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番外編 リドニス殿下の胸のうち
ぼくには母上が二人いる。
一人は侯爵家の姫で、ぼくを生んだ人。もう一人は上の兄上のお妃様で、ぼくの義理の母上になる人だ。そういう意味では父上も二人いることになるし、上の兄上は兄上だけれど父上ということにもなる。
それでもぼくの中では父上は父上で、兄上は兄上だ。兄上も「わたしのことは兄と思ったままでいいからね」とおっしゃっているし、兄上を父上だと思ったことは一度もない。母上のほうも、やっぱりぼくを生んだ母上一人だけで、エルニース様を母上だと思ったことはなかった。
(でも、母上より母上っぽいんだ)
物心ついたときにはエルニース様がいらっしゃった。住んでいる宮は違うけれど、“いつも”というくらいにはお会いしている。もしかしたら国王である父上よりもお顔を見る回数が多いかもしれない。
ぼくはエルニース様にご本を読んでいただくのが大好きだ。母上よりもたくさんのご本をご存知で、異国のご本も読んでくださる。本当なら王城博士に習うことも、最初はエルニース様に教えていただいていた。
(そうしたいとぼくが必死にお願いしたからだけど)
ぼくは、三歳の誕生日を迎えたら兄上の子どもになって王太子宮に行くことになっていた。けれど、それではぼくも母上も寂しいだろうからとエルニース様がおっしゃって、王太子宮に行くお話はなくなってしまった。
(母上と離れるのは寂しい。でもエルニース様のおそばに行きたかった)
いまでもそう思っている。でもぼくは未来の王太子で、わがままを言ってはいけない。その代わりに、いまもエルニース様にいろんなことを教えていただいている。本当はそれだってぼくのわがままだけれど、エルニース様は笑顔で「わたしでよければ」とおっしゃってくださった。
こうしてぼくは三日に一度王太子宮にお伺いして、エルニース様にいろんなことを教えていただいている。植物のこと、動物のこと、異国のこと、それに料理や食事の作法、あいさつの仕方もエルニース様に教えていただいた。エルニース様は、まるで母上と王城博士がお一人になったような方で本当にすごいんだ。
もうすぐ六歳になるぼくは、そろそろ本格的な帝王学を学び始めることになる。そう兄上がおっしゃっていた。
「リドニス殿下は、ウィラクリフ殿下と同じくらい優秀な王太子殿下になられますよ」
エルニース様が微笑みながらそうおっしゃったから、ぼくは優秀な王太子になる決意をした。優秀な王太子になって、ぼくもエルニース様のようなお妃を迎えたい。優しくて、いろんなことをご存知で……そして、とびきり美しいエルニース様のような人に、お妃になってほしい。
エルニース様に褒めていただけるような王太子になる決意はしたけれど、残念なことが一つだけあった。それは、これまでのようにエルニース様にお会いできなくなることだ。 ぼくが帝王学を学んでいる間はエルニース様にお会いできない。それに帝王学は父上の後宮でやるから王太子宮に行くこともできない。せめて王太子宮で学べたのならエルニース様に毎日お会いできたのにと残念でならなかった。
「母上、どうしてエルニース様は王太子宮からお出にならないのですか?」
「急にどうしたの?」
「……だって……」
ぼくが王太子宮に行けないのなら、エルニース様が来てくださればいいのにと思った。けれど、エルニース様は決して王太子宮からお出にはならないのだと母上から聞いている。
エルニース様が王太子宮の外に出られるのは王城でパーティがあるときくらいだ。ぼくが生まれた頃は王城の庭を散歩することもあったそうだけれど、いまは散歩すらされない。だから母上が大好きなお庭にもいらっしゃらないし、せっかくきれいに咲いている薔薇を一緒に見ることもできない。
(どうして外にいらっしゃらないのだろう)
ずっと不思議に思っていた。だから母上に尋ねることにした。
「リドニスはエルニース様が好きなのね」
「はい!」
ぼくはエルニース様が大好きだ。もちろん母上も父上も王妃様も、優しい兄上も大好きだけれど一番はエルニース様だ。
ハルトウィード兄上とベアータ様も嫌いじゃない。だけどウィラクリフ兄上と違いすぎて少し苦手だった。それにいまは南の王領地に行かれていて、お会いすることもほとんどない。
