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ウィラクリフ殿下の婚約発言はすぐさま父上に伝わり、またもや卒倒した父上は丸一日ベッドの中で唸ることになった。それも当然だろう。我が家は底辺の貴族で、本来王族方にお目通りすることすら叶わない。それなのに王太子殿下から婚約の申し込みなどあるはずがない出来事だ。
(ハルトウィード殿下のことですら青天の霹靂だったのに)
そもそも同性同士の結婚はあまり歓迎されていない。それなのに第二王子に続いて王太子である第一王子までもが男に求婚するなど前代未聞のことだった。世間に疎いわたしでも、さすがにこれがとんでもない状況だということはわかる。
きっと冗談だったのだろう。婚約したいという三日前の言葉は戯れだったに違いない――そう思いながらお迎えした殿下は、わたしの予想に反して「婚約のことは考えてくれただろうか」とおっしゃった。直接殿下の言葉を耳にした父上はまたもや卒倒し、執事のジルバートンに支えられながら退室することになってしまった。
父上と同じくらい内心慌てふためくわたしに、殿下は「そういう表情も愛らしいね」と微笑んでいらっしゃる。
殿下の様子に、わたしはきちんと話をしなくてはと思った。不敬だとわかっていながら正面に立ち、不躾にならないように注意しながらも視線を上げる。
(今回のことで、わたしに対するよくない噂がまた広がるだろう)
これまで自分に関するいろんな噂話を耳にしてきたけれど気にしたことはなかった。直接会うことのない貴族たちに何を言われても遠い出来事のようにしか感じられず、とくに何か思うこともなかった。学舎で直接何かしらを言われることがあっても、興味がないから気に留めることもなかった。
けれど、今回は自分への噂だけでは済まないはずだ。わたし自身は何を言われても構わないけれど、殿下に迷惑をかけることだけは避けなければいけない。
(そう、絶対に避けなければ……)
殿下はつまらないわたしにも優しく接してくださり、変わり者の家だと言われる原因になった本に関しても蔑んだり呆れたりはしなかった。逆に王城で所蔵している珍しい本をたくさん見せてくださり、八歳年上の殿下のことを、失礼ながら親しい学友のように感じることもあった。
そんな心優しい殿下を貶めるようなことになっては申し訳ない。将来が楽しみだと言われている優秀な殿下の名前に傷をつけるわけにはいかなかった。
底辺の貧乏貴族、それも当主でもない自分が殿下に意見するのは不敬罪に問われかねない。それでもきちんとお話ししなくては……。小さく息を吐き、口を開く。
「殿下は王太子でいらっしゃいます。お一人も妃殿下を迎えていらっしゃらない状況で、男であるわたしと婚約しては様々な問題が起きるのではないでしょうか」
「たしかにわたしは王太子だけれど、結婚相手は自分で決めようと思っていたんだ。それに、きみ以外を伴侶に迎えるつもりもないしね」
にこりと微笑みながらおっしゃった内容に目眩がした。それでは王太子としての務めが果たせなくなってしまう。
「殿下、恐れながらそれは許されないことかと存じます。殿下は王太子でいらっしゃいますから、お世継ぎが必要ではございませんか。国のため、民のために未来の国王陛下をもうけられ、お育てしなくてはならないはずです。男であるわたしを娶っては、それは叶いません」
もっとも重要だと思われることを話しているのに、やはり殿下はふわりと微笑んだままわたしを見ていらっしゃる。まるで耳に届いていないかのような様子に、眉尻が下がるのが自分でもわかった。
「殿下、」
「あぁ、すまない。あまりに必死なエルニース殿が珍しくて、つい見惚れてしまっていた」
「殿下、ご冗談はおやめください」
この国の未来がかかっているというのに、当事者である殿下はどうしてこうも落ち着いていらっしゃるのだろう。
これまでわたしは、他人に何かを訴えるようなことをしたことがなかった。だから、わたしの言葉は相手に伝わりにくいのかもしれない。それでも今回は絶対に伝えなければいけないことで、殿下のためにも諦めるわけにはいかなかった。
