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第61話
「すごい、川だ…」
朝起きて早々、静は心に村の奥へと連れて行かれた。森の中の道無き道を歩く心の後ろを、本当に大丈夫かと思いながら付いていって開けた先に見えたのは、見たこともない大自然だった。
人の手が入り込んでいない川は大きな岩がゴロゴロとあり、そこを流れる清流はどこまでも透き通っていて目を見張る。
柔らかな風が頬を撫で水の流れる音が耳を癒す。自然が紡ぎ出すハーモニーは、すべてが静を癒しているようだった。
「ほら、こっち」
手を出され迷わずその手を取った。岩を軽く登る心に足の長さの違いを感じながら軽く持ち上げられる。子供のようにぶらーんとなると、さすがに「重い!」と怒られた。
岩の上から見渡せば景色がまた違って見え、子供のように目を輝かせた。
「あ、魚!」
「アマゴやな」
「アマゴ…。もしかしてここ、熊出る?」
「出ぇへん、猪とか鹿やな」
「猪!?」
「突撃されたら死ぬぞ」
さすが猪突猛進。猪なんて見たの、幼稚園の遠足で行った動物園くらいじゃないだろうか。
「変わらへんな」
「え?」
そこで一番大きいであろう岩の上に飛び移り、心が辺りを見渡しながらそう言った。静も同じように心の隣に飛び移り辺りを見渡したが…。
「いや、森ですけど」
右も左も森で、もはや自分はどこから来たか静には分からないくらいに同じ木々の生茂る森ですけど?背の高い心を見上げると、ポンっと頭に手を置かれた。
「森は森でも人間の手は僅かに加えられてるだけ。自然そのものってこと」
「なるほど」
これが自然か。新緑の香りも苔のような香りも川の中で石がぶつかる音も全て自然が生み出すもので、心はそれを全て以って”変わらない”と言ったのだ。
心を見るとどこか生き生きしているように見える。都会のあの喧騒の中にいるより、ずっと楽しそうだ。
すると、森の奥の方からガサガサと音が聞こえてきた。心の猪の言葉を思い出し、思わず心の腕を掴んだ。
人間に対する恐怖は耐性があるが、野性の動物に耐性はない。それそこTVのニュースで山から町へ迷い込んだ猪が、人間に向かって走ってくるショッキングな映像しか知らない。
「し、しん…」
猪ってジャンプ力あった?ここまで飛んできたら落ちる?チラッと下を見ると、考えもなしにそこそこ高い岩に登っていることに気が付いた。
猪突猛進で突進されたら終わる…。
「あ、おった、心」
ガサッと現れたのは猪ではなく春日だったのだ。熊のように大きな男はニッコリと笑って、紙袋を掲げた。
「家ん方へ行ってんけど、あんたらおらんしなぁ。あんたんことやし、どうせここやろ思うて」
岩から心と降りると、春日は紙袋を心に手渡した。中は握り飯や煮物の詰められた弁当だった。
「腹減ったやろ。あんた、えーっと」
「静や」
「そや、静はん!飯、食おう」
「あ、はぁ…」
自然豊かな川辺に座って弁当。何と贅沢な。そんなことを思いながら開けた弁当は静の腹の虫を刺激した。
昨日はここへ付いてから軽く食べただけだったもんなと思い出し、手を合わせた。
「いただきます」
「食って食って。味はええよ。嫁はんの手作りや」
「小夜莉も人が食えるもん作れるようになったな」
「心!人ん嫁はん捕まえて!!」
「初めは酷かったやんけ」
「まぁ…それはな、うん」
春日は何とも言えない顔をして頭を掻いた。
「俺はこの女、俺のこと殺す気やなって思ったからな」
「いや、そら俺も思うたけど!」
二人で言い合う姿に静は呆気にとられた。あの心が、年相応の会話をしている!!しかも冗談も言えてる!!奇跡か!という驚きだ。
コミュニケーション能力が著しく欠陥しているような男が、まさかこんな、相馬ともまた違う掛け合いを見せるとは!と静は恐る恐る春日の顔を見た。
「ああ、堪忍。あんさんは会ってへんやったな。小夜莉は俺ん嫁でさ。まぁ、ぶっちゃけ昔は人を殺すような、なんを入れてこうなったみたいな飯をこしらえる人でな。またそれが結婚してから知ったもんで、なんをどない言うて改善してもろたらええんか試行錯誤やったよ」
「あの、昨日はチラッとしか聞いてなくて…。心とは幼馴染みみたいな」
「そうそう!幼馴染!」
ねーっと心に満面の笑みを見せる春日に、心が舌打ちをした。
「ちゃうわ、こんな熊男」
