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第44話
静は身支度を素早く整えると、屋敷の隣にあるガレージを覗いた。
ショーウィンドウのようになったところから中を覗くも、人の気配はない。中に入ろうにも、厳重にロックされたシステムを静は弄ることは出来ない。
正面玄関を見たが、門の外に人の気配を感じ勝手に出て行けるわけもないとは思った。だがどうにか出て行きたくて、動物園の熊のようにウロウロと徘徊しだした。
戒人のように塀を飛び越えるか、いや、忍者じゃあるまいし出来るわけがない。鷹千穗と抜け出した裏口はもう簡単に出ていけないようになっているはず。
八方塞がりかと蹲ると、その背中をポンっと叩かれた。飛び上がるほどに驚いて振り返ると、そこには佐々木が立っていた。
「え、えっと、佐々木さん…」
「どうしました?具合が悪いとかかなぁ?」
「…具合?いや、あ!ぐ、具合!!そう、悪いです!あの、心の病院に連れて行ってください!」
自分でも何を言ってるんだと思ったが、とにかく心に逢いたかった。静は佐々木に縋り付くようにして、最後は小さな声でお願いと呟いた。
縋り付かれた佐々木は眉尻を下げると、大きな手で静の頭を撫でた。
「仕方がありませんねぇ。そんなに具合が悪いのなら病院で一度診てもらうのがいいですね。病院へ行きましょうか」
静は初め、何を言っているのか分からなかった。絶対にダメですと言われると思っていたのに、簡単にそれが許容されたのだ。
佐々木はいつの間にか近くに来ていた舎弟に目配せをした。すると、すぐに車が車庫から出てきて二人の側に停まった。
「病院へ行くから、崎山に聞かれたらそう言っておいて」
助手席に静を乗せると、佐々木は運転席に乗り込んだ。同時に門が開き、佐々木はゆっくりとアクセルを踏んだ。
あまりに簡単に事がすんなりと行き過ぎて、静は落ち着きがなくなっていた。簡単に行き過ぎて困惑しているというのが正直なところだ。
後ろを振り返ると、1台だけ車がくっ付いてきた。護衛だ。
「すいませんねぇ。こんな時期だし、実は僕は腕には全く自信がないんで」
「え?あ、いえ!あの、俺の方こそ何か無茶苦茶で…」
静は自分の無謀さに猛省した。そうだ、今は大事な時期で危険な時期で、なのにこうしてまた人を巻き込んでしまっている。
目の前で事が起こると何も考えれなくなって見境がなくなるのは、いい加減にしなくてはいけない思った。そして静は思わず、自分の髪を乱暴に掻き毟った。
「本当にすいません。でも、じっとしていられなくて」
「そうですね…。雨宮が居なくなったようですねぇ」
「あの、佐々木さんは雨宮さんとは親しいんですか?」
「親しい…まぁ、裏鬼塚は基本的に崎山の管轄なんですけど、彼は裏の中でもちょっと特別で。僕も協力をしてもらうこともあるので、親しいと言えば親しいですよ」
「そうなんですか」
ふとハンドルを握る手を見る。節くれ立っていない細くて長い、綺麗な指だった。
長身な身体に見合う大きな手と優しい声。これまた異色なのが出てきたなと静は少し身構えた。
相馬のような感じだが、少し違う。崎山とも違う。だが、幹部なのはあの屋敷に出入りしている時点で分かっている。
何よりも、崎山が一目置いているであろうことが問題だ。それは静にとって凶と出るか吉と出るか…。
「あの、怒られませんか?」
もやもや考えるのは性に合わないので、静は思ったことを口にした。佐々木はニッコリと笑うと、赤になった信号で車を停めた。
「崎山にですか?」
年の功なのか静の顔に出すぎているのか、言わずもがなという感じで佐々木に言われ思わず息を詰めた。それに佐々木は小さく笑った。
「鬼塚組は不思議な組だと思いませんか?そうだなぁ、極道というには少し違うような」
「それは…確かに」
「僕もね、変な組だなぁと思うんですよ。組長が若過ぎるというのもありますけど、先代の時とはガラリと変わってしまいました。ああ、良い意味でね」
「良い、意味ですか?」
