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第8話
「何…?」
東雲の言葉に重なる様に取調室のドアが蹴破られ、ドアを開けようとしていた男が吹っ飛んだ。
「鳥谷!!」
もう一人の男が”鳥谷”と呼ばれた男に駆け寄る。東雲も慌てて立ち上がると、蹴破られたドアの向こうから舌打ちが聞こえた。
「おいおい、分署のコマが何を勝手な事やりくさってんだ?ああ?」
心はその男の声に思わず笑った。思った人間と違う人間が来たが、どちらにしても好都合だった。
東雲は入り込んで来た異国色の強い男を見ると、蛾眉を顰めた。
「はっ…貴様、警視庁の及川か?じゃあ、今の騒ぎも貴様の仕業かよ、おい」
「あ?誰だ、オマエ。チッ、てめーさぁ、誰に許可得てコイツにワッパ嵌めてんだ?あ?人の楽しみ取るんじゃねぇよ」
そう言って、及川は何故か心の座る椅子を蹴飛ばした。
全く、どいつもこいつも刑事なんて職業のくせに足癖が悪い。安物のパイプ椅子をそんなガンガン蹴飛ばせば、段々とバランスが狂ってガタガタしてくる。
「ったく、てめーもさぁ、なに簡単に捕まってんだ」
「及川ぁ…警察ってのは極悪非道な人種やなぁ。ケーキ一個もくれずに、くれたのは食えねぇ拳やて」
「ああ?」
及川が東雲を睨みつけるが、東雲はそれに動揺することなく深く椅子に座り直し煙草を燻らした。
「転んだんだよ、その餓鬼がさ。及川警視」
「あ?何だ、こら、てめー」
及川が東雲の態度に一歩、歩を進めたとき、その腕を掴む腕があった。杉山だ。杉山は疲れた様子で息をついて、及川を引っ張った。
「オマエさぁ…。頼むよ、マジで。あと、東雲、オマエも何してんだ」
「杉山さん」
杉山が現れると、東雲は急に背を正し立ち上がった。
及川といい東雲といい、一体、この杉山の何が怖いのか。それとも服従してしまう何かがあるのか、力関係がよく分からないなと心は三人を眺め思った。
「公安もマークしてる人間だぞ、オマエもその意味くらい分かるだろ。これはやり過ぎ」
「そうですね」
答えたのは東雲ではない。もちろん及川な訳もない。その声に聞き覚えのある心だけが「来よった」と呟いた。
出入り口の杉山を押し退け、男が入ってくる。縁なしの眼鏡に一重の切れ長。高く小さな鼻に形の良い唇。
及川と同じ異国の血が入っているのか眸も髪も亜麻色で、綺麗だとか美しいだとかの形容詞がピッタリの顔の男は人形のような冷たさしか感じられずに、杉山はゾッとした。
「あー?何だ、オマエ」
同じ人種に仲間意識を持つ訳もない及川が、男を威嚇した。それに男は口元だけで笑った。
「オマエ…ねぇ。まぁ、いいでしょう。私、神保義由 と申します。鬼塚組の顧問弁護士です」
「ああ、オマエが神保。初めて見るな」
及川が神保を上から下まで舐める様に見るが、神保は相好を崩さずに掌をこちらに見せた状態で人差し指で眼鏡を上げた。特徴のあるそれに、及川はふっと笑った。
「東雲 樹人 警部補、今回の逮捕容疑を述べていただけますか?」
「フルネームで呼ぶんじゃねぇよ」
「これは失礼。では、どうぞ」
「ああ?なんだ、逮捕容疑?あーっと、あれ、公務執行妨害?」
東雲は口角を上げて笑った。すると及川がそれに声を出して笑ったので、東雲は睨むようにして見た。
「公務執行妨害罪。ところで、どういった公務執行妨害ですか?」
「ああ?あー、あれだ、暴行。こいつは鬼塚組の組長だ。事情聴取に同行願おうとした時の暴行」
「暴行。刑法の第五章、公務の執行を妨害する罪の第九十五条の公務執行妨害及び職務強要、第一項、公務員が職務を執行するに当たり、これに対して暴行又は脅迫を加えた者は三年以下の懲役又は禁錮に処する。というやつですね?」
「六法全書丸覚えか、オマエは。それがどーした」
「公務執行妨害が成立するための3つの要件はご存知ですか?」
