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番外編 星の絵本と小さな天の使い

 十二歳になったばかりのあの日感じた衝撃は一生忘れないだろう。現にいまでも色鮮やかに思い出すことができる。あのときの感情、その後事故に遭ったと聞いたときの気持ちを思い出すたびに、目の前にルナがいることを何度感謝したかわからない。  隣でぐっすりと眠るルナの頬に指先で優しく触れる。そうして寝息をわずかにこぼす唇に触れ、首筋に触れ、鎖骨のそばに見える赤い印をゆっくりと撫でた。 「ん……」  反射的に出たのであろう小さな声に下腹部がズクリと疼いた。つい先ほどまで散々貪っていたというのに、すぐさま反応してしまう体に我ながら苦笑してしまう。 (いや、何度抱いても抱き足りないのだから仕方ないか)  間違いなく手に入れたというのに、焦がれるような思いが消えることはなかった。そのせいでルナに大変な思いをさせていることはわかっているが、どうしても伸ばす手を止められない。自分はこれほど欲深かっただろうかと何度も考えたが、過去を思い出してもルナに関すること以外でそういうことは一度もなかった。 (そもそも、すべてルナの代わりだったのだから当然だな)  過去、触れた相手は全員が黒髪だった。ただし目の色だけは碧眼や緑眼を選んだ。あの美しい灰青色はルナだけのもので代わりがいるはずがない。そもそもルナ以外で心から触れたいと思った存在は一人もいなかった。 (これほど美しく育ったというのに、灰青色の目を見ると幼いあの頃のままだな)  いまは瞼の裏に隠れているルナの瞳を思い出しながら、初めて出会ったときのことに思いを馳せた。  あの日、姉上の部屋の近くにいたのは偶然だった。後宮の庭で遊んでいたはずのハルトの姿が見えなくなり、侍女たちと一緒に探していた最中だった。 「ハルト、こんなところにいたのか」  いつもならわたしが声をかけた瞬間に振り返るというのに、そのときのハルトは反応することなくどこかをじっと見ていた。何か珍しいものでもあっただろうかと思いながら、ゆっくりとハルトの背中に近づく。  視線の先にあるのは姉上の部屋に続く庭で、わたしもハルトも何度も訪れている場所だ。だから珍しいものなどないはずなのに……そう思って庭に視線を向けた瞬間、わたしの目はそこにいた存在に吸い寄せられていた。 (誰だ?)  サラサラとした黒髪に灰青色の目をした幼い……男の子、だろうか。間違いなく貴族子息の服装だというのに、あまりにも愛らしい顔立ちだったからか一瞬男の子かわからなかった。  覚えのない顔だから母上の縁者ではないだろう。姉上の部屋の近くということは、姉上と親しいどなたかの子どもだろうか。 (そういえば、今日は公爵家の姫がいらっしゃるという話だったな)  社交界で白百合と呼ばれていた姫が姉上のところへいらっしゃるという話は聞いていた。すでに嫁がれて登城することはなくなったはずなのに、姉上の我が儘で急きょ呼び出されたのだ。 (たしか、姫は貴族の……)  わたしの頭の中に、帝王学を学んでいるとき以上の速さで貴族たちの家名が浮かぶ。膨大な数の貴族たちの中から白百合の姫が嫁いだ貴族の名前を思い出した。 (公爵家の姫の嫁ぎ先としては随分と格下だという噂があったか)  王城のパーティで、そういった話を何度も耳にした。そのたびに姉上が憤慨していたのを思い出す。 (姉上も母上も白百合の姫を大層可愛がっていらっしゃったからな)  それこそ血の繋がりがあるのではと思うほどの目のかけようだった。たしかに公爵家とは縁戚ではあったものの、まるで娘や妹に対するような溺愛ぶりに父上さえも苦笑するほどだった。わたしがもう少し年上だったなら、間違いなく王太子妃候補の筆頭だっただろう……そう言われていた姫でもある。 「兄上、あの子は誰?」  ハルトの声に、物思いに耽っていた頭が現実へと引き戻される。 「あんなかわいい子は見たことがない」 「そうだね」  見下ろしたハルトが、わたしによく似た緑眼をキラキラと輝かせている。  ハルトは美しいものやかわいいものが大好きだ。そのせいか自分が着る服もおもちゃも、やけにキラキラしたものばかり選ぶ。そんなハルトの目には、庭にいる白百合の姫の子どもが眩しく輝いて見えていることだろう。 「ぼく、ごあいさつする」  そう言って歩き出そうとしたハルトの肩を、思わずグッとつかんでいた。考えて動いたのではなく無意識に手が出ていたことに自分でも驚いた。 