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番外編 星降る夜に

 ついに星見の塔が完成した。見たことのない高さに驚きすぎて、つい口を開いて呆けたように見上げてしまう。ハッとし慌てて口を閉じたものの、殿下に「また一つ可愛らしいルナの表情を見ることができたえ」と微笑まれて顔が熱くなった。 「せっかくだから、今夜はここで星を見ようか」 「今夜、ですか?」  殿下の言葉に、もう一度塔を見上げる。 (この塔の最上階で見る星は、さぞかし綺麗だろうな)  完成間近だった十日ほど前から、じつは様々な星の本を何冊も読み耽っていた。春前のいまならこのあたりの星空が見られるだろうか、この星は輝きが弱くて見えづらいけれど塔からなら見えるだろうか、そんなことをたくさん想像していた。  そうやって想像してきた星空を、今夜この目で見られるかもしれない。そう考えるだけで子どもの頃のように気持ちが昂ぶる。 「ふふ、ルナの目がまるで星空のように輝いている」 「殿下、」 「今夜は雲もなく晴れるそうだから、素晴らしい星空が見られるだろうね」  ふわりと微笑む殿下の顔に、トクンと鼓動が跳ねた。 (わたしが星の本を読み耽っていたことをご存知なのだ)  だから春の大華祭(たいかさい)の前の忙しい時期だというのに、こうして誘ってくださったのだろう。 (こうしていつもわたしを気遣ってくださる)  そんな殿下をもっとお助けしたいと胸の内で思いつつ、「楽しみです」とお答えした。  この日の夜、さっそく最上階で夜を迎えることになった。少し興奮しながら空を見上げると、本とは比べものにならない風景画広がっていた。 「なんて美しいんでしょうか」  思わず「ほぅ」とため息が漏れた。そのくらい頭上に広がる星空は美しく、圧倒されるものだった。  星見の塔の最上階には広いテラスがあり、そこに立つと眼下には煌びやかな街並みが、頭上には街並みに負けないほど輝いている星空を見ることができた。どちらも美しいと思うけれど、わたしはやはり星空のほうが好きだなと空を見上げる。 「さぁルナ、こちらにおいで」 「はい」  呼ばれてテラスの中央に置かれた寝椅子に座った。寝椅子はベッドかと思うほどの大きさで、二人並んでも十分にくつろぐことができる。 「羽織物を掛けなくても寒くはないと思うけれど、どうかな」 「はい、十分暖かいです」  寝椅子のそばには小さな暖炉のような暖房器具が置かれている。見たことのない形の器具だけれど、殿下の姉上である王女殿下が嫁がれた国から取り寄せた物だと伺った。  器具の中は火がついているはずなのに明るく見えないのは、何か特別な作りだからだろうか。そんなことを思って器具を見ていたわたしに、殿下が「火の粉が飛ばないようになっているんだよ」と教えてくださる。 「だから中の火が見えないんですね」 「そのとおり。それに赤々とした火が見えてしまっては星を楽しめなくなってしまうからね」 「……そうですね」  そこまでお考えになったうえで、この器具を用意してくださったということだ。いつもながら殿下のお心遣いには感謝してもしたりない。 「それにしても本当に素晴らしい星空だ。それをこうしてルナと一緒に見られてうれしいよ」 「わたしのほうこそ、ありがとうございます」  こんなに美しくはっきりとした星空は生家の庭では見られなかった。手を伸ばせば届くのではないかと思う星々に、なんという贅沢だろうかと改めて思う。同時にこんなに素晴らしい星空を殿下と一緒に見られることに心の底から感謝した。  夜空に顔を向けたまま、視線だけをちらりと殿下に移す。 (星を見ていらっしゃる殿下は、いつも以上に美しくていらっしゃる)  輝く星が反射する緑眼は、まるで深い森に煌めく宝石のようだと思った。スッとした鼻筋も形のよい唇も、すべてが美しくていらっしゃる。  人の顔にそんな感想を抱くようになったのは殿下と婚約をしてからだ。それ以前は人の顔に興味はなく、人そのものに興味を持っていなかったように思う。わたしにとっての世界は屋敷と本だけで、それ以外は遠い国の出来事と変わらなかった。記憶が曖昧なままの幼い頃の自分のことも同じように感じることが多い。 (母上のこともいまだに夢のようで……、っ)  不意にこめかみがズキンと痛んだ。母上のことを思っても胸が痛むことがなくなった代わりに、こうして頭が痛むことが増えたような気がする。 (この痛みがなければ、もっと母上のことを思い出せそうなのにな)  ぼんやりとしていた母上の顔が、いまはもう少しだけはっきり思い出せるようになった。わずかながら母上とのやり取りも思い出した。