心が纏め上げている”今”しか知らない静は佐々木の言いたいことが読めずに、困ったように眉尻を下げた。
「実はね、崎山もそうなんですけど僕みたいな人間がいきなり幹部に昇進出来たのは、今の組長の独断と偏見からなんですよ」
「え?」
「僕は崎山や成田達と違って、組に入って年月も浅いし元々は表社会の人間なんです。だから腕っ節も弱いし見た目も見ての通り貫禄があるわけではない。強いのは金勘定くらいなんですけど、そこを若頭に買われたんですよね。だから、僕よりも全然迫力のある部下達を従えて歩くっていうのが、なかなか慣れなくて」
「はぁ…。でも、幹部なんですよね?」
「顧問役ですね、僕は。うちは本部長っていうのが居ないんで。というか、組長がそういう…極道の組織図をあまり分かっていらっしゃらないのかもしれない」
ちょっと今、聞き捨てならないような言葉を聞いたぞと思わず佐々木を見た。佐々木は青になった信号に合わせて、ゆっくりと車を発進させた。
「組長はもともと群れるのを嫌うようで、必要最低限の人間だけで上層部を纏めるというのを好んでらっしゃるようです。ただこれは僕が勝手に思っていることなんですけどね、もしかするとあまり人を信用されない方なのかもしれませんね」
佐々木が少し寂しいですねと笑うと同時に、病院の駐車場のゲートを潜った。
静は佐々木の言葉を反芻しながら、自分は心のことをあまり分かっていないのかもしれないと思った。分かったような気がしているけど、奥深いところは心は静に見せていないのかもしれないと。
車を降りて、正面玄関からではなく裏口から中へ入る。もうそこはすで”そういう人間”で固められていて、この病院が普通ではない状態になっていた。
静が佐々木に連れてこられたのは以前、清子が入院していた病室だった。清子の時と違うことと言えば、その病室の入り口に行くまでに何人もの警護と思われる組員に逢ったことだ。
あまりの物々しさに細身の佐々木にくっ付くようにして歩いた。見たこともない顔の人間ばかりで、向こうも静を誰だと言わんばかりの顔で見てくる。
そしてようやく目的の部屋に着くと、佐々木がノックをしてドアを開けた。
「あ?何や、佐々木?」
「静さんをお連れしましたよ」
ベッドに寝転がる心の上半身は包帯で覆われ、腕には点滴がされている。顔色は悪いようには見えないが、無精髭姿の心を見るのは初めてで驚いた。
「静やん、よぉ崎山が許したな」
「いえいえ、許しはもらってませんねぇ。なので、崎山に聞かれたら組長の命令ってことにしますよ。それでは何かあれば呼んでください」
佐々木はニッコリと笑うと、静ににっこり笑って頭を下げ病室を出て行った。
「あの野郎、会社を抜け出したこと根に持ってやがる」
心は軽く舌打ちをしたあと、静に向けて手を伸ばした。静はゆっくりと心に近づくと、その手を取ってみたが腕が少し腫れているように思えた。
「はは、得意じゃない看護師に当たったのか?腕が腫れてる」
「阿呆、塩谷や。適当で何回点滴漏らしたか。下手くそやねん、あいつ」
心は静の頬を指で撫でると、ふっと笑った。
「静に助けられたな。御園連れ出したらしいやんけ」
「俺…心がボンベイ型だなんて、知らなかった」
「胸張って言うようなことでもあらへんやろ、隠してたわけでもないけどな」
「御園さんが居なかったら、死んでた…」
静はぎゅっと心の手を握った。その温かさにボロッと涙が溢れた。
生きてる、そう思った。あれから会うのは初めてで、感動の対面なんてないと思っていたが実際に逢うとこんなにも嬉しく思うのか。
「静…」
呼ばれ、心の身体に体重をかけないようにして、そっと口付けた。そして何度か軽い口付けを交わして、額を付ける。
近い距離で視線を合わせて、どちらともなく互いに笑った。
「で、佐々木を唆して、俺にわざわざ逢いに来た理由は?」
「あ…」
そうだったと静は心から離れると、ベッドの近くに置かれていた丸椅子を持ってきて腰掛けた。
「雨宮がおらんようなった?」