「兄上、痛いよ」  ハルトの声が少し大きかったからか、白百合の姫の子どもがこちらを見た。そうして思ったよりもしっかりした足取りで近づいてくる。 「こんにちは」  子どもの声は、まるで聖歌隊の歌声のように澄んでいた。高い声だから女の子にも聞こえるが、物怖じしない表情からは男の子らしい好奇心も感じる。 「こんにちは。ねぇ、きみはだれ? どこのお姫さま? どうしてここにいるの? お城に住むの?」  ハルトが立て続けに訊ねるからか、白百合の男の子はきょとんとした顔をした。ハルトより小さな体だから三歳か四歳くらいだろう。そんな子に一度に質問しても答えられるはずがない。  そう思って「ハルト」と注意すると、男の子が灰青色の目をニコッと細めて「ご本、よむ?」と話しかけてきた。見れば胸元に何かの絵本をしっかりと抱えている。この本を一緒に読もうということだろうか。 「読む!」  元気よく答えたハルトに男の子がまたもやニコッと笑いかけた。その笑顔がハルトに向けられていることに、なぜかわずかな苛立ちを感じた。そう感じてしまった自分に眉をひそめていると、男の子とハルトが芝の上に座り本を読み始める。  それは小さな貴族子息二人が仲良く遊んでいるという、心温まる光景だったに違いない。しかし、わたしの中にはモヤのようなものが広がっていった。それが何なのか、十二歳のわたしにははっきりと理解できた。 「帰るよ」  気がつけばハルトにそんな言葉をかけていた。当然ハルトは不機嫌な顔をしたが、「母上がお菓子を用意してくださっているよ」と言った途端にパァッと明るい表情に変わる。そうして「ぼく、帰る」と言って遊んでいた庭のほうへと走っていった。  少し離れたところに侍女たちの姿があるから、ハルトは問題なく母上のところに帰るだろう。それを見送りながら自分の口が笑っていることに気づく。 (ハルトが子どもでよかった)  だから、すぐにこの子からお菓子へと興味が移った。素直なハルトらしい行動だが、それがわかっていて「お菓子」と口にした。そうすれば間違いなくハルトはいなくなってくれる。この子の目は、わたしだけを見てくれる。 「そのご本、一緒に読んでもいいかな」  走り去るハルトの後ろ姿を残念そうに見ていた男の子の灰青色の目が、今度はわたしを見上げた。驚いたように大きくなったその目が、次の瞬間にはニコッと細くなる。小さな口が少し開き「うん」と愛らしい声で返事をしてくれた。  その後、しばらくの間二人で星の絵本を眺めて過ごした。男の子の高い声に耳を傾けながら、小さな指がなぞる星の絵を目で追いながら、頭の中ではこれからのことを素早く考える。 (まずはこの子のことを調べて、それからどうやって近づくかだな)  社交界に出てからでは遅い。その前に親しくなり、できれば学友のような関係になっておきたい。その後は王立学院に通ってもらい、王城に出入りしてもおかしくない立場になってもらおう。年齢的に共に学ぶことができないとしても、それ以前から親しければどうにでもできる。  そうすれば社交界で力のない家柄であっても近くに置くことは可能だ。側近に取り立てるには難しいにしても、学友のような存在なら王城博士に近い形で王太子付きにすることもできる。  わたしは、生まれて初めて心が躍るような気持ちになった。初めて自分から手に入れたいと思える存在に出会い、文字どおり浮かれていたのだろう。熱心に星の話をしている小さな頭を見下ろしながら、今後のことに胸を昂ぶらせた。  あの頃の気持ちを思い出すと我ながら笑いたくなる。 (あの頃は、ただ近くにいたいと思っていただけだったんだがな)  ベッドに広がる美しい黒髪を指で梳く。あのときは、黒髪にこんなふうに触れたいとは思っていなかった。生まれて初めて自分から欲する友人に出会えたような感覚に近かった。しかし、その気持ちは友愛ではなかったのだとすぐにわかった。  ルナが白百合の姫とともに馬車で事故に遭ったと聞いたとき、目の前が真っ暗になった。あの瞬間、間違いなくわたしの心臓は一度止まった。あまりの衝撃に、ルナの状況がわかるまでの八日間は部屋に閉じこもり誰にも会わなかった。あのときは大勢に心配をかけただろうが周囲のことなどどうでもよかった。  その後ルナが無事だということがわかると、わたしはすぐに動いた。直属の騎士団やその見習いから数人を選びルナの身辺を見張らせた。  ルナが屋敷の外に出たがらなくなったと聞き、残念に思うのと同時に仄暗い喜びを感じた。それならほかの貴族たちに会うこともないだろう、そう思い喜んだ。  