ほっそりした腕でいつもわたしを抱きしめて、優しく「ルナ」と呼んでくれていた声も思い出すことができる。 (そう、あの日もいつもと同じように抱きしめてくれていた)  ザァザァと雨が降るなか、怖がるわたしを馬車の中で抱きしめてくれていた母上。「大丈夫よ」と言って何度も頭を撫でてくれた。そうして母上の腕の中でウトウトしていたわたしは、大きな音と激しい揺れに驚きハッと目が覚めた。  聞いたことがない音や誰かの悲鳴、いななく馬、何かが壊れるような音――その後、訪れた暗闇と静寂。  わたしはただ怖くて必死に母上にしがみついていた。声を出すことも母上と呼ぶこともできないまま母上の腕の中で震えていた。この温もりがあれば大丈夫、母上がいるから大丈夫、そう思って母上のドレスの胸元を必死に握り締めた。  しかし、わたしを抱きしめた母上の体が段々と冷たくなっていき……。 (……っ)  ブルッと体が大きく震えた。 「ルナ、やはり羽織物を掛けようか」  殿下の声にハッとした。気がつけば、星空を見ながら両腕で自分を抱きしめている。そんなわたしを殿下がすぐそばで心配そうに見ていらっしゃった。 「いえ、大丈夫です」 「寒いようなら遠慮しなくていい。あぁそうだ、羽織物よりこちらのほうがいいかな」 「殿下……?」  寝椅子に横たわった殿下が、「おいで」と両手を広げながらわたしを見ていらっしゃる。 「あの、」 「ほら」  さすがにそれは……と思ったものの、微笑みながら「さぁ」と促されては断ることが申し訳なく思える。戸惑いを感じながらも、おずおずと殿下の胸に体を預けた。 「うん、このほうがずっと温かい」 「殿下、」 「ルナ、違うだろう?」 「……ウィル様」  名前をお呼びすると、まるで褒めてくださるように肩を撫でられた。 (ウィル様の体はいつも温かい)  きっとわたしより体温が高くていらっしゃるのだろう。そう思いながら、そっと胸に頬を寄せる。すると、トクントクンと規則正しい鼓動が聞こえてきた。それはまるであのときの母上のようで……。 (違う)  殿下の鼓動は止まったりしない。いつも温かく、こうしてわたしを包み込んでくださる。それはこの先も続くはずだ。 「わたしの腕の中でも、やはり寒かったか」 「そんなことはありません」  慌てて顔を上げて否定した。 「その……少し、母のことを思い出して……」 「お母上のことを?」 「……事故のときのことを……」 「……そうか」  肩を抱いてくださっている殿下の手に力が入るのを感じた。きっとわたしを心配してくださっているのだろう。そんな殿下の優しさがうれしくて、甘えるように胸に頬を寄せる。すると今度は安心しろとおっしゃるように背中を撫でてくださった。 「つらいことを無理に思い出す必要はないよ」 「はい。楽しかったことのほうを多く思い出していますから大丈夫です」 「それならいいけれど」  それは本当のことだ。まだ少ししか思い出せないけれど、優しく美しかった母上を思い出すことのほうが多い。それに父上と母上と過ごした日々も、わずかながら思い出せるようになった。このまま少しずつでもいいから、小さい頃のことをもっと思い出したいと思う。 (そうすれば、初めてウィル様にお目にかかったときのことも思い出せるだろうし)  いまだにはっきり思い出せないのは残念だけれど、いつか思い出したい。そう願いながら目を瞑りウィル様の胸の音を聞く。 「……最近、少しばかり反省することがある」 「ウィル様……?」  心なしか、いつもより力のない声が聞こえてきた。どうしたのだろうと心配になったけれど、背中を撫でる手を邪魔する気持ちになれず顔を上げないまま耳だけ傾ける。 「事故に遭ったことでルナは心に大きな傷を負った。そのせいで外に出られなくなり、好きな学問も満足に学ぶことができなくなってしまった。きっと市中の学舎ではなく王立学院に通えば好きなことを思う存分学べただろう。学友たちにも恵まれ、いまとは違った人生を歩んでいたかもしれない」  そうかもしれないけれど、事故は誰にも予見できなかった出来事だ。そのことを嘆いても仕方ないことで、わたしもどうしようもなかったのだと納得している。 「事故の話を聞いたとき、本当に心臓が止まるかと思った。心配で夜も眠れなかった。人伝(ひとづて)に様子を聞いては一喜一憂したりもした。結果的にわたしの望む形になったけれど、いまだにこれでよかったのかと思うこともある」 「それはどういう……?」  どうしても気になり、背中を撫でるウィル様の手を気にしつつも顔を上げた。先ほどと変わらず星空を眺めているように見えるけれど、美しい緑眼はどこか遠くを見ているように感じられる。 「ウィル様?」 「このような形で伴侶にしてしまって本当によかったのかと、ふと思うことがある。