二年前、ぼくがまだ四歳のときにハルトウィード兄上は南の王領地に行かれた。王領地を治めていた大叔父上が亡くなられて、領地を継がれることになったからだ。
ぼくは、あまりハルトウィード兄上のことを覚えていない。ただ、いつもキラキラしたお洋服を着ていたことは覚えている。ベアータ様も同じようにキラキラしていたような気がする。それがウィラクリフ兄上やエルニース様とあまりに違いすぎて、ぼくはあまり好きになれないなと思っていた。
兄上が「南の王領地は大きな港があるから異国の品がたくさん手に入る。派手なものが好きなハルトは喜ぶだろうね」とおっしゃっていた。その言葉と何となく覚えているハルトウィード兄上を思い浮かべ、ぼくもそうだろうなと思っている。
「エルニース様はお美しいものね」
「それだけじゃありません。お優しいし、ご本もたくさんご存知だし、異国の言葉もすらすらとお話になるんです」
「あらあら、リドニスは赤ちゃんのときから変わらずエルニース様贔屓だこと」
ぼくがまだ乳飲み子だったとき、それはもう癇癪がすごい時期があったらしい。そんなときでもエルニース様に抱っこされると途端に静かになりすやすやと寝ていたのだと、侍女たちがおもしろそうに話していた。
きっとぼくは、その頃からエルニース様が大好きだったんだ。それはいまも同じだし、これからも変わらないと思う。
「帝王学が始まったらエルニース様にお会いできる時間が少なくなります。それなら、エルニース様がこちらにいらっしゃればいいのにと思ったんです」
後宮に入れないエルニース様でも、帝王学を学ぶ部屋には入ることができる。そこは王城博士もほかの人も入れる部屋だから問題ないはず。
そう思って母上に話したのだけれど、どうしてか母上は少し難しいお顔をされた。
「リドニス、あなたがエルニース様を好きだというのは素敵なことだわ。わたくしもエルニース様のことはとても好きよ」
「はい」
「エルニース様はあなたにとっては母上も同然の方、それはよく心得ておきなさいね?」
「はい、わかっています」
「そう、それならよいのだけれど」
そうおっしゃった母上が、ぼくの頭を優しく撫でてくださった。
(どういう意味だろう?)
はいと返事はしたけれど、おっしゃる意味がよくわからない。わからなかったけれど、エルニース様が王太子宮をお出になることはないのだということだけは、なんとなく理解できた。
それからもぼくはエルニース様にお会いできるときが待ち遠しくてたまらなかった。今日もエルニース様にご本をお借りするためお会いできる。帝王学の授業が始まってからは、思っていたとおりエルニース様にお会いできる時間がとても少なくなった。だから、ご本をお借りする日が待ち遠しくてたまらなかった。
七日に一度、ぼくが王太子宮にお伺いしてご本を三冊お借りする。そのとき、エルニース様とお茶を飲みながらお話をするのが一番の楽しみだ。あまりに楽しみすぎて、今日も朝からそわそわしてしまった。ご本を持ってうろうろしていたら母上に何度も笑われてしまった。
(本当は、もう少しあとの時間だけど……)
どうしても我慢できなくなったぼくは、部屋をこっそり抜け出して王太子宮に来てしまった。
(エルニース様なら、お叱りになったりはしない……はず)
きっとお笑いになって、いつもどおりお部屋に入れてくれるはず。そう思うと気持ちが弾んだ。
小走りで来たから少し乱れた襟元を直す。服がおかしくないか何度も侍女たちに聞いて、髪の毛もきちんと整えてもらった。靴もピカピカだし先日お借りしたご本もちゃんと持っている。エルニース様がお好きだとおっしゃっていた花のお茶も、母上にわけていただいて持って来た。
(ええと、たしかここを曲がって……、あ、あの部屋だ)
王太子宮の入り口から少し入ったところにある部屋が、いつもエルニース様とお話をする部屋だ。ぼくはそわそわしながらも少しだけ早歩きで扉に近づいた。
「ウィルさ……、だめで、…………ス様、が、…………ぁっ、……」
扉の向こうから声が聞こえる。もしかして、もうエルニース様がいらっしゃっているのだろうか。そわそわしながらも、なんとなくいつもと違う雰囲気に扉を少しだけ開けて中を覗き込む。
(エルニース様! ……と、兄上……?)
