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「このように頻繁に市中へいらっしゃって、本当によろしいのですか?」 「わたしの息抜きも兼ねているから問題ないよ。それに馬車からは民たちの生活を直接見ることができるし、よい機会だと思っている」  王太子ともなれば様々なご苦労や気疲れがあるのだろう。職務も兼ねてのようだし、息抜きのお手伝いができているのなら……、そう思いながら、目の前に置かれた美しい本の表紙に視線が吸い寄せられた。  これは海を渡った先にある異国の本で、表紙に立体的な刺繍が施された大変珍しいものだ。同じように刺繍を施した本を一冊持っているけれど、随分と古いもので刺繍は色あせ、本来の色がどうだったか判別することもできない。  そのことを殿下にお話したところ、似たような本が蔵書にあったはずだとおっしゃり、今日こうして持ってきてくださったのだ。 (なんて美しいのだろう……)  表紙は本の顔だと言うが、これほど美しい刺繍に彩られたこの本は幸せに違いない。 (…………あ、)  美しい装丁に夢中になっていたことに気づき、慌てて顔を上げた。  物思いに耽って相手を忘れてしまうのは、幼い頃から指摘されてきたわたしの悪い癖だ。いつもは気をつけているのに、こうして本を前にするとつい忘れてしまう。  そういうことがこれまでにも度々あったけれど、ウィラクリフ殿下は咎めることも呆れることもなく、いつもわたしの好きなようにさせてくださる。そのことに気づくたびに気をつけようと決意するのに、こうしてまた同じ過ちを犯してしまった。 (ええと、何の話をしていたんだったか……)  そうだ、屋敷へいらっしゃる頻度の話をしていたのだ。 「それでも頻繁においでいただくのは心苦しく……。父も恐れ多いことだと申しております」  最近では殿下がお越しになっても父上が顔を出すことが少なくなった。どうやら殿下が「わたしの都合で来ているのだし、挨拶は不要だよ」とおっしゃったようで、今日も最初からわたしがお相手をしている。 「気にすることはないよ。それに、きみは馬車が苦手なのだろう? それなら、わたしがこちらに来るのが一番いい」 「え……?」 「お母上のことは聞き及んでいる。それで馬や馬車が苦手になったとしても仕方がないことだ」  ふわりと整えられた殿下の髪の淡い栗色が、ぼんやりとした母上の面影を思い出させて胸がツキリと痛んだ。  事故に遭ったあの日、わたしは母上と一緒に馬車に乗り、母上の生家が持つ別荘へと向かっていた。通り慣れた馬車道は前日からの大雨でたいそうぬかるんでいたようで、途中何度も足止めされたそうだ。それでも引き返さずに別荘へ向かったのは、母上と仲が良かった伯母上の危篤を聞いたためで、少し無理をして馬車を走らせていたのだという。  そうして崖道を通り抜けようとしたとき、土砂崩れに巻き込まれてしまった。馬車は呆気なく崖の下に落ち、母上はわたしを胸にしっかりと抱きしめたまま亡くなってしまった。  あの事故で生き残ったのはわたしだけで、五歳の誕生日を迎えた一月(ひとつき)後のことだった。  事故の衝撃からか、わたしは大好きだったはずの母上との思い出のほとんどを忘れてしまった。事故を思い出させる馬や馬車も苦手になった。そのせいで遠出することができなくなり、馬車での訪問が常識である王城や貴族のパーティに参加することがないままこの歳になった。  勉学が好きだったから学舎には通ったけれど、それも徒歩で通えるところを選んだため貴族より商家や裕福な平民が多い学舎だった。数少ない貴族も徒歩で通うような人がいるわけもなく、徒歩通いのわたしは敬遠されたのか貴族の学友はできなかった。  そんなわたしの唯一の楽しみは、屋敷に溢れるほどある本だった。本は、馬や馬車に乗らなくても遠い世界のことを教えてくれる。なにより様々な物語は胸を昂らせて飽きることがない。  事故のことは多くの人たちが知っていたけれど、それでわたしが馬や馬車が苦手になったことは知られていないはずだ。  ほとんど外に出ないのは父上が過保護になったからだとか、わたしが人見知りだからだとか言われていて、本当の理由は噂にすら上っていない。婚約者であったハルトウィード殿下にもお話ししていなかったのに、ウィラクリフ殿下はどうしてご存知なのだろうか。 