神保はフンッと東雲を鼻で笑い、脇に抱えていたタブレットを取調室のテーブルに置いた。
「これはイースフロントの超高画質高性能監視カメラが撮影してくれた、ありがたい映像。これ、この男がこの手錠をかけられた可哀想なクソガキ。で、この姿勢の悪いのがあんたね。東雲警部補。はい、ここから1分もしないうちにあんたはこの男に手錠をかけた。1分もしないうちに。ラーメンも出来ねぇわ。さぁて、見た?あー、及川警視でもいいや、観た?」
「ああ?」
「このクソガキが、この公務員という公僕に対して職務を執行しているときに暴行または脅迫を加える瞬間を見た?」
「観てねーわ、俺はな」
及川はククッと笑った。
「そう、この東雲警部補はこの可哀想な男の腕を掴んで、いきなり手錠をかけた。警察手帳も見せずに身分も明かさずに、いきなり。HELLOもこんにちはもニイハオもなしにな」
「何だ!テメーはよ!!!」
東雲は机を叩いて立ち上がる。それを神保は、先ほどと同じ様に眼鏡の端を右手の掌を見せたまま人差し指で持ち上げて見据えた。
「東雲樹人警部補。ああ、下の名前は呼んじゃダメでしたっけ。私、物覚えが悪いものでね」
「ハッ、よく言うぜ。わざとだろうが、オマエ」
「あなたの逮捕よりはマシでしょ。あのね、知らないようなので丁寧に教えて差し上げますが公務執行妨害ってのはね、例えば、あんたの胸倉を掴んで馬鹿と罵倒すれば適用される。でも、あんたに遠くから馬鹿と言っても、適用されない。が、もし遠くから死ねと叫べば適用される。結局ね、暴行又は強迫を加えなければ、公務執行妨害は成立しないんだよ。が、あんたがどうしても、この可哀想な男を公務執行妨害で逮捕、取調をするっていうんなら、僕はこの証拠の監視カメラの映像を証拠に、あんたを特別公務員職権濫用罪で訴えてさせてもらう。言っとくけど、あんた負けるよ。あ、そうそう、ハイテクな世の中に感謝しな。音声もあるから」
神保はそう言うと、タブレットを閉じた。
「く、組長ー!!」
新宿署の前で成田が抱きつかんまでの勢いで出て来た心に駆け寄ったが、その成田の頭を神保が思いっきり叩いた。
「いってー!!何さらすんですか!!」
「何さらす?その言葉、のし付けてそっくりそのまま返すね、ボンクラが。オマエこそ何してるわけ?クソガキ一人のお守りも出来ないわけ?どうして僕が遠路遥々こんなとこまで来る羽目になったのか、分かってんの?」
神保は煙草を銜えると、成田が乗って来たC63 AMGの助手席に乗り込んだ。そして、橘が開けて待っていた後部座席に心も乗り込み、橘は後ろに停めてあった車に乗り込んだ。
「義由、及川呼んだのはオマエか」
後部座席でゴロンと転がった心が言うと、神保はやはりあの独特な仕草で眼鏡の端を上げて笑った。
「弁護士が容疑者に接見するには、くそ面倒臭い手続きが必要なんでね、坊ちゃん。その点、及川警視ならオマエのために喜び勇んで飛び込んでくれると思ったからさ。まぁ、その前に多いに暴れてくれちゃって。あの人、刑事を続けられてるのが不思議なくらいの狂犬だね。あの東雲っていう奴も結構ムカつく奴だけどさぁ」
「東雲警部補って、ジュク署の狂犬の異名を持った人ですわ。こっちでも有名です」
成田が車を走らせながら言うと、隣でPCを拡げた神保が興味なさげに「へぇ…」と言った。心に至っては、返事すらない。
「警視庁の及川は本庁の狂犬で、あの東雲っていうんは分署の狂犬。うちの若いもんも、あの東雲には酷い目遭うてるんです。なんせ極道を人やと思うてへんし。及川警視は本庁の人間やから、でっかいヤマしか捜査せんけど、分署の東雲警部補は小さい事からとりあえず出刃って来て。まぁ、好き勝手してくれるんですわ。それこそ憂さ晴らしみたいに暴れたおす時もあるし」
「ま、とりあえず、坊ちゃんを放し飼いにすんのやめろよな。逃げるようなら首輪してリードしとけ。大型犬注意の看板忘れんな」