部屋の中にはエルニース様がいらっしゃった。だけど、すぐそばには兄上もいらっしゃる。兄上の姿を見たぼくは、慌てて扉を開ける手を止めた。侍女も侍従も連れずに一人でここまで来たことがわかったら、きっと叱られる。
兄上はとても優しいけれど、いつも王族として、未来の王太子としてきちんとしなさいとおっしゃっている。きっと勝手に来たとわかったら、お叱りになるに違いない。
だから扉を閉めようとしたのだけれど、エルニース様の悲鳴のような声が聞こえてきて思わず中を覗いてしまった。
(……?)
エルニース様を、兄上が後ろからギュッと抱っこしている。エルニース様はどうしてかお顔が真っ赤になっていて、慌てたように何かおっしゃっていた。兄上も何かお話になっているのか口が動いている。
その口が、エルニース様の首にくっついた。すると、エルニース様がまた悲鳴のような声を上げられる。
(悲鳴……かな)
悲鳴に聞こえるけれど、違う。どうしてそう思うのかわからないけれど違うような気がする。それにエルニース様の美しいお顔が赤くなっているのもいつもと違っていた。いつものエルニース様もとてもお美しいけれど、それよりも何だかもっと……。
ズクン。
エルニース様のお顔を見ているうちに、お腹の奥が熱くなってきた。ジクジクして、胸もドキドキして苦しい。
(これはなんだろう……?)
その日、ぼくはエルニース様にご本をお返しすることができなかった。どうしてかエルニース様にお会いするのが恥ずかしくなったのだ。
王太子宮から飛んで帰ったぼくは、そのままベッドに潜り込んだ。そうしながら何度もエルニース様の美しいお顔を思い出していた。
赤いお顔は、いつもと違って見えた。いつもどおりお美しかったけれど、それよりもっとお美しかった気がする。そういえば少し泣いていらっしゃるようにも見えた。真っ赤な口が少しだけ開いていて、そこから悲鳴みたいな、聞いたことのないお声がして……。
「リドニス」
「……!」
急に兄上のお声がして、びっくりしてベッドから飛び起きた。後宮には滅多にいらっしゃらない兄上の声がするなんて、どうしたんだろう。
「あ、兄上、」
「今日、王太子宮に来なかっただろう? ルナが心配していたよ」
「あの、……ごめんなさい」
「具合が悪いのかな?」
「いいえ! 元気です!」
もしぼくが具合を悪くして王太子宮に行けなかったということになったら、それこそエルニース様に心配をおかけしてしまう。
ぼくはブンブンと頭を振って、そうではないのだと兄上に訴えた。
「そう、それならよかった。先日少し熱を出したと聞いたとき、ルナがとても心配していたからね」
「大丈夫です、どこも悪くありません」
あのときはエルニース様が果物やお菓子をたくさん届けてくださって、とてもうれしかった。でも、そのぶん心配をおかけしたのだと思うと、とても悪いことをしたような気がした。だからもう二度と病気にはならないとあのとき決めたのだ。
「兄上、ごめんなさい。エルニース様にも、ごめんなさい。……あの、ご本は、次のときにお返しします」
「そうだね、そうするといい」
兄上が頭を撫でてくださる。父上の手も大きいけれど、兄上の手はそれよりも大きくて力強い。どうしてかそう思った。
「リドニスは、ルナのことが好きかい?」
「はい!」
ぼくが一番好きなのはエルニース様だ。だから大きく頷いて、それからまだ頭を撫でてくださっている兄上を見上げた。
「……っ」
ぼくと同じ緑色の目をした兄上が微笑んでいらっしゃる。父上と同じくらい大好きな兄上が笑っていらっしゃる。……笑っていらっしゃるのに、どうしてかとても怖かった。ぼくの頭を撫でてくださっている大きな手が、とても怖い。
「そう、ルナは誰からも好かれるからね。それはとてもいいことだ」
兄上が、怖い。初めて怖いと思った。
「次はきちんと本を返しに来なさい。でないとルナがまた心配してしまうからね」
「……はい、兄上」
撫でてくださっていた大きな手が離れて、兄上が部屋を出ていかれた。
気がついたらぼくは両手をぎゅうぎゅうに握りしめていた。上着もズボンもなんだか濡れたみたいになっていて気持ちが悪い。まるで乗馬の練習をしたあとみたいな感じだ。
