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第10話

「躾、あんまりなってないんだ」 崎山はそう言うと、静をぐっと自分の後ろへ押した。 「へぇ…。アイツ、こういうのが趣味なのかよ」 「ね、どこで調べたの?」 「お前、俺を舐めてるだろ?心のことなら下着の色まで把握してるよ」 指で円の形を作ってそれを覗く鳶色の瞳は、どこか戯けて見えたが下着の色って。 それに「…変態?」と静が呟くと、男はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。 「その言葉は、俺にとっては誉め言葉だぜ?」 「及川警視、あんたね…」 崎山が口を開くと、急に静が崎山の肩を掴んだ。崎山は痛いと振り返り、静を睨みつけたが静は信じられないような表情をして崎山を見た。 「ちょっと待って、今なんて?警視?及川警視?警視なの?警視って、あの警視?」 どこをどう見ても生粋の日本人には見えない、100%外産で出来ているとしか思えない容貌。 それを警視庁の刑事だと受け入れるのも容易いものではない上に、有ろう事か警視。巡査でも警部補でも警部でもない、警視。 「えー!!ねぇわ!!」 「まぁ、そう言いたくなるのも無理はないけど。警視正から降格喰らった、ダメ警視だよね。及川信長警視殿」 「信長ぁ?」 名前のことでは自分も散々嫌な思いをしてきたから言いたくはないが、いうにことかいて信長。どうよ、それ。 警視であるというのも、何だか裏工作でもしてなったんじゃないのかというくらいに信憑性がない。それに加え、親は顔を見て名付けなかったのかというくらいに不似合いな名前。 なぜジェームズではないのか、なぜエイドリアンではないのか、なぜサムではないのか。 信長よりも断然よく似合う名前を差し置いて、それ。 「ええー」 「おい、お前。俺は海外に滞在するにも観光ビザが要る正真正銘の日本人だ。国籍も日本だ。外面だけなら、お前だって中途半端だろーが」 「…っちゅ、うと…はん、ぱ」 なんだろう、頭をハンマーで殴られたみたいな。心の中で散々、罵詈雑言を言った静も悪いかもしれないが、言うに事を欠いて中途半端って…。 「ね、本当に何なの?暇なの?働いてよ、公僕」 二人のくだらないやり取りにか、崎山がどこか疲れた様な声を上げた。 「非番なんだよ、俺はな。非番にどこで何をしてようが、別に構わねぇだろうが」 「まぁ、そうだけどさ。困るんだよね、こういうの。俺や上司はともかく、この人はさ、一般人なのよ」 「へぇ、一般人ねぇ」 及川がニヤッと笑った。 「ね、あんた以外に、この人のことは?」 「知るわけねぇだろ。こんな楽しいこと教えるわけがない。お前らの業界でも、掴んでる奴は居ないだろーよ」 「ああ、そう。いいけどね。で、どうなの?」 「あ?」 「顔は見たでしょ?目と鼻と口がついてる、どこにでもいる何の変哲もない顔。パッと見は大人しそうだけど、そうでもないんだよ。話して分かったと思うけど、口は悪い。あ、名前は吉良静。あの吉良家とは縁も所縁もない吉良。ね、しつこいようだけど、一般人、堅気。あんまりしつこいと神保呼ぶけど?」 一応フォローしてくれてるんだろうけど…。 何だろう、所々、言葉が刺さる。かなり苛立っているようで口調も乱暴だ。まるで毛を逆立てた猫の様。 そう言えば及川も猫のようだ。血統書付きでプライドの高そうな長毛種。ペルシャ猫とか。 黒猫VSペルシャ猫という感じだろうか。かなりしっくりするそれに、少し吹き出しそうになったのを必死に堪えた。 「ま、何でもいいけど。とりあえず、心によろしくな。お前もあんな歩く凶器なんかとさっさと別れて、普通のゲイ探せよ」 「…な!!」 及川はそう言って、颯爽とその場を立ち去った。 警視でなければ!!警察の人間でなければ、間違いなく殴り掛かっていた。 容姿はともかく、中身は最悪。警察の人間に偏見を持つほどに、失礼!! 「な、なんなんだー!!」 静は抑えきらない怒りを叫ぶ事で発散した。 「だって、俺が行く訳いかないじゃん」 門を出て少し行ったところに雨宮は居た。雨宮専用の真っ青なAudi TT RS Coupeの横に立って。 だが様子が違っていた。どこか申し訳なさそう。静に対してかと思ったら、早足で歩み寄る崎山が一切言葉を告げずに雨宮を殴りつけたもんだから、静は驚いて声も出なかった。 けが人だよー!!と抗議するべきところだが、そんなことをする勇気が情けないことになかった。 そして雨宮は申し訳ないと思っていたのではなく、これを予期していた顔だったのだろう。殴られた頬を擦りながら言った言葉が、それだった。 