「殿下、どうしてそのことをご存じなのでしょうか?」 「大きな事故に遭えば、そういうことも起こり得る。それに遠出が好きなハルトと出掛けたという話を聞いたことがなかったからね、そうではないかと思ったんだ」 「……そうでしたか」 「ハルトは、もう少し相手を慮ることを覚える必要がありそうだ。歳の離れた末っ子というのは甘やかされて育つようで、そういう意味でも弟のことは申し訳なかったと思っている」 「おやめください。殿下に謝っていただくのは恐れ多いことでございます。そもそも、わたしに至らぬところがあったのでしょうし……」 「きみに至らないところなんて何もない。こんなに美しく愛らしいうえに、頭もよく思慮深い。そもそもハルトにはもったいない婚約者殿だったんだ」 「それは、あの、買い被りすぎかと存じます……」  このようなお世辞には、なんと返事をするのが正しいのだろうか……。  貴族の間では美辞麗句やお世辞は普通だと父上に聞いたことがあるけれど、そういう場面に出くわしたことのないわたしは、どう対応すればいいのか見当もつかない。それにお相手は王太子殿下なのだから、下手なお返事をするわけにもいかない。  なにより困るのは、ハルトウィード殿下が悪いのだとウィラクリフ殿下が考えていらっしゃることだ。今回の婚約破棄でご兄弟が不仲になったりでもしたら大変なことになってしまう。 「ハルトウィード殿下には、大変よくしていただきました。毎回おいしいお茶を頂戴しておりましたし、あれほど多くの衣装を賜りもいたしました。今回のことはわたしが至らなかった結果だと思っております」 「ハルトが贈り物をするのは昔からなんだ。それも自分好みのものを押しつけるばかりで、そういうところは一向に成長しない。まぁ、それでもいいのだとおっしゃる姫君がいるのだから、そういう相手と一緒になるのがハルトにとってもよかったのだろうけれど……。本当に申し訳なかった」 「殿下、どうかおやめください」  婚約破棄されてから二月(ふたつき)が経った。それなのにウィラクリフ殿下はいまだに頻繁に屋敷にいらっしゃっては、つまらないであろうわたしの話し相手までしてくださる。  父上の話では、陛下やウィラクリフ殿下がハルトウィード殿下のことで、たいそう胸を痛めていらっしゃることは広く知れ渡っているそうだ。はじめはわたしや父上に対するよくない噂もあったそうだけれど、ウィラクリフ殿下が熱心に通ってくださるおかげで、そういった噂話もなくなったと聞いている。  殿下が最初にお話くださった目論みは、見事叶ったことになる。  であれば、忙しいであろう殿下が頻繁に屋敷へいらっしゃる必要は、もうなくなったということだ。  王太子である殿下が、いつまでもこのような底辺の貴族の屋敷へ通っていては外聞もよくない。いくら弟殿下のためとは言え、そろそろやめてもいいのではないだろうか。 「それに殿下、おいでになるのは、どうかもうおやめください。よくない噂は消えたと父からも聞いております。王太子でいらっしゃる殿下がこのようなところへ通い続けては、今度は殿下に対してよくない噂が立ってしまいます」 「わたしは大丈夫だよ。それにわたしは好きでここへ来ているんだ。それは陛下もご存知だし、大方の貴族たちも知っている」 「それは、どういうことでしょうか……?」  ふわりと笑った殿下に、思わず目を奪われてしまった。惚けたあと、不躾な視線を向けていたことに気づき慌てて目を伏せる。 (無作法にも、殿下をじっと見るなんて……)  多少なりと親しくさせていただいているとはいえ、格下の自分が殿下をじっと見るなんてことがあってはならない。そういった行儀作法はハルトウィード殿下のお妃教育で学んだはずなのに、すっかり忘れて見惚れてしまった。 (……そういえば、ハルトウィード殿下の顔を見つめたことはなかったな)  ふと、そんなことを思い出したわたしに、とんでもない殿下の言葉が聞こえてきた。 「わたしと婚約していただけないだろうか、エルニース殿」  一瞬、何を言われたのかわからなかった。奪われていたのは目だけでなく耳もだったのかと思うくらい、殿下の言葉がどこか遠くで聞こえているような気がした。

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