6 / 19

6

 正式な王太子殿下の婚約者となるため、婚約式を執り行うことが決まった。ハルトウィード殿下のときには王城の意向で行われなかったけれど、さすがに王太子の婚約者ともなれば相手が男であっても省略することはできないのだろう。  そういうこともあり、わたしは再びお妃教育を受けることになった。いまだに「王太子妃」という言葉を聞くと不安や戸惑いはあるけれど、以前ほど怖いとは思わない。それはきっと、殿下と何度も話をさせていただいたからに違いない。  殿下は、いつも「わたし自身を見てほしい」とおっしゃる。「王太子の婚約者ではなく、ウィラクリフという一人の男の婚約者だと思ってほしい」ともおっしゃった。 「だから……というわけではないんだろうけど」  婚約の話を聞いた当初よりも、「王太子妃」という言葉を変に意識することが少なくなったように思う。さすがにお妃教育と聞くと身が引き締まる思いにはなるけれど、逃げ出したいとは思わない。それよりも、ウィラクリフ殿下に恥をかかせるようなことになってはいけないと思う気持ちのほうが強くなっていた。  お妃教育の話を聞いてから五日後、家庭教師と会うことになった。ウィラクリフ殿下と一緒にやって来たその人を見たわたしは、思わず目を見開いて驚いてしまった。 「あなたは……」  殿下の後ろに立っていたのは、ハルトウィード殿下のときにお妃教育をしてくれていた人物だった。 「ご無沙汰しています。本日より再びよろしくお願いいたします」 「わたしのほうこそ、あの、よろしくお願いします」  婚約破棄される直前まで教わっていた人に再び教わるというのは、なんとも言えない奇妙な感じがする。ちらりと見た相手のほうは何も思っていないのか、以前と変わらない様子だ。 「リードベル教授は宮廷作法に詳しいだけでなく、我が国の歴史や外交にも造詣が深い。またダンスや乗馬など全般にわたって一人で教えられる方でね。王太子妃の家庭教師として、これ以上の適任者はいないと思っている」  殿下の説明に、なるほどと納得した。以前、学問や行儀作法以外も一人で教えてくださっていたのはそういう人物だったからだ。普通はそれぞれ別の教師がつくのだろうけれど、その必要を感じなかったことを思い出す。 (あのように優秀な教授なら、王太子妃としての指導もなんなくこなしそうだな)  その分厳しい方ではあるけれど、殿下のためと思えば気持ちも奮い立つ。 「ハルトのことを思い出すかもしれないけれど、少しだけ辛抱してほしい」 「わたしは構いません」  随分前からハルトウィード殿下を思い出すことはなくなったから……とは、さすがに言えなかった。  こうしてお妃教育が再開されることになり、わたしはリードベル教授の授業を再び受けることになった。 「ダンスもお忘れでなかったようで何よりです」 「ありがとう、ございます」  しっかりと叩き込まれていたダンスは、ありがたいことに二月(ふたつき)と少しの時間では忘れたりしなかったらしい。しかし体力のほうは別だったようで、少し息が上がってしまったのは情けなかった。 「足のほうは大丈夫ですか?」 「はい、いつもの靴なので……」  ハルトウィード殿下とのダンスでは、念のために女性用の靴を履くようにと言われていた。そのためダンスを習い始めた当初は靴に慣れることができず、血豆が潰れて出血することが何度もあった。あまりの痛さに、湯を使うのもためらったくらいだ。  しかしウィラクリフ殿下は「そんな無理をする必要はない」とおっしゃってくださり、普段の靴のままダンスを習っている。おかげで足を痛めることもなく、泣きそうなほどの痛みもいまとなっては懐かしい思い出だ。 「作法もダンスも、よく覚えていらっしゃるようで安心いたしました」 「昔から覚えることは苦手でなかったので、それが幸いしたのだと思います」  体を動かすことは苦手でも勉学や知識を得ることが好きだったおかげか、以前習ったことはおおよそ覚えている。これまで何度か教授の授業を受けているけれど、すべておさらいをしているような状態だ。  そういうこともあり、わたしは次のことを学びたいと思うようになっていた。 (それに、婚約式までそんなに時間があるわけでもないし……)  婚約式を終えれば、わたしは正式な王太子殿下の婚約者という立場になる。周囲もそういう目で見るようになるだろう。  たとえば、わたしが由緒ある家柄の姫君で、そういう類いの教育を受けていれば、まだ安心できたのかもしれない。しかしわたしは底辺の貴族で、そもそも男だから淑女の教育を受けたこともない。そんなわたしが王太子妃になるには、もっと学ばなくてはいけないことがあるはずだ。 (きちんと学んでおかなければ、殿下に恥をかかせてしまう)  それが何よりも嫌だった。殿下に恥をかかせないためにも、王太子妃としての行儀作法だけでも完璧にしておきたい。