冗談なのか本心なのか分からない神保に、成田は返事も出来ずに苦笑いをした。
この怖いもの知らずと言っても過言ではない神保義由は、相馬の父が引退した後に空席だった顧問弁護士の席に収まった男だ。
なぜ心を”坊ちゃん”だなんて軽々しく呼ぶかというと、実は相馬の後輩なのだ。後輩というよりも相馬北斗の崇拝者。心から言わせれば”酔狂な狂者”だそうだ。
神保が相馬に初めて逢ったのは、大学での弁論大会だった。誰も彼も神保に敵わぬ中、神保潰しで送り込まれたのが相馬だった。
その大会で完膚なきまでに叩きのめされた神保は相馬に惚れ込み、直ぐさま猛アプローチを仕掛けた。
「一緒に完全無敗の弁護士事務所を作りましょう」と。
その頃の相馬は、まさか心が帰って来て組を継いで、自分まで巻き込まれるだなんて微塵も思っていなかったので曖昧な返事を繰り返していた。
曖昧になるのも無理はない。神保の志望は検事だったからだ。検事になると意気込んでいるくせに、相馬と弁護士事務所というのが全くもって理解出来なかったからだ。
検事をやめて弁護士にでもなるのか?初めから弁護士を志望するわけでもなく?ヤメ検?
理解し難い言動をしていた神保は、相馬が4年の時に帰ってきたら事務所を作りましょうねと外国へ留学した。三回生の大事な時期にだ。やはり意味不明の行動だった。
そしてその神保が留学から帰って喜び勇んで相馬に会いに行けば、悪を憎んで人を憎まずの弁護士ではなく、その悪の極道になっていたのだから、その胸中は計り知れない。
更に組長である心を紹介されて「こんなクソガキのために!?」と暴言を吐いたのも有名な話だ。
相馬はというと、神保の弁護士事務所を一緒にというのは本気だったのかと、初めて実感した時でもあった。
とりあえずは、相馬は神保が崇拝していた品行方正で秀外恵中な頃とは180度別人になっている。いや、そう勝手に想像していただけで、相馬という男は実はそういう男だっただけなのだが。
それに失望して全うな道に進むかと思いきや、どこからともなく鬼塚組の顧問弁護士の席が空いているという情報を聞きつけ、相馬に雇ってくれと直談判してきたのだ。
さすがの相馬も後輩を極道の道に居れるのは気が引け、それを丁重に断った。だが神保は相馬の上手だった。なんと相馬の父親である良樹に直談判したのだ。
結局、最終的には面倒なことが嫌いな心の「もうソイツでええやろ」の一言で決定してしまったのだ。
神保義由。彼は相当な変わり者だった。
「…ねぇ?オマエ、逮捕されちゃったってホント?」
屋敷に帰り、ソファで転がっていた心に仕事から帰って来た静が笑いを堪えた顔で心に聞いてきた。
帰って早々、開口一番それ。ただいまとか、お疲れとか、そういう挨拶をすっ飛ばしてそれ。
「なに、オマエ。そないに俺に捕まって欲しいんか」
不機嫌。当然のことで、更に今、猛烈にそれが増した。
「いーや、ちょっと見たかったかな。手錠かけられた姿」
「あー?悪趣味か」
すっかり拗ねてしまった心の腹の上に股がる様に乗り、静がごめんごめんと謝るが、全く気持ちが籠っていないのがよく分かる。
だが自分から心の上にちょこんと座るのは、かなり上機嫌の証拠だ。余程、心が捕まった事が面白かったという、とんでもないことを証明した事になる。
「あ、これ手錠の痕?ちょっと、擦り剥けてるぜ?これはないなー」
心の手首に赤く残る痕は、東雲が遠慮無しに手錠を引っ張ってくれた証拠だ。神保に言って訴えてもらえば良かったと思いつつ、それはそれで面倒なので舌打ちするに止めた。
「雨宮さんも驚いてたけど、心って捕まった事ないの?」
「あるか」
「え?一度も?」
「ねーわ」
「マジで!!すっげぇ!!」
「あ?何、オマエの捕まるってなんや」
フワフワと羽の様に軽い身体。ちゃんと食べているか?なんて心配はご無用だ。静は見た目をことごとく裏切る大食感だ。
