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第9話
その日、静は通い馴れたキャンパスを歩いていた。まだあどけなさが抜けない顔を見せるのは、新入生だろうか。
周りを見てみるが、誰一人として知った顔がいない。それもそのはずで、同じ年の学生は静よりも先に卒業したし、浪人して同じゼミに居た生徒もみな無事に卒業をしたからだ。
大学に真面目に通ってサークルに参加していれば後輩の顔くらい分かったかもしれないが、ここで今知っているのは教授くらい。親しい友人は居なかった事に、どこか寂しさを覚えた。
ここへ入学したときは、死んでも卒業してやると意気込んでいた。
それでも浪人した時は何もかも追いつめられていて、正直、立っているのがやっとだった。
あまり良い思い出がないというのが正直な感想。そんな場所に改めて足を踏み入れたのは、親友の桜庭暁に逢うためだ。
暁は相変わらず大学に残り、何やら研究を続けてい居る。分野が全く違うので、一体、何をしているのかはさっぱり分からないが、暁にはそういうのが合うと思う。そういう研究者向きな性格ということだ。
思う存分遊べるはずの学生時代をバイト三昧で過ごして来た静は、暁ともそんなに時間が取れなかった。だが、最近になってようやく静の生活も落ち着いて来て、久々にランチでも取ろうということになったのだ。
バイト代も入り、懐は温かい。どうしても貧乏癖が抜けなくて、あれこれやり繰りを考えたりするが、心と暮らす静には出費らしき出費がほぼない。
こんな事でいいのかと思ったりもするが、生活費だとか家賃を心に渡すというのも何か違う気がする。
「あ、吉良!!」
うーんと考えていると、大学の一際大きな建物の入り口で手を振る暁が見え、思わず顔が綻んだ。
長身で美丈夫。整った顔にかけられた眼鏡が清潔感を醸し出し、本当に見かけはモデル顔負けなのに驚くほど口下手で、人が良過ぎる性格が邪魔して彼女の類いが出来ない。
勿体ないなと思いつつ、暁が誰かのものになるというのもどこか面白くない。我が儘だなと思いながら、暁に駆け寄ると満面の笑顔で迎えられた。
「うわー、久々だなー。元気だった?」
「うん、元気。暁は?」
「元気だよ。教授に扱き使われてるけどね。ランチ、どうする?学食行く?」
「そうだな、久々に学食行きますか」
大学の食堂というのはわりかし豪華なもので、しかも学生相手の商売ということで価格もリーズナブル。最近ではグルメな学生に合わせてか味もしっかりしたもので、たかが学食ではなくなってきている。
賑やかな学食は中の人間が変わっても雰囲気はそのままで、静はそれを楽しんで見ていた。自分が学生と呼ばれる頃は、こうしてぼんやり眺める事なんて出来なかったものだ。
「えっと、バーで働いてるんだよね?」
静の前に座る暁が、本日のお薦めという和風ハンバーグ定食を食べながら聞いてきた。静はボリューム満点ミックスフライ定食ととんかつ定食。これにカレーライスもつけたいくらいだが、さすがに止めた。
「バー…だなぁ」
「バーってどんなの?ほら、俺らってコンパとかでしか飲みに行かなかったでしょ?バーとかよく分かんないな。すごい高いイメージ」
「あー、うん。滅茶苦茶レアな酒は高いけど、普通の酒もあるよ。カクテルとかもあるし。さすがに生中を頼む人間は居ないけどな」
「へぇ、そうなんだ。え?なに、吉良がカクテル作ってくれるの?」
「は?まっさかー。バーテンが居るから、その人がな」
「あ、吉良じゃないんだ?」
「そ、俺は中。厨房」
言ってカツを頬張ると、暁が小さく笑うので静は首を傾げた。
「あ、ごめん。だってさ、吉良が厨房って。吉良って食べるの専門なイメージがあるから」
「はぁ?なんだ、それー」
けらけら笑いながら大学の学食で食事をする。以前は絶対に考えられなかったことだ。きっと何年も、大袈裟ではなく死ぬまでそんなこと出来ないと思っていたのに…。
今、こうして居れるのは、やはり心のおかげなのだ。そう思うと少し、あの傲岸不遜な男に逢いたくなるから不思議だ。
「でも、良い所みたいで安心した。何か、借金が片付いたってあたりから、吉良と逢ったり連絡出来る回数がそれ以下になったから、心配してたんだ。どうしてるのかなって」
「…うん、ごめんな」
「いや、いいんだ。吉良が今、笑ってくれてるのが一番だ」
心の底からそう思ってくれているであろう暁に、静は胸が痛んだ。
今、言うべきだろうか?その思いが頭を過る。実は今、大多喜組ではない極道と繋がっていて、更にはその組の組長と付き合っている。それは男で、その組はあの鬼塚組だ。そして組長は結構、年下で…。
「言える訳ねー」
暁に聞こえないくらいの声で呟いて、みそ汁を啜る。