静は昨日あったことと、今朝になって雨宮が姿を消したことを簡単に話した。やはり屋敷での騒動は心の耳にも入っていたようで、パーカーの男の正体が雨宮の双子の片割れだということも知っていた。
「雨宮さんが内通してるかもって崎山さんが言って、あちこちに捜索かけてるって。そんなはず絶対にないんだ!なぁ、そんなことやめさせてくれよ。雨宮さんだって急に双子が、死んだって思ってた人間が出てきて、困惑してるんだって」
「崎山がそう判断したなら、そうなんやろ」
「え?」
静は心の言った言葉に顔を強張らせた。
「崎山は雨宮が内通者でない証拠を見つけてないうちは、容疑をかけてるってことや。雨宮の双子が俺を殺しに来たんは確かやし、仁流会の内部事情が漏れてるんも確かや。そういうことがある以上、1%でも怪しいと思ってるうちはノーマークには出来んってこと」
「仲間、なのに?」
心の声がどこか遠くに聞こえているような気がした。静はドクドクと血液の流れを感じながら、崎山が言った言葉を思い出していた。
「裏鬼塚は崎山が集めてる表に出されへん曰く付きの人間や。例えば雨宮やけど、あいつはそもそも俺に襲撃してきて失敗した。それからは俺を殺すためだけに、裏鬼塚で崎山に使われてた。まぁ、俺に襲撃してきたのは初めの一回だけやけど、俺を殺したがってたんはほんまや。今更、裏切ったところで驚けへん」
「でも、でも御園さんがボンベイ型って教えてくれたのは雨宮さんだぜ?」
「それだけで、雨宮を100%信用するわけいかへんやろ。あいつが自分で殺したかったんかもしらん。自分の手で殺すために助けたかもしらん」
「100%って、自分を救うために必死になってくれたこと、それだけで十分じゃん。じゃあ。心は俺の気持ちも100%信用してないってことなんじゃないのか?」
「話が飛躍しすぎやろ」
心は呆れるように息を吐いた。静自身、話が飛躍しているのは分かってはいたが、色んな感情が湧き出てきて止められなくなっていた。
「心は、俺のこともだって信用してないだろ。俺だってバカじゃない。雨宮さんとずっと行動してきて、雨宮さんっていう人となりを分かったからこそここまで来て、敵じゃないって言ってるんじゃん。心にとっては、俺もいつかは裏切る対象として分類されてるんじゃないの?」
「お前とのことと組のことはちゃうやろ。雨宮の双子の片割れが襲撃してきたんは事実で、雨宮もそれを認めてる。関係がないって証拠があらへんって言ってるだけや」
「証拠って、雨宮さんがどれだけ組に貢献してきた?それも全部、雨宮さんを信用するには足らないってこと?そうやって貢献してきてることも全部、嘘だって思ってるのか?」
「俺はお前の味方ですってツラして、腹の中で舌出しとるの奴を山ほど見てきた。お前も立場はちゃうとしても経験してきたことやろ」
静は大きな目を更に大きく開いて、そして震える唇を噛んだ。
「それが…それが極道なんだな」
「あ?」
「俺はそんな、心とか鬼塚組はそうじゃないって思ってたのに」
「極道やぞ?ヤクザや。ええヤクザ悪いヤクザおったとしても、ヤクザはヤクザ。極道に違いはあらへん。大多喜組も俺も極道や」
改めて心の口からそう言われ、静の視界が大きく歪んだ。
「そんなんじゃ、俺、お前と一緒に居るの無理じゃん!!大多喜組と一緒なら、俺はお前と一緒に居れないじゃん!!わかってるけど、極道だってわかってるけど!でも、違うって、奴らとは違うって思ってきたのに!」
静の大きな目からボロボロと涙が溢れた。泣くな、こんなことで泣くなとそれを拭っても、次々と涙は溢れて止まらない。何か言おうと口を開くと、嗚咽が漏れた。
心はそんな静をジッと見てから目を閉じると、深く息を吐いた。
「別れるか」
「……え?」
思いも寄らない言葉に静の声はひどく小さかった。何を言われたのか、初めは理解出来なかったくらいだ。