そのためにも、早くつぎのことを学んでおきたかった。 「あの、少しよろしいでしょうか?」 「なんでしょう」 「以前教わったことは、おおよそ覚えていると思います」 「えぇ、大変すばらしいことだと思いますよ」  リードベル教授の眼鏡がキラリと光ったような気がした。金髪をきっちりと束ねた姿は父上と同じくらいに見えるけれど、実際の年齢はよくわからない。厳しい表情に慣れてきたものの、年配の教授に意見をするには多少の勇気が必要だった。 「そろそろ……王太子妃としての教育を、受け始めたほうがいいのではと思っているのですが、どうでしょうか……?」 「……」  そう口にした途端、教授の動きが止まったように見えた。 (……言うべきことではなかったのかもしれない)  もしくは、そんなことが言えるほどの状態に達していなかったということか。 (それでは、婚約式までに行儀作法を習得できないかもしれないということだ)  そのことで殿下に迷惑をおかけしてしまうかもしれない。恥をかかせてしまう可能性もある。優秀で誉れ高い殿下の名前に、わたしが最初の傷をつけてしまうことになる。 (……やはり、わたしが王太子妃になるなんて無謀だったんだ……)  前向きだった気持ちが少しずつ不安へと変わっていく。 「あの……出過ぎたことを口にしました」 「あぁいえ、わたしのほうこそ失礼しました。少々、考え事をしてしまいまして」  縁のない眼鏡をクイッと押し上げた教授が、じっとわたしを見た。 「エルニース様は、すでにおおよその王太子妃の教育は終えられています。ですから、いまは覚えていらっしゃるかの確認で十分かと思いますよ」 「え……?」 「以前お教えしていた内容は、王太子妃の教育と何ら変わりないものです。追加でいくつか学んでいただくことはありますが、それも問題ないでしょう。エルニース様の覚えのよさには、ウィラクリフ殿下も大変満足されていらっしゃいます」  一体どういうことだろう。以前はハルトウィード殿下のお妃になるための教育を受けていたはずなのに、あれが王太子妃の教育だった……? (たしかに、そう言われたら納得できる内容だったけど)  以前受けていたお妃教育は、それはもう大変なものだった。学舎で教授たちと意見を交わしていたときよりも余程難しく、多くの時間を費やさなくてはいけなかった。だからハルトウィード殿下に衣装をお返しするときに、やるせない気持ちになったりもした。 (でも、どうして王太子妃の教育を……?)  第二王子の伴侶となるはずだった自分が、なぜ王太子妃の教育を受けていたのだろうか。わたしが疑問を抱いているとわかったのか、教授が付け加えるように話を続けた。 「もともと、お妃教育というものに大きな違いはありません。先だって第三王子殿下がご誕生したとはいえ、王位継承者は王子殿下お二人しかいらっしゃいませんでしたからね」 「なるほど……」  もしものときのためにということならば、納得できる。 「それに、いずれ王太子妃の教育が必要になるということでしたし、殿下より直々に相談を受けておりましたので」 「殿下からの相談、ですか……?」  教授はわたしの質問に答えることはなく、テーブルに置いてあった何冊かの本を手にした。 「次回は隣国について復習しましょう。以前お渡ししたこれらの本は、まだお持ちですか?」 「はい、すべて揃っています」 「では、つぎは本をお持ちください。ここ十年の外交に関して確認しますので、読み返すことも忘れないように」 「はい」  気になることは多々あったけれど、これ以上訊ねても教授が答えてくれないことは雰囲気でわかった。  こうして王太子妃になるためのお妃教育のほとんどは復習という形になり、滞りなく進められることになった。  ・・・・  ウィラクリフ殿下の訪問がなく教授の授業もないこの日、昼食後に殿下が手配してくださった仕立て屋がやって来た。  挨拶のときに聞いた名前で、すぐにハルトウィード殿下に賜った衣装を仕立てていたところだということがわかった。直接会うことはなかったものの、相手もわたしの名前には聞き覚えがあるはずだ。 (やっぱり気まずいよな……)  わたしはそう思っていたけれど、教授のときと同じで先方はまったく気にしていないように見える。それにホッとしつつ、手際のよい作業風景に少しばかり見入ってしまった。 (そういえば、こうして直接採寸や生地当てをするのは初めてだ)  ハルトウィード殿下のときには、似通った体型の人用に仕立てられた衣装が届くだけだった。そのため、中には袖を通すまでもなく大きさが合わないと思われるものも混ざっていた。 「つぎは、お目の色に合わせた淡い灰青色の生地を合わせていただきましょうかね。