ルナがたくさんの本を読んでいると聞き、王太子宮の蔵書部屋を数倍に広げることにした。あの家は“学者もどき”と呼ばれるほどの蔵書があるからと、それに負けないように隣国にまで手を広げて本を掻き集めた。  もちろん、手に入れたすべての本を読むことも怠らなかった。いずれルナと本の話ができると思えば造作もないことだった。  念のため、その後もルナの周囲を注意深く見守り続けた。同時にルナを確実に手に入れるため“完璧で優秀な王太子”になることを決意した。といっても、以前からそう言われていたわたしに大きな変化はない。ただ、未来への過程がつまらないものから楽しいものへと変わったというだけだ。  わたしの変化はほとんどの人たちには気づかれなかった。しかし母上には何か感じるものがあったのだろう。ある日、母上がわたしにこうおっしゃった。  ――あなたが人であるためには、あの子が必要なのでしょうね。  あの子とはルナのことで間違いない。わたしがルナに執心していることは後宮の誰もが知っていたからだ。それでも大方は「側近に取り立てるつもりではないか」と思っていた。そうではないと早々に気づいたのは、おそらく母上だけだ。 (さすがは母上だ。生みの親というのは直感が働くのだろうな)  そういう意味ではリラ殿も同じなのだろう。まだ幼いリドニスだが、あれは確実にわたしに似てくる。わたしにはそれがわかる(・・・・・・)。だからこそ牽制もした。 (それをきちんと理解できたのは賢い証拠だ)  リドニスは間違いなくよい王太子になる。わたしをよく助けてもくれるだろう。 (……いまから妃候補を当たっておくか)  素直な弟にはご褒美を与えなければいけない。そう、ハルトにベアータ殿を与えたように。 「…………ん……ウィルさま……?」  少し掠れた声に口元を緩めながら視線を落とす。わたしが延々と髪の毛を梳いていたから起こしてしまったようだ。パチパチと目を瞬かせる姿は愛らしく、二十三歳の男にはまったく見えなかった。 「いや、これだけたっぷり愛しているのだから愛らしいのは当然か」 「ウィルさま……?」  まだぼんやりしているルナの唇に触れるだけの口づけを落とす。それだけでルナの白い頬がポッと赤らみ、得も言われぬ色気を漂わせた。 (なるほど、この色気が焦燥の原因なのだろうな)  ルナは王太子妃になってからというもの、年々艶やかになってきた。元々その美しさから大勢の目を引いていたが、近頃は老若男女関係なく視線を集めている。そのほとんどは憧れの眼差しといったものだが、なかには情欲を浮かべている者がいることにも気づいていた。 (妄想だけなら咎めはしないが)  不愉快ではあるものの仕方がない。王太子妃としての役目を大事に考えているルナから、その役目のすべてを奪うことは難しい。なにより悲しい顔をされると駄目だと言うことはできなかった。  わたしがこんな気持ちになるのはルナに対してだけだ。そういう意味でも母上の指摘は当たっていたことになる。 「ウィルさま、どうかされたのですか……?」  ルナの温かな手がわたしの頬に触れる。それだけで下腹部がドクリと脈打つが、今夜はもうお終いだと体に言い聞かせた。その証拠にルナもわたしもきちんと夜着を着ている。 「喉が渇いて目が覚めてね。少し水を飲んだだけだよ」  微笑みながらそう伝え、「起こしてしまったね」と言いながらルナの隣に体を横たえた。 「いいえ、大丈夫です。なんだか夢を見ていたようで、それで目が覚めたんです」 「夢?」 「はい。とても小さい頃の……。ウィル様と、初めてお目にかかった頃の夢です」 「そうか」  自分がたったいま思い出していたことをルナは夢で見ていたという。それだけでルナとの深い繋がりを感じ胸が熱くなった。 「そういえば……」 「うん?」 「いえ、あのとき殿下と見た絵本、結局どこにしまいこんでしまったんだろうと思って」  事故に遭ったあと、母親のことを思い出すのがつらくなったルナはいまだに当時の記憶があやふやなのだという。あのときの絵本も生家のどこかにしまいこんだと思っているようだか、真実は違う。 「今度、一緒に探してみようか」 「ウィル様?」 「さぁ、今夜はもう寝よう。明日は朝から古い記録を読み解くのだと言っていただろう? そのためにもしっかり寝なくてはね」 「はい」 「寝る時間を少しばかり奪ってしまったわたしが言う言葉ではないかもしれないけれど」 「ウィル様、」  今度は目元が赤くなった。灰青色の目が少し潤んでいるようにも見える。またもや下腹部が暴れ出しそうになったが、ここは渾身の力で抑え込むしかない。 (それに明日の夜もある)  明後日はわたしもルナも久しぶりに丸一日休日になった。ということは、明日は翌日のことを考えなくても構わないということだ。 「さぁ、寝ようか」 「はい」  小さくあくびをしたルナが、いつものようにわたしの右肩に頭を預けた。はじめは「腕を痛めてしまいますから」と遠慮していたが、いまではルナのほうから自然と身をゆだねてくれる。そうした変化の一つ一つがたまらなく愛おしい。  すぐに寝息を立て始めたルナの髪に触れ、優しく頭を撫でる。柔らかな黒髪の感触を楽しみながら、幼いルナと過ごした日を思い出した。 (初めて一緒に見た絵本には、四季折々の星空が描かれていたね)  子ども向けながら、描かれている星空はとても美しく思わず見入ってしまうほどだった。あのとき、わたしはいつかルナと一緒に本物の星空を見たいと思った。それは星見の塔を造ったことで叶えることができた。 (あのときの絵本は、どんなにルナの生家を探しても見つからない)  以前もどこかにしまい込んでしまったのだと話していたが、それは真実ではない。 (あの絵本は、きみがわたしにくれた初めての贈り物だ)  姉上の部屋の前の庭で出会って三日目、もっと長い時間会いたくて、自分のところに遊びに来ないかとルナを誘った。いま思い出してもなんという稚拙な誘い方だとおかしくなるが、ルナを前にするとわたしは年相応のことしかできなかった。  努めて優しく、できるだけ笑顔で、それでも一生懸命誘うわたしに、ルナは「いっしょにあそぶ?」と首を傾げた。 「そう。わたしの部屋には、たくさんの本があるんだ」 「ご本!」  ルナの顔がパァッと輝いた。しかし、すぐに花開いた笑顔がしぼんでしまう。 「でも、かあさまが、もうこないって」  その言葉に頭を殴られたような気がした。それでも王太子である自分にはいくらでも会う方法を作ることができる。普段の自分ならすぐさまそう考えたはずなのに、ルナの前ではそれさえ思い浮かばなかった。  ただ焦り、どうにかしなければと思った。何か言わなくてはと思い、つい「それなら、ずっと一緒にいられる方法を考えないと」と口に出してしまっていた。 「ずっと? とうさまとかあさまみたいに?」 「そう。そのくらい、ずっと一緒にいたいんだ」  思わずそう答えたわたしを見上げた幼いルナは、しばらく何かを考え、そうしてニコッと笑って持っていた絵本を差し出した。 「ご本、あげる」 「わたしに?」 「うん。かあさまは、とうさまにご本をいただいたの」 「本を?」  小さな頭がこくんと頷き、黒髪がサラサラと揺れる。 「ずっといっしょにいましょうねって、ご本をいただいたの」  おそらく、それが結婚の申し込みだったのだろう。それを母親から聞いたルナは「一緒にいるためには相手に本を渡す」と思っていたに違いない。 (本当はルナのほうが結婚の申し込みをしてくれたのだよ)  その証があのときの絵本だ。もちろんいまでも大切に持っている。 (そのことをルナに思い出してほしくて、つい意地悪をしてしまった)  そろそろあの絵本をルナに返してもいいだろう。もしかすると、絵本を見てあのときのことを思い出してくれるかもしれない。 (思い出したら、私が結婚を申し込んだのだと嘘をついたことを謝らなくてはいけないか)  いや、その後すぐにルナへの気持ちに気づいたのだから「ずっと一緒にいたいんだ」という言葉は結婚の申し込みで間違いない。そのくらい強烈に「ずっと一緒にいたい」と思った。  それに、嘘をついていたことを謝らなくてはいけないのなら真っ先に謝るべきはハルトにだろう。あのとき出会った黒髪の可愛い子が公爵家の姫君だった(・・・・・・・・・)と教えたのはわたしだからだ。 (いや、もう昔のことだ。それにハルトも何も気づいていないわけではないのだろうし)  南の王領地へ出立する前、ルナを見るハルトの眼差しがそれまでと違っていることに気がついた。わずかな未練のようなものも混じっていたが、大半は憐憫のようなものだったように見えた。  ハルトはわたしと違い、物事を素直に受け止めるよい性質を持っている。わたしの言動を真っ直ぐに受け止め、素直に信じ、同時にわたしに対する違和感も感じてきたに違いない。 (ルナを不憫に思ったのだろうが……)  それは大きなお世話というものだ。あの頃と変わらないルナの柔らかな黒髪を撫でながら、小さく笑ってゆっくりと目を閉じた。

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