「素直やないわ、昔は色々とあったんやけどな。今は親友よな!」
「アホか」
ゲラゲラ笑う春日に静はどう反応していいのか困惑していた。これ、鬼塚組の人間は知ってるのか?相馬や崎山は見たことがあるのだろうか。
いや、ここは心の故郷だ。誰も立ち入らせたくない、心の故郷でここの人たちは心の昔馴染みなのだ。
そうか、そんなところに勝手に立ち入ってしまったのかと静は申し訳なくなって唇を噛んだが、その唇を心が箸で掴んだ。
「おいおい、静ん唇は食べもんちゃうぞ」
「すーぐ、いらんこと考えるからな。お前は」
心は唇から箸を離すとオマケとばかりに鼻を指で弾いた。
「いた!!」
「暴力男は好かん言われるで。あ、心、そう言えば…」
春日の話にいつもは口数の少ない心が喋る。その会話は昔の話だったり村の人の話だったりと尽きることはなく、心の穏やかな表情に自然と顔が綻んだ。
幼馴染と冗談を言い合って笑う。こんな顔を見るのは悔しいけど初めてかもしれない。そんな心の新たな一面が見れて嬉しくなった。
「春日さんって良い人だね」
家に帰って川で釣った魚を心が器用に捌いた。それもまた意外な一面だった。そしてそれを焼いて食べたのだが、今まで食べた中で一番美味しいと思うほど絶品で4匹釣り上げた魚のうち3匹は静が綺麗に平らげた。
魚と白米、それと春日が持ってきてくれた山菜の漬物、それだけで腹は十分満たされた。そのあと二人で風呂に入り、今は布団の上で転がっているのだ。
「心って呼んでるのも意外だった。組長って呼ばれてるのもあまり聞かないけど、相馬さんも鬼塚って呼んでるし」
「…及川」
「え?」
「ここでは及川心や。鬼塚やて知ってるんは春日とあと何人かだけ」
「及川って…」
あの異国色の強い刑事がそんな名前じゃなかったか?
「そっか、及川…。ふーん、及川心…。あ、あと、佐野心だ。で、鬼塚心」
ふふっと静が笑うと、何だよと言わんばかりの顔で心が睨んできた。
「俺、及川心が一番好きかも」
何となくねと付け足すと、心がフッと笑った。
「いつか、連れてこれたらええなって思ってたからな」
「え?」
「正直、母親の記憶は薄らとしかあらへん。ただ、よぉ笑ってたなっていう記憶だけ。ここも帰ってきたんはつい最近で、母親が死んだんを知ったんも春日に再会したときに聞いて知ったくらいや。探そうとも思わんかったし、ここに帰ってこようとも思わんかった」
「そっか…でも、春日さんは心がいるからこの村は生きてるって言ってたよ」
「この、今の時代に取り残された村が俺は性に合ってるからな。ここがなくなると困る」
心の故郷だねと言いながら静は上体を起こすと、心の顔を覗き込んだ。
「俺、強くなりたい」
唐突だった。あまりに唐突で心が蛾眉を顰めた。
「強いやろ、お前」
「いや、じゃなくて。これから心と一緒にいるためにも、俺が弱点にはなりたくない」
拐われたり、人質として何かを要求されたりなんていうのはごめんだ。お姫様じゃないんだ、自分の力で出来ることは何でもしたい。
いつも以上に力強い目に心は笑った。
「はは…さすが」
「茶化すなよ」
「茶化してへん。静は静やなって」
「だから、強くなりたいけど…」
心は起き上がると静の腕をすっと掴んで、するすると手首まで撫でるようにした。そして手首を掴んでクイッと妙な方向へ曲げた。
「いたい!!」
「華奢やもんなぁ…。やて、お前の体格を考えたら崎山に指導してもらうか」
「え…」
思わず顔が引き攣る。最後に直接的なコンタクトがあったのは…病院で御園と崎山に挟まれたあれだ。いや、そのあとに銃口を向けられている。
「苦手意識は捨てろや」
「苦手というか…相性というか、嫌われてるというか…」
「人間の軸は人それぞれ。姿勢とか日々の身体の使い方で癖があって、歪みがある。俺と静みたいな身長差と体格差があっても、軸の急所を瞬時に判断すればぶっ倒せるし、勝つことも容易い」
「瞬時にって…」
「まぁ、そういう人間離れした芸当は無理やな」
言って、心はまた寝転がった。
「崎山はそれを見抜く。軸の急所を見抜いて歪みを見つけて、そこを叩いて倒したのちに接続部分の破壊にかかる」
「接続?あ、関節か…」
「崎山の一番の得意技が関節潰し。しかも確実に病院送りの手術コース。後遺症は免れへん」
静は思わず唾を飲んだ。更に苦手意識が強くなるようなことを何で言うんだろう。