いきなり殴る崎山に驚く静を放って、崎山は自分が乗って来たと思しきMaybach57Sに乗り込み走り去ってしまった。 「行けないって?」 颯爽と走り去るMaybach57Sを見送りながら、静がそっと聞く。やっぱり崎山は苦手だなと思いながら、雨宮に目をやると雨宮は小さく舌打ちした。 「ったく、あのクソ刑事。及川を見た時は慌てたけど、俺は裏の人間だから及川に逢う訳にはいかねぇから。それで崎山さんに電話したんだけど、あの人、昔に及川にかなりヤラれたみたいで毛嫌いしてて。って言っても、似たかよったかの二人なんだぜ?とりあえず裏の人間は誰も及川には接触は出来ないから、今回のは仕方がねぇことなんだぜ?崎山さんもそれは分かってるんだろうけど、あの人、こういうことは頭で理解出来てても、怒りが止められない人だからなぁ。ったく痛ぇなぁ。まぁオマエも気をつけろ。あの及川にかかったら、オマエなんてイチコロだからな」 「何、イチコロって」 「誘導が上手いんだよ。情報のためなら、法スレスレのことだってする。うちの組は内部事情をあまり知られていないことで有名だからな。何かしら情報が欲しいんだよ、あの男は。何たって、出世街道を切り捨てて四課に志願した、究極のアホだからな」 「志願!?志願なの!?」 「そ、志願。しかも、すでに何個か組潰してるんだけどよ、そのやり口が極道以上だからな。及川の名前聞くだけで、震え上がる極道も居るんだから、笑いぐさだろ」 「…そうなのか」 「まぁ、及川の今の野望は組長をぶち込む事だけだけどな」 「心と…あの人、逢った事あるの?」 「及川が知らねぇ極道は居ねぇよ。アイツの信じてるもんは、自分の目だけだ」 雨宮が強く言うそれに、静はゾッとした。鳶色の吸い込まれそうな強い双眸は、氷の様な冷たさがあった。 あんなに甘いマスクなのに、優しさも柔らかさも一切感じられなかったのだ。造形が造形なだけに、それがとても異質で不気味だった。 「わかった」 LEXUS LS600hLの後部座席で連絡を受けた相馬は、助手席に座る彪鷹に目を向けた。 まだ高い陽が眩しいのか、サングラスをして途中で買ったコーヒーショップのコーヒーを啜っている。サングラスをするあたりは、心とは違うなと思った。 「なんやねん」 視線を感じたのかぶっきらぼうに彪鷹が言うので、相馬は笑った。 「崎山から連絡がありました。静さんを訪ねて及川が動いたと」 「え!?」 声をあげたのは彪鷹ではなく、運転していた相川だ。どこか楽しげに話す相馬を笑い事か!?と、バックミラー越しに見た。 「及川ってあれやんな?警視庁の。顔しか知らんからなぁ。吉良のとこか…何でや?」 「例の写真に写ってたんですかね?どうします?彪鷹さん」 「何が」 「静さんのところへ行ったということは、恐らく写真に写り込んでいたという可能性が高い。今、及川達の手元にどんな写真が送られているのか、私達には皆目検討もつかないんですよ。ここ最近は警戒して鷹千穗を外に出すような事はしてませんけど、鷹千穗に辿り着くのも時間の問題かもしれません。いいんですか?及川は蛭のようにしつこい執念深い男ですよ?」 相馬の言葉に、彪鷹は何か考えを巡らしているようだった。それを見て相馬はスッと視線を外に移した。 やはり鷹千穗の過去は暴かれてはいけないものというわけか。 鷹千穗の本当の名を知る者は誰も居ない。そもそも、偽名なのか本名かさえも謎。鷹千穗の容姿がなぜあんなに異質なのか、なぜ喋れないのか、知っているのは彪鷹だけ。 相馬も鷹千穗のことを調べなかった訳じゃない。なんせあの容姿だ。とはいえ、容姿に関わらず組に居る人間のことは全て調査をする。 過去に前科があろうがなかろうかは、関係がない。正直そんなことはどうでもいい。重要なのは敵対する組との関係など怪しい動きだ。 だが相馬や崎山がどれだけ調べても、鷹千穗の出生にたどり着くことはなかった。 佐野鷹千穗という人間は書類上で言うならば、この世に存在しない人間だったのだ。 「相馬、お前を降ろしたら、コイツ…」 「相川っす」 「せやせや、堪忍な。人の名前覚えるん好かんさかい。ま、この相川くんとドライブ行ってくるわ」 「神保の手を煩わせることのないように頼みます」 相馬が言うと、彪鷹は呑気にコーヒーを啜るだけだった。 都内一等地に聳えるマンションは、この近辺でも一番高く一番立地条件の良い場所に建つ。 九階までは3LDKの部屋を三部屋づつ。そこから上の階は、5LDKの部屋をワンフロアに一部屋のみ置いた贅沢な造りになっている。 及川はそのマンションの駐車場に、愛車の911turboSを停めると辺りを見渡した。マンションの駐車場はいつもと変わらないように見えるが、及川はどこか違和感を覚えた。だが特段、変わった様子はない。 