ルナがこうしてそばにいてくれるというのに、わたしはまだ不安なのだろうな」  もしかしてハルトウィード殿下との婚約破棄をいまだに気にされているのだろうか。それとも事故のことを思い出したわたしを心配されているのだろうか。 (事故は仕方がなかった。それにハルトウィード殿下のことも、もう終わったこと)  それに、ウィル様の伴侶になれたことを嬉しく思うことはあっても後悔したことは一度もない。 (ウィル様は本当に優しくていらっしゃる)  そんなウィル様のため、わたしにできることは何だろうか。歴史書の編纂はしているけれど、もっとお役に立てることがあるのではないだろうか。もっと……王太子妃としてだけでなく、ウィル様の伴侶として何かできることがないだろうか。 (……そうだ)  婚約する前にウィル様がおっしゃっていた言葉を思い出した。 「王太子でいらっしゃるウィル様のお心を暗くする原因が何か、わたしには想像することすらできません。けれど、わたしがウィル様のそばにいることはきっと運命だったのだと思います」 「ルナ?」 「幼いときにウィル様に結婚を申し込まれたことも、その後再び結婚を申し込まれたことも運命だったのだと思います。そしてわたしは、ウィル様の伴侶となったこの運命を喜びこそすれ恨むことは決してありません。あの、王太子妃という立場は、困りはしましたけれど……」  ウィル様に伝わっただろうか。以前よりは人と接する機会も増え話すことも多くなった。だから婚約以前のように伝わりづらいということはないと思うのだけれど、やはり不安になる。  心配しながらウィル様を見ていると、驚いたように見開かれていた目がフッと和らいだ。 「ルナは随分と変わってきたね」 「そうでしょうか?」  メリアンやキルトにも似たようなことを言われることがあるけれど、自分ではよくわからない。ただ、よい方向に変わっているのだとしたらうれしいと思う。 「そうだね。ルナとわたしは運命で結ばれていたのだろう。でなければ、初対面だったあの日から一瞬たりとも忘れられないなんてことはなかったはずだ。あの日からわたしはルナを思い、ルナのことばかり考えてきた。どうすればルナのそばにいられるか考え、そうなるように行動してきた。そしていま、ルナをこの腕に抱きしめることができている」 「ウィル様、」  熱烈な告白を聞いているようで顔が熱くなった。優秀なウィル様が見初めてくださるようなところが自分にあるのかわからないけれど、これほど思ってもらえるのは心の底からうれしい。 (それに……わたしも同じくらいウィル様を思っている)  貴族の婚姻で相思相愛というのは珍しい。だからこそ、大恋愛の末に結婚した父上と母上のことは社交界で長く語られていると聞いている。貴族でさえそうなのだから、王族ではもっと珍しいことだろう。そんななかでお慕いするウィル様と伴侶になれたことは紛れもない幸運だった。 (とくに、この国では同性との婚姻はあまりないから)  そう思うと、ますます運命のように感じる。 「ルナとこうして結ばれたことを、心の底から嬉しいと思っている。心から想う人と添い遂げられる幸運に、いつも感謝しているよ」 「それは……わたしも同じです」  面と向かって伝えるのはさすがに恥ずかしく、目を伏せながらもはっきりとそう告げた。そんなわたしにウィル様が少しだけ笑い、顎を持ち上げ口づけをしてくださる。ただそっと触れるだけの口づけだというのに、それだけでわたしの体はすぐに熱くなった。 「ふふっ。ルナはいつまでも可愛らしいね」 「ウィル様、」 「どうかこれからも、ずっとわたしのそばにいてほしい」  穏やかなウィル様の声は、まるで祈るような響きに聞こえた。声に出して返事をすることができない代わりに、胸に額を当てながらこくりと頷く。 「ありがとう、ルナ」  再び顎を持ち上げられたかと思うと、微笑むウィル様の顔が再び近づいてきた。そうして唇に、頬に、顎に口づけされる。そのまま唇が首へと移り、夜着のボタンを外しながら鎖骨の近くを強く吸われた。 「んっ」 「ルナ、愛している」  ウィル様の祈るような囁きに全身がビリビリと痺れる。 「ルナ、愛しいルナ……わたしだけのルナ……」 「……っ」  熱の籠もった声に体がフルッと震えた。気がつけば夜着の胸元をはだけられ、同じように前をはだけたウィル様に抱きしめられる。触れ合う素肌に胸を高鳴らせるとともに、熱い感触になぜか無性に涙がこぼれそうになった。 「ルナ、愛している」  囁きに、わたしはウィル様を抱きしめ返した。われるのを、恍惚とした気持ちで受け止めた。

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