない。絶対に初対面だと断言出来るほどに、覚えがないのに相手には覚えが有るという居心地の悪さ。
静は人の顔を覚えられないタイプではない。どちらかと言えば一度逢えばずっと覚えている方だ。
なので忘れているという訳ではないはずなのに、一切、記憶にないのが気持ちが悪い。
「組長が静さんと初めて逢うたとき、塩谷センセが診察しはったんですよ」
「そこかー!!」
成田の説明に静は声を上げた。心と初めて逢った時、あの時に静の運命の歯車は動き始めたと言っても過言ではない。
転がっていたところを心に拾われて、気が付けば天使の見守るベッドの上で寝て点滴を受けていた。
あの日は体力と精神力の限界で道端に転がって、水溜まりに顔をつけたところで静の記憶はブラックアウトしたのだ。
そこから目覚めるまでの記憶は、一切合切ない。塩谷と初対面、ある意味正解ではないか。
「ん?…え?点滴…?」
「そうそう、もう大丈夫だろ?あの時は、クソ夜中に緊急事態だって叩き起こされて、クソガキになんぞあったかと思やぁ、オマエの診察って言ってなぁ。まぁ、腹立ったわ」
その節はありがとうございましたと頭を下げるべきか、それとも、その点滴の中身は大丈夫だったんでしょうね?と再確認すべきか。
どちらにしても静が胡散臭いと思っていた男は、静の記憶のないときに診察をして治療まで施していたということだ。
「その節は、ありがとうございました」
ここはやはり礼を言うべきだという結論に出た静は、塩谷に深々と頭を下げた。
「ぷっ!ははははは!何、これ!コント?俺、ありがとうとか言われちゃったよ?」
「…あ?」
下げた頭を戻すのと一緒に、拳でも突き上げたいほどに失礼な返答。ここは医者らしく、良くなってよかったなじゃないのか!?
爆笑する塩谷を殴りたい憤りを奥歯を噛み締めて堪えながら、静は大きく深呼吸した。
とりあえず、非常識人間には馴れている。こうして深呼吸すれば、全然、大丈夫。
「いやー、服脱がすまでは、もしかして小さい乳でもかと思ったけど、野郎なんだもん。残念…」
塩谷が言い終わるか否か、その瞬間に静は目の前の長椅子を蹴飛ばしていた。静かなホールに長椅子の悲鳴の様な音が響いて、成田が塩谷の腰を小突いた。
「俺、雨宮さん見て来る。奥だよね?」
静は塩谷に冷たい視線を送ると、そのまま奥へと姿を消した。その後ろ姿を見ながら塩谷はクツクツ笑った。
「あれがクソガキの?まぁ一筋縄でいかねぇような、お姫さんだこと。見た?あの蹴り」
「ちょっとー、やめてくれます?人が悪いわ、塩谷センセ。そのやり方で崎山に殴られたん、忘れたんすか?」
「雅ぃ?さぁな、俺は過去を振り返らねぇんだよ」
成田は静の蹴飛ばした椅子を直して、その椅子に腰掛けて煙草を銜えた。
塩谷の悪ふざけは今に始まった事ではない。人の神経を逆撫でさせるのにおいては、右に出る者は居ないんじゃないかというほどの性悪だ。
心が塩谷の診察を受けたがらないのは、このせいもある。とはいえ、自ら進んで塩谷の治療や診察を受けたがる組員は皆無だ。腕は確かだが、治療は故意としか言い様がないほどに荒い。
とりあえず、わざと痛くしているよね?と聞きたいほどに無茶苦茶な事をしてくれる。
「それよりどうなってんだ。早瀬のとこは酔って暴れるような客が来るとこじゃねぇだろうが」
塩谷は成田の丁度、前にある長椅子に座ると成田の作業着の胸ポケットにある煙草を取り一本銜え、箱をそのまま自分の白衣のポケットに直した。
「おい、オッサン、さっき開けたばっかやねんぞ」
「で?どうなの?」
「…雨宮は、なんぞ言うてました?」
「客に見覚えはねぇってさ。なんだ、オマエんとこ、どっかとモメてんのか」
「まぁ、うちの主治医やから話しときますけど、組長が狙われてるっぽいんですよねぇ。いや、分かりませんよ。今回かて、たまたまかもしれへんけど」
「クソガキが狙われてるのなんか年中無休で、コンビニ営業並みだろうが。今に始まったことじゃねぇだろ」
「そうですけどね。今回のは今までの奴と違って、宣戦布告してきたんで」
「ほぅ、そりゃ酔狂じゃねぇの、クソガキに言ったのか?」
「言う訳あらへんでしょ!あの人、スキップして往来に出て行きはるわ」
「…はぁ。確かにアイツはそうするだろうな。とりあえず、俺の仕事増やすんじゃねーぞ。あとクソガキだけは守れよ、兵隊。取り返しがつかねぇ事態になるぞ」
「そりゃ、肝に銘じてますって」
成田がそう言うと、塩谷はフンと鼻を鳴らして目の前の筒状の黒い灰皿に煙草を投げ込んだ。
「雨宮、明日には退院って良かったすね!」
静は成田のFDの助手席で、少しご機嫌斜めだった。少し…いや、少し。
完全とまではいかないものの、ここまで膨れ上がった怒りを抑えたのだからなかなか大人になったものだと自分で思う。