気のせいかとエントランスに抜ける入り口へ向かうと、背後に気配を感じた。ハッとしたときには遅く、背中に突起物が当たった。 及川は前を見据えたまま、微動だにせずに相手の行動を窺った。 いつの間に?それが正直なところだ。気配は一切感じなかった。感性は鋭いと思っていたが、近付かれたことに気がつかなかったのだ、微塵も。 「金を出せ」 「は?冗談。やめとけ、俺は刑事だ」 「…く、くくっ」 何がおかしいのか笑い出した男は、すっと及川から離れた。及川はゆっくり振り返り、刑事に強盗をしようとした間抜けな犯人の顔を拝み、首を傾げた。 「お前…」 「一度言うてみたかったんや、金を出せ」 彪鷹は笑いながら手に握ったサバイバルナイフで掛けていたサングラスをあげ、それに似た鋭い視線を覗かせた。 「心、いや、佐野…彪鷹?」 「知っとるん?」 彪鷹はへえっと感心してみせた。そして、サングラスからナイフを外してクツクツ笑う。 及川は彪鷹を舐めるように見て、眉を上げた。 「ここまで似てるもんなのか」 「似てる?ああ、俺の愚息のことか?」 声も背格好までそっくりだが、表情が豊かなところは似ていないと感じた。 「これで他人だと?ドッペルゲンガーか?」 「ドッペルゲンガー?気色悪いこと言うたらあかん。いっこも似たあれへんわ」 身体つきも顔つきも目付きも、何から何までよく似ている。地球上には自分に似た人間が三人居るなんて聞いたことがあるが、これは他人のそら似というにはまた違うような気もする。 「ここまで似てると反対に気持ち悪ぃもんだな。で、俺としては逢えて光栄だけど、一体、何の用だ?」 「なぁ、あんたさぁ、道楽で今の仕事しよんねんな」 彪鷹は煙草を銜え、ジッポをジーンズで素早く擦った。ジッと石の擦れる音がして、ジッポの火が怪しく揺らめいた。 「道楽ってなんだ」 「クレア・フロックハート」 言われ、及川は笑った。 「本物の金持ちに初めて会うたわ。しかも御曹司。世界屈指のホテル王の孫」 「なに、脅迫?」 「まさか、そんな恐れ多いことを。ただな、あんたも仕事やし、うちのこと嗅ぎ回るんはしゃーないわ。しゃーないけど、境界線は守ってもらわんと」 「境界線だと?」 「そ、境界線」 「吉良静のことか?」 「それもあるなぁ。で、他に何か知っとる?」 「さぁな…」 彪鷹は喉を鳴らして笑った。だが次の瞬間には及川の懐に入り込み、タバコの穂先を及川の目の近くに近付けた。 その灼熱の炎に驚いて、及川は彪鷹の上着を掴んだ。だが右足を踏みつけられ、バランスを崩しそうになった。 その及川の身体に彪鷹が腕を回し、グッと支えた。 「はぁ、天然ちゅーんは綺麗な色しとんなぁ」 及川が身体を捩り下がろうとしたら、その腰に痛みが走った。さっき、彪鷹が弄んでいたサバイバルナイフだ。 遠くから見れば男二人が抱き合い、睦言を囁き合っているように見えるが実際は違う。 足を踏みつけられ、腰にサバイバルナイフ。そして、瞬きすれば睫毛が焦げそうな位置に近づけられた煙草。 身体の自由を一瞬にして奪われ、彪鷹に好き勝手されている状態。腕に自信のある及川が、彪鷹が動いたと思ったときにはこの状態だ。情けなくてヘドが出ると自嘲する。 「で、どこまで知ってる?写真には誰が写っとった?」 「なんで、お前なんかに…あちっ」 じりじり焼かれるような痛みに、瞳から涙が溢れた。突き放して蹴り飛ばせばいいのに、彪鷹にはその隙が一切ない。 及川の腕は空いているのに、抵抗と言えば彪鷹の服を掴んで少しでも抗おうとする、何とも屈辱的なことだけ。 じわじわと腰の骨と骨の間に、突起物が突き刺さる。このまま行けば、肝臓も胃も風通しがよくなることだろう。 「強情やなぁ」 彪鷹は煙草を及川の目から離すと、それを銜えた。フッとその熱が離れ、空気が一気に瞳に流れ込む。 すっと彪鷹が離れたが、煙草を近づけられていた目はまだ熱を持ち、目蓋が痙攣した。目を開ける事もままならずに、乾いた瞳を潤すための涙が止まらず、それを拭っていると無言で腹を突き上げられた。 息が止まり、一気に嘔吐して倒れた。 一瞬の出来事で何が起こったのかと意識が混濁したが、すぐに彪鷹に腹を殴られたと理解した。だが殴られたなんて言葉では片付けられない。 重すぎる拳は、及川を悶えさせた。 「あらま。案外、弱い。心は中学の時には、これを何発やってもゲロッたりせんかったのに」 嘔吐き咳き込む及川の前髪を、彪鷹が掴んだ。そうしたとこで無駄だと分かっていても、及川は彪鷹を睨み付けた。 「サディストで有名らしいな、あんた。今は…屈辱やろ」 彪鷹は口角を上げると、及川の顔に紫煙を吹き掛けた。

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