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1 出会い

 父上が、妙な子供を拾ってきた。凛一郎と然程歳の変わらない、しかし随分と肌が青白く、痩せっぽちで、背の低い少年を拾ってきた。ぼろを纏っていたが、一度洗ってさっぱりしてまともな着物を着せたら、まだ見られる姿になった。今日から凛一郎の弟になるらしい。   「近所を案内してやりなさい」    凛一郎にそう言って、父はそのまま奥の座敷へと入ってしまった。凛一郎は戸惑いつつも、“弟”に話しかける。   「君、名前は?」 「……螢」    ほとんど表情を変えず、彼は言った。   「雅な名前だな」    凛一郎が褒めてみても俯いたままで、反応は芳しくない。   「長旅で疲れているのか? 父上はああ言ったが、外へ出るのは明日でもいいんだ。今日は屋敷の中を案内しよう」    凛一郎が手を取ると、螢は反射的にその手を払い除けた。まるで煮立った鍋に指を触れた時のような、瞬間的な動きだった。凛一郎が呆気に取られていると、螢は握りしめた両手を震わせながら、震える声で謝った。   「ご……ごめん、なさい……」    その姿はまるで母に捨てられた子犬のようで、何とも憐れだった。   「お、俺の方こそすまない。急に触られたら嫌だよな。これからは気を付ける。そんなに怯えないでくれ」 「……怒りませんか」 「何を怒るんだ? それと、俺には敬語を使わなくていい。これからは家族なんだから」 「……わかりました」    この調子では、打ち解けるのは少々骨が折れそうだ。   「それじゃあ、やっぱりその辺を歩いてみるか?」    頷いているのかどうかよくわからなかったが、ともかく凛一郎は螢を屋敷の外へと連れ出した。       「この辺りは門前町だから、昔から栄えているんだ。最近だと新しく西洋料理屋ができて、俺も一度行ったことがある。あの幟旗が出ているのは人気の寄席だ。他にも何軒か、芝居小屋もあるぞ。この坂を上ると、毘沙門様のお寺がある」 「……人が多い……ですね」 「縁日になるともっと盛況だぞ。境内に露店が並んで、飴や玩具を売るんだ。季節によっては植木が売られたりもする。そんなのが夜まで続くんだ」    螢は田舎の出だそうだから、都会の喧騒には慣れないのだろう。おどおどと辺りを見回しながら、不安そうに凛一郎の後をついてくる。見かねた凛一郎が手を差し伸べてみても、それとなく拒んで一定の距離を保つ。    不意に、きゅるるる、と滑稽な音が鳴った。行き交う人々の雑踏も喋り声も霞むくらい、大きな音だった。何事かと思い振り返ると、螢が真っ赤になって腹を押さえていた。   「君……」 「ご、ごめんなさい、あの、おれ、あの……」    恥ずかしそうに口籠りつつ、なぜかしきりに謝る。そんなに怯えなくてもいいのに、と凛一郎は思った。   「俺もちょうど腹が減ったところだ。何か食べたいものはあるか?」 「な、なんでも……」 「そうか。じゃあそこの蕎麦屋に入ろう。美味いぞ」    暖簾をくぐり、座敷に上がる。昼時は過ぎていたので、店内は空いていた。天麩羅蕎麦を二杯頼んだ。螢は丼の中をしげしげと見る。   「これ……海老?」 「好きじゃなかったか?」 「あ、いえ……あまり、食べたことがないので……」    恐る恐る箸で摘まみ上げ、頬張った。サク、と衣の弾けるいい音がする。   「おいしい……」    凛一郎は、初めて螢の笑顔を見た。ほんの少し口角が上がり、緊張していた眦が僅かに緩む。なぜかわからないが、心臓を鷲掴みされた気持ちになった。凛一郎が見つめ過ぎたせいか、螢は怪訝そうに眉を顰めた。   「……何ですか」 「な、何でもない! 気に入ったなら、俺の天麩羅もやろう」 「え……悪いです」 「いいんだ。俺は昼におむすびを食べたから。君の方が腹が減っているだろうからな」    二本あった天麩羅を両方螢の丼にのせると、さすがに四本は多いからと一本返された。    *    翌朝。詰襟の学生服に学生帽を被り、下駄を履いて学校へ行く。下女のキヨが玄関まで出て、弁当を渡す。   「螢は学校へは行かないのだろうか」    凛一郎が尋ねると、キヨは首を傾げる。   「あの方は小学校を出てらっしゃらないようですから、とても坊ちゃんと同じ学校へは行けませんよ」 「父上が言っていたのか?」 「ええ。なんでもお体が悪いとかで、お家でのんびり養生させたいと」 「そうだったのか……」    何も知らなかった。昨日人混みの中を連れ回したのはよくなかったかもしれないと思い、申し訳ない気持ちになった。    授業が終わり、凛一郎は急いで学校から帰った。途中で菓子店に立ち寄って、その後は真っ直ぐ家に帰った。庭で掃き掃除をしていた螢は、帰宅した凛一郎に気づくと、おかえりなさいと言って頭を下げた。