「別れた方がええ。俺は母親の元から掻っ攫われて、極道になるために彪鷹に育てられた。それを恨んだことも悲しんだこともあらへん。俺はちょっと欠けてるとこがあるんかして、極道への恐怖心はないうえ暇つぶしにはええかもと思ったくらいや。極道が悪やとも思わんけど、好きやとも思わん。やけど嫌いやとも思わん。でも静、お前は違うやろ。普通に育って、大多喜組にちょかいかけられて極道を憎んで恨んだ。お前からしたら極道は悪や。そんなお前を極道の俺が縛り付けてええんかってな」
「何、それ…普段、全然しゃべらないくせに、しゃべったと思ったら…俺は、俺が縛り付けられてるって…?」
静は何を今更と言って笑ったが、溢れる涙は更にどんどん流れて止まらなくなった。ボロボロと止めどなく溢れ出る涙を心がそっと指で拭った。
「俺がお前を無理やり手に入れんかったら、お前からは俺には来んかったやろ」
「な、に?」
「大多喜組もおらんようになって、自由になって、俺もおらんかったら?」
「そ、りゃ…普通に…」
「暮らしてたやろ」
違うと言いたくても言葉が出なかった。確かに心が居ない世界で、何らかの形で大多喜組が居なくなれば静は普通に暮らしていただろう。
それこそ、二度と極道連中と関わらないように、普通にひっそりと…。
「そ、それは例えじゃねぇか、現にお前は居るし、俺はお前と一緒に居たし助けられた!それを今になって…!?」
ついさっき、一緒に居れないと言った口から、今になってと言葉を吐き出す。あまりに滑稽なことだが、言わずにはおれなかった。
雨宮の話から、どうしてこんな話になったのか思考が全く追いつかず、混乱していた。
「今になって…やのうて、ずっと思うてたことや。俺かて、親父に攫われへんかったら極道やってるか分からへん。俺の人生を変えたように、俺がお前の人生を変えとる。それも悪い方へな」
「俺のこと、好きじゃなかったの?」
呼吸が苦しい。女々しいことを言っているのは分かっているのに聞かずにはおれず、グラグラと足元が揺れて倒れそうになる。
もし椅子に座ってなければ倒れていただろう。それくらいにショックを受けていたのだ。
「じゃなかったら、一緒にはおらん」
心の性格を考えればその通りだった。好きじゃなければ一緒には居なかった。だけど、好きだからこそ一緒には居れない。
心は両極端な性格だ。妥協もなければ惰性もない。自分の存在がプラスではないと思った時点で、心にとっては終わりなのだ。
男同士で、極道と極道を恨んで来た人間。長く続くなんて思ってはいなかった。だが、知れば知るほど心を愛しく思っていたし、心にも愛されているのを感じていた。
それが、こんな形で終わりを告げることになるなんて…。
静の大きな目から涙の粒が宝石のようにボロッと溢れ、地面で弾けた。静はゆっくりと心に近づくと、心も手を伸ばして静の腕を取った。
二人で手を取って愛しげに手の甲を撫でた。ああ、終わりなんだと静は心に顔を近づけると、ゆっくりと口付けた。
「今まで…ありがと」
静はそう言うと笑って、心の手を離した。そして心も静の手を離し、二つの手はするっと離れた。
静は心を見たが、心は何も言わなかった。
ああ、終わったんだと静はグッと胸が締め付けられる感じがして、すぐに心に背を向けて部屋を出て行った。
その静と入れ違いに、相馬が姿を現した。
「静さん、泣いてらしたようですけど、あなた、また何か言ったんですか?」
相馬が呆れたように心を見たが、その心の顔つきに口を噤んだ。
「何か、あったんですか?」
「静が相談してきたらやれることはやってやれ」
心は口寂しくなったのか、唇を撫でた。こんな時に煙草が吸えないとはなと、リクライニングを起こしたベッドに凭れかかった。
「相談って、何をですか?」
「静と別れることになった。多分、屋敷も出て行くやろうし店も辞めると思う」
「別れるって…本気ですか?」
珍しく、相馬が困惑していた。心はそれを見て、ふっと笑った。
「極道を住処にする俺と、極道を悪と思う静とじゃいつか歪みが起きてもおかしなかった。それが今や」
心はそう言って、煙草が吸いてぇなと呟いた。
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