「お話をお受けするわけにはまいりません」
きっぱりと口にしたわたしを、殿下は目を細めて微笑むように見ていらっしゃる。
「殿下……!」
「あぁいや、ちゃんと聞いてはいるけれど正直まいったなと思ってね。こんなに愛らしく必死にお願いされてしまっては、つい頷いてしまいそうになる」
「殿下、ご冗談はおやめください」
「うん、冗談ではないし、決してきみに意地悪をしているわけでもない」
どうにも話の通じないことに焦りとわずかな苛立ちを感じた。こんな気持ちになったのは初めてで、ハルトウィード殿下との婚約話が出たときにも感じなかった感情に自分でも戸惑ってしまう。
「きみはハルトとの婚約が持ち上がったとき、こんなふうに必死に断ろうとしたかい?」
「え……?」
突然の問いかけに首を傾げる。
「していないだろう? それ以前にハルトのことを真剣に考えることがなかった。違うかな?」
「それは……」
「ハルトのときはそんなふうだったきみが、いまはわたしのことを思って必死に話をしてくれている。それだけで、わたしは天にも昇る心地なんだ」
「殿下、」
「それだけきみの中でわたしの存在が大きくなっているということだ。ハルトと違い、きみはわたしをきちんと認識し、考えてくれている」
微笑む殿下に優しく抱き寄せらた。何事かと戸惑うわたしに小さく笑った殿下が「もっとわたしのことで一杯にしたいのだけれどね」とおっしゃり、ますます困惑してしまう。
「きみが言っていることはもっともなことだと、わたしもわかっている」
殿下の腕が離れ、ソファに座るように促された。
「では、一つずつ問題を解決していくとしようか」
隣に座った殿下の目は、どこか楽しそうな雰囲気に見える。
「まず先ほども言ったとおり、自分の結婚相手は自分で決める。これは陛下にもご納得いただいていることだ。もちろん、きみを伴侶に迎えたいという話も陛下にお伝えしているし、許可もいただいている」
「え……?」
まさか、そんなことを陛下がお許しになるなんて……。決してあり得ないと思っていた内容に驚き、思わず目を見開いてしまった。
「それから世継ぎのことだけれど、ちょうど二月 と少し前に陛下にお子が生まれたんだ。わたしにとっては歳の離れた異母弟にあたるね。その子をわたしの養子にして世継ぎにしようと思っている。きみにとっては義理の息子になるわけだけれど、本格的な子育てはしなくて構わない。もちろんしたいというのなら、わたしも全面的に協力しよう」
「……あの、」
「大丈夫、陛下はもちろん母上も、生みの母である第三夫人も納得していることだ。それに第三夫人と子どもが会うことを禁じたりはしないし、きみが気づいたことがあれば助言してほしいとも思っている」
予想すらしていなかった内容に、ただただ驚かされた。しかも、すでに関係者全員が承知しているのだという。
「ね、きみが危惧していることはまったく問題じゃない。これで安心してわたしの伴侶に、あぁいや、まずは婚約者になってもらえるかな?」
終始笑顔で話をされる殿下に、なんとお答えしてよいのかわからなかった。なにより、自分が問題点として話したことすべてが問題にすらならないことに呆然とする。
(……やはり父上に相談してから返事をするべきか)
そう考え、即座に駄目だと思い直した。
(それではハルトウィード殿下のときと同じになってしまう)
父上に再び王族との交渉を任せるのは心苦しかった。毎日のようにやって来る王城からの使者に、父上は日に日に顔色を悪くしていった。最後は憔悴といってもいい状態で、そんな父上を見ていることしかできなかった自分が情けなくて仕方がなかった。
(今回も、そうなってしまったら……)
いや、前回とは状況が違う。顔と名前しか存じ上げなかったハルトウィード殿下とは違い、ウィラクリフ殿下のことは多少なりとも存じ上げている。たくさん話もさせていただいたし、人柄や好みといったことも少しはわかっているつもりだ。