袴姿に下駄履きで、寒々として見えた。   「君……外に出ていていいのか? 体に障るんじゃないか?」 「え? 何のこと……」 「いいから、中に入っていなさい。箒なんか持たなくていいから。掃除ならキヨがしてくれる」 「でも、あの……」    箒は取り上げてその辺りに投げ捨て、戸惑う螢を座敷に上がらせた。   「体が冷えるとまずいだろう。火鉢を出すか? それとも俺の半纏を着るか? もう綿は抜いてあるが、ないよりいいだろう」 「い、いや、あの、おれ、」 「体は辛くないか? 寝ていなくていいのか? 布団を敷いてやろうか」 「だから、あの、」 「そうだ、いいものを買ってきたんだ。口を開けてくれ」 「え? あ……」    素直に開いた小さな口に、金平糖を一粒のせる。螢は不思議そうに目を丸くし、頬を膨らませて口の中で転がした。   「甘い……」 「金平糖というんだ。甘くて美味しいだろう? 俺の好きな菓子だ」 「ん……でも、硬いですね」    ガリ、と噛み砕く音がする。   「あ、こら。それは噛むものじゃない。舐めていればそのうち溶けるから」 「そうなんですか?」    田舎にはこういう菓子はなかったのだろうか。食べ慣れないようで、結局全部噛み砕いてしまったらしかった。仮に菓子店があったとしても、螢は小学校も卒業できなかったくらいだから、きっと家が貧しくて砂糖菓子なんか買っている余裕はなかったのかもしれない。   「もう一粒食べるか? さっきのは白だったが、今度はこの赤いのにしよう」    小瓶を開けて見せると、わぁ、と螢は声を上げた。   「すごい、色んな色がある」 「ああ、綺麗だろう」 「こんなの見たことない。このとげとげはどうやったらできるんだろう」    年相応の――とはいえ凛一郎と同い年だが――好奇心に満ちた笑顔だった。笑顔を見るのは昨日ぶり二回目だ。それ以外はずっと、疲れたような無表情か、警戒するような顰め面ばかりだった。凛一郎は、螢の笑顔が殊更に好ましく思えた。他の誰に対しても抱いたことのない初めての感情で、凛一郎は戸惑った。   「……凛一郎さん?」    いけない、見つめ過ぎた。螢は困ったような顔をする。   「す、すまない。赤色だったな。ほら、食べるといい」 「ありがとうございます」    今度は口に直接入れるのではなく、掌にのせた。螢は手の中の星をじっと見つめ、それから瞼を伏せて、ゆっくりと頬張った。   「ん……甘くて美味しいです」    砂糖がほろほろと崩れるように、頬を綻ばす。やはり彼の笑顔は大変好ましい、と凛一郎は思った。できればずっと見ていたいくらいだ。けれど己の感情の正体がわからず、気を紛らわすために凛一郎も金平糖を頬張った。   「それで、あの……」    螢は言いにくそうに口を開く。   「急にどうしたんです?」 「……どうとは?」 「掃き掃除くらい、おれにだってできます。奉公先でも毎朝の日課でした」 「奉公?」 「はい。ここではおれは奉公人じゃないけど、何もしないでいるのは申し訳なくて」 「君、病身で奉公に出されていたのか」    凛一郎が言うと、螢はますます首を傾げる。   「おれは、病気じゃないですよ。小さい頃からずっと健康です」 「そ、そうなのか? 俺はてっきり、そのためにうちの養子になったものと思っていたが……」    父が珍しく慈悲心を働かせ、虚弱で貧しい螢を迎え入れたのだと思っていたが、そうではないらしい。ではなぜ、螢はうちへ来たのだろう。   「すまない。俺の勘違いだったようだ。キヨが妙なことを言うものだから、君が重い病を患っているのかと思って心配してしまった」 「心配……おれを?」 「ああ、すまなかったな。少し取り乱してしまった。だが、健康ならば本当に良かった。何も心配はいらないみたいだな」    凛一郎が安心して笑うと、螢もつられたように微笑む。   「……凛一郎さんは変わった人ですね」 「そうか? そんなつもりはないが……」 「ええ。だって、いくら早とちりをしたからって、おれ相手にあんなに慌てなくてもいいのに」    先程の凛一郎の様子を思い出したのか、口元に手を当ててくすりと笑う。   「息を切らして帰ってきて、こんなに暖かいのに半纏なんて着せてくれて。ましてや火鉢なんて、この陽気じゃむしろ暑いですよ」 「それは……君が寒そうに見えたから」 「もしかして、この上等のお菓子も?」 「甘いものでも食べたら元気が出るかと思ったんだ。でも、よく考えたらもっと栄養のあるものがよかったな」 「でも、おれはこの金平糖好きです。見た目も綺麗で、甘くて美味くて……」    それから僅かに俯いて、嬉しいとも恥ずかしいとも取れる表情をした。

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