舎弟の巨人、橘と張り合えるほど、いや、それ以上に胃はでかい。もしかしたら胃下垂かもしれないなと思い、心は静の腹を擦った。
「捕まるって言ったら…逮捕?って、腹、触んなよ!」
「飯食ったんか?」
「食った。雨宮さん特製オムライス」
「逮捕は今回が初めてかもしらへんなぁ。前は任意やったし」
雨宮特製のオムライスって何だと思いながら、心は手を伸ばしてテーブルの上の煙草を取った。一本銜えて、火を点けることなく唇で弄ぶ。
さすがに腹の上に静が居るのに火を点けるのは憚られた。このまま吸えば、間違いなく煙たいと静の機嫌が悪くなるからだ。
「任意?へぇ…」
「今回は、逮捕なんか?」
「俺が知る訳ねーわ」
誤認逮捕?いや、誤認なんて言葉で済まない、横暴極まる公僕の錯乱としか言い様がない。
「今日は厄日だな!」
フフッと笑われたが、厄日なんて簡単な言葉で片付けられても面白くない。散々だった。そもそも、会社に乗り込んできた男は結局なんだったのか。
今日は相馬が多忙で顔を合わせる事はなかったが、明日はにっこり笑った涼しい顔で、これでもかというくらいに厭味を言ってくるのだろう。それが想像出来て、今から気が重い。
そんなうんざりしている顔をした心の前に、静が2枚の紙切れをかざした。
「あ?」
「何だかわかる?」
「なんや、これ」
「あー!!やっぱりー!絶対わかんねーと思った!この時代錯誤の馬鹿人間め!!」
胸元をバンバン叩かれるが、さっぱり意味が分からない。そんな心の顔に静は満足げだ。
「…あ?」
「これはー、映画のチケットですー」
「…へぇ」
「…へぇ、じゃねーわ!!心、映画行った事ないって言ってたじゃん!!」
「ああ…買ったんか?」
「違いますー。貰ったんだ、店の人に。何か…」
「何やねん」
言い淀む静を訝しんで、心が首を傾げた。
相変わらず心の腹の上に乗ったままで、やはり銜えた煙草に火は点されていない。さすがに煙草を銜えて火を点けないのも限界がきたと、心は上体を起こすとテーブルの上のジッポに手を伸ばした。
それを見た静は心の次の行動が読めたのか心の上から退くと、その前のソファに移動した。
「店でね、何でか、雨宮さんと付き合ってる事になってる」
「は?雨宮と?ああ…ええんちゃうん」
「え?」
「あ?なに」
「いや、別に」
「…あ、妬くと思ったんか」
くくっと笑うと、当然の様にテーブルが蹴られクッションが飛んできた。煙草を吸っている人間にするとは思えない行為だ。
「俺が店に行って、オマエは俺のやって言うか?」
「俺を店から抹殺する気か」
「ええやんけ、雨宮なら番犬に持ってこいや。オマエに悪さしようって奴もおらんようになるやろ」
「俺は女じゃねーよ」
ふんっとすっかりご機嫌斜めになってしまった静を、笑いをかみ殺しながら眺める。容姿に関しては本当に禁句だなと思いながら、そういう気高いところがやはりいいと改めて思った。
「で、なに、雨宮と付き合うてるからって、それくれたんか」
「ああ、そう。デートしておいでって。あ、これまだ公開じゃないんだけどさ」
「へぇ…デート」
「ち、違うからな!心が、映画行った事ないって言ってたじゃん。だから、行くかなって」
「行く」
「…あ、そう?そっか」
えへへと静は笑って映画のチケットをじーっと見ていた。静と出逢ってからどこかへ行ったのは、この屋敷へ初めて来たときくらい。二人でどこかへ出掛けるなんてこと、したこともなければする時間もなかった。
静は大学の卒業がかかっていたし、心は多忙で暇がない状態だった。それに加え、心はひどい出不精だ。何の楽しみもさせてないなと今更、気が付いた。
「公開なったら言えよ。仕事空けるから」
「あ、うん。早く観たいな」
そう言って、静は笑った。
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