常日頃から傲岸不遜な男と一緒に居るせいで忍耐力がついたのかもしれないが、その心への苛立とは種類の違う腹立たしさ。それが消えては出、消えては出、としてくるから厄介だ。
「成田さん…。雨宮さん、置いてきて大丈夫だったの?」
「え?大丈夫っすよ」
「だって、あそこ病院じゃねーもん。部屋も普通の部屋で、俺ビックリしたもん」
何もない4畳半ほどの広さの部屋に、病院でよく見るベッドが一つ。もちろんナースも居なければ、ナースコールもない。
何かあれば部屋から這って出なければいけないような所。そんなところに雨宮を置いて来たという、どこか後ろめたさ。
明日には容態が急転して死んでしまっているのではないかと、額を5針塗っただけなのに、そんな心配すらしてしまう場所。
そして止めが主治医があの男、塩谷ということ。引き返した方がいいのではないかとさえ思う。
成田がチラリと助手席を見れば、何だか難しい顔をしてみせる静。それに成田が眉尻を下げた。
「あのー。ほんま、大丈夫やし。やて塩谷センセは、うちの専属主治医なんですよ」
「専属主治医って…言っちゃ悪いけど、闇医者だろ?ブラックジャック」
「ブラックジャック。ハハッ、まぁ、そうですけど。うちに来る前は、まぁ、腕のええ医者やったんですよ」
成田が言葉を濁すので、きっとあの塩谷にも人に言い難い過去があるのだろうと静はそれ以上聞かなかった。
だがやはり、雨宮のことは気になった。明日、早めに行こうと思っていても、静の足は雨宮だ。護衛の名目がついた男は今、その胡散臭い医者の用意したベッドの上で点滴を打たれて眠っている。
じゃあ一人で行こうなんて、組に迷惑がかかるようなことはしたくない。これは我慢するしかないのかと、静は唇を尖らせた。
「どないしはりましたん?アヒルさんになっとりますけど?」
成田が運転しながらけらけら笑った。
そうだ、無茶をして成田の様な目に遭わせる人間を出すわけにはいかないのだ。あんな思い二度としたくないし、あんな目にもう誰も遭わせたくない。
静の気を紛らわそうと無邪気に話す成田を見ながら、静は強くそう思った。
キャデラック CTS-V COUPE。
メルセデス・ベンツC63AMGをも上回る最高出力を叩き出せるそれは、優雅に町中を走っていた。
太陽の光を浴びて、ギラギラと黒光りする車体フォルム。キャデラックと言えばアメ車というイメージが強いが、このCTS-V COUPEはアメリカンというよりも高級プレミアム。コーラよりもコーヒ。ホットドックよりもサンドイッチという例えが似合いそうなほどに、インテリアに拘っていた。
そのハンドルを握る成田は、流れるように走るそれを気分良く体感していた。そしてその隣には気怠げな心。
セダンを買わずにクーペを購入したおかげで、心を助手席に座らせるという緊張感いっぱいの運転だが、もう馴れた。
心はセダンよりもクーペ、4人乗りよりも2人乗りを好む傾向があるので、こうして二人仲良く隣同士でドライブなんていうのも今に始まった事ではないのだ。
だが手に入れたばかりのCTS-V COUPEを、この自由気侭な主はあまりお気に召さないらしく、いつもは弄り回すメーターやオーディオも5分もしないうちに触らなくなってしまった。
「あんまり、気に入りません?」
「あ?」
「これ、結構、ええ車やと思うんですけど」
「ああ、これなぁ。んー、ブガッティ・ヴェイロン買ってもうたからなぁ」
「え!買ったんすか!!」
思わず運転操作を誤ってしまうほどに成田は驚いた。ブガッティ・ヴェイロンとは、ブガッティ・オトモビルが2005年から製造しているスーパーカーだ。
成田がそこまで驚く理由はその車体価格だ。冗談の様に高い車は、やはり冗談の様なエンジンを搭載していて、どこで出すのか最高速400km/h以上という化け物の様な車だ。
心がその車を前々から欲しがっていた事は知ってはいたが、何と、このブガッティ・ヴェイロンは購入するにあたり審査があるのだ。ブランドイメージを損なわないためという名目だが、職業から購入目的まで、お見合いのそれに似た審査が行われる。
職業欄に極道と書く馬鹿は居ないだろうから、イースフロント社の代表取締役ということで書類を出したのかもしれないが、とはいえよく通ったものだ。
国内でイースフロントが鬼塚組のフロント企業であることは、広く知られた話だ。国内ではだから、フランスの会社がそれをどこまで周知かは謎だが…。というよりも、その書類等の手続きを誰がしたのかも謎なところだ。
「あのー、ブガッティ・ヴェイロン…いくらしましたん?」
「あ?いくらやっけ?スーパースポーツやねん」
「す!!」
「す?」
心のことだからブガッティ・ヴェイロンでも最高級で、しかも、特別仕様の物を手に入れているとは思ったが、まさかのランクにハンドルを握る成田の掌に一気に汗が滲み出た。
