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「いく」ってどんな感覚だろう―リアルとリアリティ
みなさま、こんにちは。
男性同士を「薔薇」と表現するのは昔あった同性愛雑誌にちなんだものと聞いたことがあります。それに対応させる形で、女性同士を「百合」と表現するようになったとかどうとか。
その真偽は確かめたわけではないのでわかりませんが、花や蕾の形を見れば「ユリ」が男性器で「バラ」が女性器、もしくはオチリなんじゃないかと、まあ思ったりするわけです。
まあ・・・それは置いときましょう(笑)
プロの脚本家の方がこんなことをおっしゃってました。
「リアルとリアリティは違う。リアルが必要とは限らない」
その方が言うには、リアリティは「リアルっぽさ」だそうで、確かにそうかもと思ってます。
「そんな奴はおらんやろ」とは思うけれど、「もしかしたら、そんな人がいるかも」と思わせるキャラづくりとか、ですね。
でも、一方で「事実は小説より奇なり」というように、リアルがフィクションを越えることもあるでしょう。大谷選手なんかそうですね。
で、ですよ。
えっちしーんに「リアル」は必要か、という話です。
最近、特にfujossyを使い始めてから、「どっちもあり」だと思うようになりました。
女性の方がお書きになる男性同士のえっちは、当然、資料や伝聞に基づいたものでしょう。もちろん、実際に経験できるわけではないのですから。でも、「もしかしたらそうかも」というものは、女性の方が面白いものを書けるような気がします。
そもそも、個人的な経験は所詮その一例でしかなく、それがすべてではないわけですよね。
私のえっち経験を書いたとして、それは男性同士のえっちの「リアルの一つ」であって・・・
・・・
・・・
オレ、なんか言っちゃいました?
ま、まあ、事の真偽は置いといて(笑)
個人的経験は、自分にしか書けないものでもありますから、私はそういう方針で行ってみようかと、そう思った次第です。
あ、でも、男性でもオシリで「いく」そうです。どんな感じなんでしょうね。さすがにそういう経験はないかなぁ。それに似た感覚は経験があるんですが。
・・・
・・・
また、何か言っちゃいました?
ま、まあ、事の真偽はおいておきましょう(笑)
でも、AFは女性でも経験できることですよね。男女で感覚に違いがあるんでしょうか。もう、謎だらけですよね。。。
「リアル」には限界がありますが、「リアリティ」は∞。
私も、読み手の方をうならせるような「リアル」と「リアリティ」を目指していきたいと思います。
ではではみなさま、また次回に!
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