反対に自分がそんな事を聞かされれば、卒倒してしまう。まずツッコミどころが分からない。
極道にか、鬼塚組にか、組長にか、男同士にか、年下にか。
心配性の暁のことだ、脅されているんじゃないかと問いつめてくるだろう。そして逢わせてくれと言い兼ねない。
大多喜組は静へ違法な取り立てをする非道な極道だったが、鬼塚組はそういうのではないと言えば、尚更、逢わせてくれと言うだろう。だが、そんなことは絶対に無理だ。
暁が逢いたいと言っていると言えば心は恐らく断る事なく逢うだろうが、そんなことは静がごめんだ。
何といっても、あの史上最強向かうとこ敵無しの唯我独尊男だ。人様に胸を張って紹介出来るような人間ではないのだ。躾の行き届いていない狂犬と同じか、それ以下。
「そうだ、おばさん元気?涼子ちゃんも」
悶々とする静に暁の声がかかり、ハッとした。暁が妙な顔をしたが、そこは笑って過ごした。
「母さんは叔父さんの病院で元気にしてる。めっちゃ田舎だから空気もいいし環境もいいし、身体もかなりラクみたい。涼子も親戚の家でしっかりやってるよ」
「そっかー、涼子ちゃんが養女になるって聞いた時は驚いたけどさー。え?じゃあ、吉良は今、どこに住んでるの?」
「……は?」
「え?家。だって、独り身でしょ?マンション?」
「あー、えーっと、あー、そう、ルームシェア。うん、ルームシェアしてんの!あの、その、店の!」
咄嗟に出た嘘に、静は心の中で手を合わせた。
やはり嘘はツライ。嘘を一つつくと、その嘘を護るために更に嘘を重ねる。負の連鎖とはまさにこのことだ。
「ルームシェア?え?その、えっと、店の人?知り合って長いの?仲良いの?」
「…え?」
暁が訝しむのも無理はない。静は他人と馴れ合うのを嫌う人間だった。
それは静の家庭環境などを面白可笑しく噂されることを嫌ったせいでもあったが、静は難しいのだ。性格が。
フレンドリーに馴れ馴れしくオープンにを嫌ううえに、境界線が人とは違う所がある。大多数の人間がここまで親しくなれば友達という境界線が、静はまだ見定め期間だったりして本当に厄介なのだ。
それを静本人よりもよく知っている暁は、まさかのルームシェア発言に耳を疑ったほどだ。
「あー、いや、ほら…社員、そう社員寮的な!?」
「あ、会社が借りてくれてるの?」
「そうそう、色んな人が一緒に住んでる!」
「は?」
「いや…。とりあえず一番仲良いのは、えっと、無口でー、馴れ馴れしさっていうのは一切なくて。でも他人行儀なとこもなくて、変に気を遣わないでいいし、あ!!兄貴的な存在の人とか!?」
暁に説明しながら、何だかそれが一番しっくりきて思わず指を鳴らした。全て本当ではないが、全て嘘でもない。
色んな人間と一緒に住んでいるというのは正解。広大な土地に馬鹿でかい屋敷を建てて。
何だか場当たり的な言動に暁が蛾眉を顰めたが、静はこれ以上何も聞かないでくれと心の中で強く願った。
「ああ、そう、えっと、あ、兄貴的な?へぇ…。お店行ったら紹介してよ」
あまりの迫力に圧倒されたのか、暁は半ば無理矢理に納得した顔をしてお茶を啜った。
「あ、うん。いいよー、怖そうに見えるけど、優しいから」
兄貴的。言うまでもない、雨宮のことだ。雨宮なら心と違い多分大丈夫…のはず。
静はとりあえず、その場をしのげた事に安堵して料理を食べ始めた。
嘘をつくことは辛いけど、今はまだ話す時期じゃない。もう少し、もう少しだけ待ってと静は思った。
「今日はわざわざありがとう」
楽しい時間というのは本当にあっという間で他愛もない話から、暁の日常の話や静の仕事の話と尽きる事のない話を延々続けていた。
だがさすがにいつまでもそうしているわけにもいかず、仕事の時間が迫る静は帰る事にした。
「次はさ、もっと長く話そうな」
静が言うと、暁は大きく頷いた。
「今度、お店に行くよ。吉良の働きぶり見たいし」
「うん、絶対な。じゃあ、また」
「うん、気をつけて」
言って、握った拳を合わせた。そして見送る暁に手を振り、静は携帯を取り出した。
ここへ来るのはもちろん一人で来た訳ではない。雨宮に送って来てもらったのだ。
護衛である雨宮は静を大学前で降ろすと、近くで寝てるからと車で走り去った。雨宮は何時間でもいいし、長い方が沢山寝れるから時間は気にするなとまで言ってくれた。結局、その言葉に甘える形ですっかり時間が経っていた。
「ちょっと、長過ぎたかもしんねー」
静は雨宮にメールを入れると、正門へ向かって歩き出した。ふっと前を見て、思わずその足を止めた。
こんな場違いな…。静は一人思いながら前を見据える。
言うなれば、動物園の檻の中にライオンじゃなく人間。観覧者はさしずめ猿か。いや、そうなるとそれは猿の惑星。
言うなれば、水族館の水槽の中に人魚。本当に絶世の美女。あれ、人魚って魚類?ほ乳類?