ブガッティ・ヴェイロン スーパースポーツ。その価格、2億。
「相馬に言うたら殺すぞ」
「え?えー、無茶言わんといてくださいよ。陸事に出す書類の手続きとか、若頭の判子要るんですから」
「チッ、判子、パクってこいよ」
「組長…」
あんた、俺を殺す気だろ。
無茶ぶりも今に始まった事ではないが、どこまでが本気でどこまでが冗談なのか読めないのが頭の痛いところだ。冗談だと思って放置していると実はそれが本気だった話で、成田は何度か心の逆鱗に触れている。
同期の崎山と違い、上司の腹の奥底まで敏感に読み取れるほど観察力は鋭いほどではない。どちらかと言うと鈍い方だ。
そして、その上司がこんな無軌道で得手勝手な男だと、更にそのハードルは高くなる。一意直倒でありながら、その時の気分で動くところもあるもんだから、たまったものじゃない。
「…で、今日は何しに行くねん」
「ああ、なんぞ、話がある言うてましたわ」
CTS-V COUPEに乗って二人して優雅にドライブ…している訳ではなく、一応、目的があって走っている。
行く先はイースフロント。鬼塚組のフロント企業だ。心はこのフロント企業には、ノータッチというほどに関与していない。全くもって無関心だ。
どれだけ巨額の利益を生み出そうとも、関心を寄せることはない。ブガッティ・ヴェイロンが軽々買えるのも、この会社の功績あっての事だが、やはりどうでもいいのだ。
イースフロントの全てを握っているのは、若頭である相馬である。実業家としても名高い男は、若頭の襲名後にすぐにイースフロントの経営に介入し、あっという間に巨大なものに成長させた。
心が経営に関わらないのは、まだ学生だったころにふざけて言った約束事。心はそれを忠実に守っていると言えば聞こえは良いが、結局、相馬に全て丸投げしている状態だ。
それでも取締役として名前がある以上は、何かにつけてこうして呼び出されることは多々ある。心からすれば、その取締役の名前からも外して欲しいくらいだ。
いっその事、委託職員。若しくはバイトでもいい。それくらいに煩わしい。
「あー、くそ面倒やなぁ」
「…組長」
「…で、雨宮は?」
「はい、大丈夫です。塩谷センセに縫われて機嫌は悪いですけどね」
「素人やったんか?」
「ええ、雨宮に今朝聞いたら、全く見覚えのないリーマンや言うてました。まぁ、最近は堅気さんも調子こいてるとこあるし、その類いちゃいます?」
「雨宮がそんなんなったから、静が落ち込んでるとか」
「ああ、そうですねぇ。あ、昨日は会うとりませんの?」
「俺が帰った時には眠り姫や。まぁ、落ち込んどるんも、お前のことがあるからやろうけど…。でも早瀬んとこにそんなん入るっていうんがなぁ。おい、最近変わった事あらへんやろうな」
ぼんやり外を眺めながら煙草を銜える心を見て、成田は助手席の窓を軽く開けた。何か、まさか勘付かれたかと思いながらバックミラーを見る。
怪しげな車は見当たらない。いや、そんな如何にもの動きをするはずがない。護衛についている連中は、実は成田でさえ顔を知らない連中だ。
裏鬼塚。崎山が管理するその組織は謎だらけだ。雨宮と鷹千穗は一緒に仕事をしたことがあるので知っていたが、他のコマは全く分からない。策略家の崎山が裏をどう使っているのか、仲間内の成田達でさえも知らされていないのだから、ある意味恐ろしい軍団だった。
「最近、変わった事。まぁ、三州会の久保本が怪しげな動きしてるみたいですわ」
「ああ?」
「組長の事、嗅ぎ回ってるようなんで、気ぃつけてください」
それは9割嘘だ。三州会は老舗極道で、久保本はそこの大幹部だ。心がまだ組長を襲名していない時分に、鬼塚組の幹部を殺傷した事件を起こした男で、三州会は危うく組を畳む事態に追い込まれた。
結局は、その時の三州会会長である堂島 真が会長を辞任。慰謝料として4億円を支払い、久保本は指を詰めた。そして最終的に久保本を警察に売ることで、どうにか和解に漕ぎ着けたのだ。
その久保本が最近出所して、三州会に出戻っている。会長である堂島は3年前に他界していて、今の組長である柴崎は久保本の元舎弟だ。出所した久保本は瞬く間に三州会の幹部に就任したらしい。
三下の組を鬼塚組が相手にするわけもないのだが、今、起きている状況を隠す目くらましには持ってこいのネタなのだ。
「久保本は一度、うちの幹部やったことで名前が売れてるんで、また何をしてくるか分かりません。堂島会長も亡くなってもうてるし、あそこは最近、島争いで小さい戦争あちこちで起こしとるらしいんで」
「…ふーん」
心はやはり対して興味なさげに言うと、紫煙を吐き出した。
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