恐れ多くも親しい学友のように、それに少しばかり兄のように感じ憧れるようにもなっている。父上も、殿下のことは噂以上の方だと毎日のように賞賛しているくらいだ。
(もしかして、わたしと婚約するために手を尽くしていらっしゃったのだろうか)
そうでなければ、王太子である殿下が男の伴侶を迎えることに陛下が同意されるはずがない。いくら直系の王子とはいえ、異母弟を殿下の養子にすることに貴族たちが賛成するとも思えない。それでは貴族たちの力関係が大きく変わってしまう。そんなことは社交界に行かなくてもわかることだ。
それでも殿下は周囲を納得させた。そのうえでわたしに婚約したいとお話になったのだ。
(それだけ殿下も本気、ということだろうか)
そうまでして婚約者にと求められるのは、とんでもなく光栄で名誉なことなのだろう。そこまでしてくださる殿下の気持ちを蔑 ろにはできない……けれど。
(王太子殿下の伴侶だなんて、わたしには無理だ)
王太子殿下の伴侶ということは王太子妃になるということだ。男である自分が未来の王妃になることはないだろうが、それでも妃の一人になることには違いない。
(わたしが王太子妃なんて無理だ。なにより、そんな身分になるなんて想像がつかない)
想像したこともない身分になることは恐ろしかった。社交界すら知らない自分に務まるはずがないと思った。
いまでさえ貴族としての自覚に乏しいというのに、王城という雲の上の環境で生きていけるとは思えない。ハルトウィード殿下のお妃でさえ厳しいと思っていたのに、王太子妃なんて絶対に無理だ。
そもそも、つまらない自分が王太子妃になること自体、無茶が過ぎる。しかも家格は底辺中の底辺で、そんな家の男が妃の一人になっては殿下の評判を落としてしまうに違いない。
「……やはり、お受けすることはできません。どうか、お許しください」
あまりに弱々しい声に自分でも驚いた。いや、殿下の気持ちに応えられない心苦しさを思えば声が震えるのも仕方がないことかもしれない。
「うん、予想どおりの答えだ」
「申し訳ございません」
「謝らないで。たぶん謝らなくてはいけなくなるのは、わたしのほうだからね」
「殿下……?」
「きみが断るだろうことは予想していた。それでもわたしは絶対に諦めない。そのためにいろいろ準備もしてきたんだ」
わたしを見る殿下の眼差しが真剣なものに変わる。
「これからは婚約者としてわたしを見てほしい。そのうえでどうしても嫌だと思ったら、そのときは遠慮なく断ってくれて構わない」
先ほどまでとは明らかに違う表情に、それ以上わたしが口を開くことは難しかった。
その後、あっという間に父上を説得した殿下は、わたしを婚約者候補として発表してしまった。さすがに貴族たちはざわつくだろうと思っていたけれど、父上に聞く限りではそうでもないらしい。
(貴族たちにも事前に話をされていたのだろうか)
それなら騒ぎにならなかったことも納得できる。しかし、そうまでしてなぜわたしを婚約者にしたいのかがわからない。
何日経っても消えない疑問が再び浮かぶ。ハルトウィード殿下と婚約したときよりも胸がざわついて、戸惑いや困惑、それにうまく言葉にできない感情が入り乱れる。そのせいで、父上にも自分の気持ちをうまく伝えることができずにいた。
(いや、そもそも殿下をどう思っているのか自分でもわからないんだ)
ハルトウィード殿下のときは、あえて表現するなら何も思わなかったというのが一番近い。婚約者になることも伴侶となることも役目だと思っただけで、殿下に対する個人的な感情はわかなかった。困り父上の様子に多少憤慨したこともあったけれど、それもすぐになくなった。
しかし、ウィラクリフ殿下に対してはよくわからない感情がいくつも渦巻く。困惑はしているものの、それだけではない気持ちもあった。それが何なのか、自分でもよくわからない。
こうしてわたしはハルトウィード殿下に婚約破棄された約二月 後、ハルトウィード殿下の兄であり王太子であるウィラクリフ殿下の婚約者候補の一人になった。
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