それくらいに有り得ない、不似合いな、非現実的な風景。それに、ごくり、息を呑んだ。
鳶色の髪に鳶色の瞳。長身でスタイリッシュ。天然素材100%の美形の男。
ただつっ立っているだけで、そこだけが映画のワンシーンみたいで、見慣れたキャンパスが映画のセットのようだ。
空を仰ぎ見る男の顔は、まるで芸術作品のような造作で何人たりとも人を近づかせない雰囲気を醸し出す、格の違う美形…。
居るとこには居るんだな、ああいうの。静は思いながら、歩を進める。
異国色の強い男は辺りをじっと眺めて、時折、携帯に目を移す。こういうCMがあったような気がすると錯覚するほどに、絵になる情景。
フワリ、木々の香りに混ざり、花のような蜜のような甘い香りが漂う。
「いい匂い」
ボソリ呟く。重くも軽くもない、自然に近いような匂い。ああ、あの人の香水か。
そんな事を考えていると、男が静に気が付き近寄ってきた。近寄って…あれ?なんで?
男は明らかに静を直視しながら、こちらに向かって来ている。静はロックオンされたのだ。
悲しいかな、日本人。異国人に近寄ってこられると、にっこり微笑んでしまう。だが脳内パニック。一気に色んな単語が沸き上がる。
ここ、国際学部あったな。誰か…。あ、暁が英会話出来たな。よし、暁に…。
「吉良静か」
『Excuse me』と言われると思った口から吐き出された日本語。しかも流暢な日本語で、更に…。
「…俺の名前」
「吉良静だろ?」
真正面に立たれてみると、長身さが良く分かる。心と変わらないか、少し低いくらいか。
どちらにしても、静よりもうんと長身だ。そしてモデル体型。とりあえず脚が長い。
顔を合わせて一際目立つ透けるような鳶色の瞳が、思わず吸い込まれそうで息を呑んだ。
「…あの、だれ?」
外人の知り合いは居ませんよ、俺。裏社会の付き合いなら、自らの意思に関係なく脈々と築いてますが…。
「俺は刑事だ」
「…は?」
「は?ってなんだ、馬鹿か、オマエ。俺は、警視庁、」
「FBI?」
24とか?
「あぁ?違う」
「CIA?」
ミッション:インポッシブルとか?
「違う」
「…ICPO?」
銭形刑事?
「警視庁ってんだろーが、ボケ!」
美形が暴言を吐いた。だがそれを気にする余裕なく、わなわなと怒りが勝る。
「バカにしてんのか」
唸る様に言うと、美形が顔を歪めた。
「ああ?」
「警視庁が外国人採用始めたってのか?」
「なんだと、クソガキ…」
「警視庁組織犯罪対策4課。そいつは汚いコネを使って裏入社したわけでも、カンニングで試験をパスした訳でも、権力にものを言わせて入り込んだわけでもない、正真正銘の腐れデカですよ」
突如、背後から聞こえる悪態に振り返って、あっとなった。
「さ、崎山さん」
「崎山…」
そこに居たのは、いつも以上に機嫌の悪い顔をした崎山だった。黒のタイトスーツで華奢な身体を纏い、黒猫を彷彿させる黒髪がフワフワと揺れている。
静の目の前に居る煌やかな男とは対照的な崎山は、男を睨みつけたまま二人に歩み寄って来た。
「ね、どういうこと?大学まで。まさか尾行してきたの?」
「心の女を見に来ただけだよ」
「おい!!女じゃねーよ!」
ガッと噛みつこうとする静を、崎山が咄嗟に押さえた。
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