それから、こちらの少し紫がかった白と、全体に刺繍が入ったこちらの生地でも礼服を仕立てるようにと承っておりますから、こちらの生地当てもさせていただきますよ」 「はい……」  先日、三着もの高価な服を賜ったばかりだというのに、また新たに三着も……。しかも、そのうち二着は礼服だという。たしか純白と薄紅色、それに淡い空色の礼服も手配したと聞いていたけれど、まだ作る必要があるのだろうか。 「あの、殿下からすでに礼服の手配をしたとのお話を伺っているんですが」 「えぇ、承ってございますよ」  恰幅(かっぷく)のよい夫人が、お針子や荷物運びの使用人たちにあれこれ指示しながら答えてくれる。 「それで、また二着も礼服をと言うのは……」 「あと数着、別の色で仕立てるようにと承ってございますよ。まだ生地が全部揃っておりませんので、近いうちに再度お伺いさせていただくことになりますね」 「え……?」  さらに礼服を作るという話に驚いた。王太子妃になるとはいえ、そんなにたくさんの礼服が必要だとは思えない。そうなると、仕立てる多くの礼服が無駄になってしまう。 「そんなにたくさんは、必要はないと思うのですが」 「一番お似合いのものを選びたいのだとおっしゃられていましたから、思いつくすべての生地でお作りになるのでございましょうねぇ。それにわたくしどもの品は作り替えることも可能でございますからね。必要でなくなったぶんはすべて、普段お使いになる服に作り替えるようにとも承っておりますよ」  ……ということは、礼服の数だけ賜り物の服が増えるということになる。それはさすがに無駄遣いのしすぎではないだろうか。  そもそもわたしにはご令嬢方のように着飾る趣味はない。殿下の伴侶となっても男である自分には表の仕事はないだろうし、王族らしい服もあまり必要ないはずだ。 (……あれ? 作り替えることができる?)  夫人の言葉が引っかかった。 (ハルトウィード殿下からの賜り物も、すべて同じ仕立屋のものだったはず)  ということは、あれらの衣装を仕立て直せばよかったのではないだろうか。わざわざ一から仕立てるよりも手間がかからないだろうし、そのほうが余計なお金もかからない。 「あの、ハルトウィード殿下から賜った服を作り替えたほうが、手間がなくてよかったのではないですか?」  わたしの質問に夫人が動きを止め、しばらくこちらを見てからにこりと笑った。 「それは男心をご存知ないお言葉ですよ。殿方というものは庶民であろうと貴族であろうと、よその男に贈られた服を着せたがったりはしません。たとえ仕立て直したとしても嫌がるものでございますよ」 「……そういうものですか」 「そういうものでございますね」  よくわからないけれど、老舗の仕立て屋が言うのならそういうものなのだろう。それでも自分にはもったいないと思わざるを得ない。 「生地の取り寄せに少しばかり時間と手間を頂戴しますけれど、一級品を扱えるのは仕立て屋としても嬉しい限りでございますからね。とくに花嫁衣装は腕の見せどころですから、わたくしどもも楽しみにしているんでございますよ」 「花嫁衣装、ですか……」 「王太子妃になられるんですから、たとえ男性用の礼服であっても、花嫁衣装として精一杯作らせていただきますよ」  これまで注文している礼服の中から、婚約式と婚礼式に使うものを選ぶのだと聞いている。 (だから、花嫁衣装か……)  花嫁衣装と聞くと戸惑いもあるけれど、見た目だけでいえば普通の男性用礼服と大差ない。以前のものは女性らしいふわふわとした部分が多かったため、これを自分が着るのかと思うと頭が痛くなるほどだった。しかし、これまで仮縫いを終わらせたものは落ち着いた雰囲気で、一般的な礼服に近いものだった。……いや、生地や縫製の金額は普通ではないのだろうけれど。 「それに随分と前から生地のことは承っておりましたから、遠い異国のものも問題なく間に合いますよ」 「え……?」 (随分前からというのは一体……?)  どういうことか訊ねようとしたけれど、夫人に「つぎの生地を当てますよ」と言われ、体をくるりと反転させられてしまった。 「あとは靴でございますね。こちらは長年付き合いのある靴職人を連れて参りますから、つぎは足の型取りと革合わせもいたしましょうかね」 「え? あの、靴も作るんですか?」  驚いて振り返りながら問いかけると、当然だと言わんばかりに頷かれた。 「もちろんでございますとも。靴も一式揃えたいと殿下から承っておりますからね」  体に当てられている生地を見て、きっと靴に使う革もこの生地のように高価なものに違いないと予想した。 (これでは、本当に無駄遣いになってしまう……)  これまで服も靴もほとんど仕立屋に頼んだことのないわたしは、途方に暮れそうになった。  その後、殿下にこれ以上は服も靴も必要ないと訴えてはみたものの、「これはわたしの楽しみでもあるんだよ?」と微笑まれてしまい、結局お断りすることはできなかった。

ともだちにシェアしよう!