ぼくはエルニース様が大好きだ。母上よりも父上よりも、兄上よりも一番好きだ。でも、もう一番に好きじゃいけないのだと思った。
でないと、きっともっと怖いことになる。
それが幼い頃の思い出でもっとも強烈に覚えていることだ。
あの日以来、わたしはエルニース様に必要以上に近づかないようにしてきた。同時に兄上の様子を一番に見るようにもなった。十二歳で正式に兄上の養子になったとき、この世で決して逆らってはいけないのは国王である父上ではなく、義理の父となった兄上なのだとはっきり理解した。
そんな兄上の逆鱗は、すべてエルニース様に繋がっていることも悟った。
わたしが生まれた頃、エルニース様に毒を盛った愚かな庭師がいた。その話を偶然耳にしたのは数年前だ。
気になって調べてみると、その庭師は王太子妃候補だった姫君にそそのかされてそのような愚行に及んだらしい。何日にも渡って盛られていた毒がついに効果を見せ、エルニース様がお倒れになってしまった。そして、その日のうちに庭師は兄上の命令で処刑されている。
庭師をそそのかした姫君は祖国に帰ったようだけれど、帰国した三月 後に病で亡くなった。はたして本当に病だったのかはわからない。
ほかにも表に出ていないだけで兄上の粛清を受けた人間がいるに違いない。それは国内だけでなく、もしかしたら国外の人間も含まれているかもしれない。
いずれにしてもすべてエルニース様に近づいた咎であり、兄上の逆鱗に触れた結果だった。
最初、わたしには兄上のお気持ちが理解できなかった。たしかにエルニース様はこの世のものとは思えないほどお美しく、兄上が目に入れても痛くないほど溺愛されているのはわかる。それでもただの王太子妃だ。
それにエルニース様のことを除けば、兄上は歴代国王の中でも群を抜いて優れた賢王になると讃え称されるほどの人格者でもある。そんな人が、たった一人のために粛清など行うものだろうか。しばらくの間は疑問ばかりが浮かんでいた。
(だけど、ようやくわたしにも兄上の気持ちが理解できました)
十六歳になったわたしには五人の妃候補がいる。そのうちの一人は兄上自らが推薦された姫君だった。
先の公爵の孫であり、エルニース様の親族にあたる姫。エルニース様のお母上が亡くなる事故のきっかけとなった伯母が、最後に生んだ姫の子ども。
残念ながら黒髪ではないけれど、灰青色の美しい目はエルニース様に瓜二つだった。それに顔立ちも似ていて、少しはにかむような笑顔は年の離れた兄妹と言ってもいい。姫君にしては珍しい読書家らしく、そこもエルニース様に似ていて好ましかった。姫の生家で何度か姿を見かけたけれど、あと数年もすればエルニース様によく似た姫君に育つだろう。
「まだ七歳だと聞いたけれど……いや、その歳だからうまくすれば……」
兄上に、王太子宮の蔵書を使わせていただけないかお願いしてみよう。姫君だから大丈夫だとは思うけれど、乗馬はさせないようにしなければ。できれば馬車にも乗らないほうが好ましい。あとは……そうだな、異国の言葉を学んでもらうとしようか。
(三年後には兄上が正式に国王になられる。そのとき、わたしは王太子になる)
三年後の姫君は十歳になったばかり、手にするにはさすがにまだ早い。
(そうだ、エルニース様にご養育をお願いできないだろうか)
王太子妃としてエルニース様に教育していただければ、エルニース様によく似た王太子妃に育つに違いない。
(さっそく兄上にご相談しよう)
兄上ならば許可してくださるはずだ。以前は理解できないことが多かった兄上だけれど、いまは多くのことが理解できるようになった。おそらく兄上も、わたしの考えや気持ちを理解してくださるに違いない。母上がいつもおっしゃるように、兄上とわたしはとてもよく似ていると今更ながら実感する。
「兄上に必要だった宝珠は、わたしにも必要そうだしな」
逸る気持ちを抑えながら、ウィラクリフ兄上の執務室へと急いだ。
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