しかし、関節ってそう簡単に潰せるのかと自分の腕の関節を手で掴んでみた。
「崎山は見ての通り華奢やからな。やけど腕も身体も細い鋼みたいな鍛え方してる。太られへん分、そっちにシフトしてるんやろうけど身体が軽い分、持ち上げられたら終わる」
「確かに…」
体格差で言えば崎山とはそこまで大きな違いはないので、それは納得出来た。今回も橅木に易々と持ち上げられたのは体格差と軽い身体だ。
「関節は接合、骨と骨の繋ぎ目な訳やから造作はシンプルや。あと圧にも弱い。崎山はそれがどこかを把握してる」
「弱い部分を把握…」
「やるかやられるか。崎山は俺よりもずっと前から極道もんで、鬼塚組の内紛を目の当たりにして力がどれほど大事かを心得とる。元々、頭の回転が恐ろしく早い上に自分の弱点をカバーするためにどう動けばいいかも理解出来てる。見た目もあんなんやから、再起不能にして崎山に報復したいって思わんやり方やっとかんと生きてかれへんからな」
「そうか…」
「まぁ、崎山のあの芸当をお前がやると、流石に俺も引く。やから…」
心の言葉を遮るようにして静が指を鳴らした。
「じゃあさ、俺と同じ体格で言うなら御園さんって強いんだろ?」
「あれは論外」
心は手で払う仕草を見せた。
「ありとあらゆる武道をマスターしてる上に、独特な動きで人を翻弄する。見た目があんなんなだけに油断してまうけど、確実に息の根を止める方法を熟知してる。しかも、瞬殺出来る上に武器すらいらん。例えば鷹千穗と一戦交わせたとして、勝敗は怪しい」
「は?鷹千穗さんが負けるの?」
鷹千穗の強さを知っている静からすれば納得し難いことだ。あまり静は好きではないが”死神”と呼ばれるほどの力の持ち主である鷹千穗が、あの掴み所もやる気も感じられないふわふわとした綿菓子のような御園に負けるとは想像がつかない。
「御園は剣術の使い手やぞ、あんまり知られてへんし、本人も滅多に刀は振らんけどな」
「ええ?御園さんが!?剣術??え、もしかして御園さんって…最強?」
「下手したら仁流会でトップかもな」
「ちょっと待って?心も負けるの?」
「あいつの本気を誰も見たことあらへんから分からんけど、100%で向かわんと無理な相手やろうな」
緩く、頼りなさげに笑う男だった。独特な口調で穏やかに話す顔しか知らない静からすれば、俄かに信じられるものではないが…。
「ま、鷹千穗に教わればええんちゃう?」
「え?鷹千穗さんに?」
「あれはお前を気に入ってるし、体格的にもええ感じやろ。あいつとコミュニケーション取るんは、お前は得意みたいやし」
鷹千穗と言われると、日本刀を振るう姿しか思い浮かばない。刀…この時代に?今から刀?
「刀はちょっと…」
「は?あほ、鷹千穗は刀だけの男ちゃうわ。古武道もジークンドーも出来る、武道で出来ひんもんはあらへん」
ありとあらゆる武道をマスターしている”死神”こと鷹千穗と、仁流会最強かもしれない御園、仁流会はただでさえ強者揃いと名高い…。
「実は…心ってそんな強くない?」
「死神おって、今度はThanatos。規格外の人間ばっかりが跋扈する中で、俺なんか小物に決まってるやろ」
そんなわけないだろと思いながら、わざわざ力を鼓舞するような男ではないしなとも思う。多分、面倒臭いんだろう。
「お前って、とことん…ダメだな」
「ああ!?」
転がる心の上に寝転がり言うと、心が怒ったように声を上げた。お前の良いところは偉ぶらないところ、悪いところも偉ぶらないところ。
組長がこれなんだから、鬼塚組って大変だなぁ…。
村の少し外れにある大きな木の下にそれはあった。大きな木は桜の木で、満開であればそれは見事であろうと想像出来るほど立派に育っていた。
木の下にある墓石は題目も刻まれておらず、まるで見本のようにも見えた。
「何も書いてないね」
「これでええねん」
心は線香を墓石の前に置くと、静を見た。静は自分の分の線香を置くと手を合わせる。
初めましてと言うか息子さんにお世話になっていますというか、色々と考えていると、ザッと大きな風が吹いて静の髪を撫でた。
「いいとこだね」
自然豊かで鳥の囀りも聞こえる。太陽も桜の木のおかげで当たりすぎず、影になりすぎず。
「また来ような」
静はそう言って、心の手をぎゅっと握った。
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