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2 親睦
凛一郎が当初危惧したほど、螢と打ち解けるのは困難ではなかった。元々商家で奉公していたというだけあって、螢は大変真面目で勤勉であった。誰が頼んだわけでもないが、キヨを手伝って風呂の焚き付けや掃除などの家事を積極的にこなす。学問についても興味を示し、凛一郎が小学校の頃に使っていた教科書や帳面を借りては熱心に読む。
「今日は何を勉強しているんだ?」
凛一郎が学校から帰る頃、螢は大概文机に向かっている。
「おかえり、凛一郎。今日は歴史の本だ。今ちょうど江戸幕府の成り立ちの辺りだ」
また、最近では砕けた口調で気軽に話してくれるようにもなった。
「君、昨日も歴史の本を読んでいなかったか?」
「面白くて好きなんだ。それにお前の帳面はよくまとまっていてわかりやすい。でも、お前が帰ってきたならこんなものを読んでいる場合じゃないな」
そう言って螢は歴史の本を仕舞い、代わりに算術の教科書を開いた。
「昨日の続きを教えてくれ、凛一郎」
独学にも限界があるらしく、螢は時折凛一郎に教えを乞う。最近は連日だ。算術の教科書がいよいよ難しい単元に突入したらしかった。
「割り算の筆算は大体できるようになったぞ。応用問題も解いた」
帳面を見るに、解き方も答えも合っている。ちなみにこの帳面は螢専用のもので、凛一郎が父に嘘を言って買ってもらったものだ。
「じゃあ、今日は面積の問題でも解くか」
「面積?」
「ああ。例えばこういう四角形があるとして……」
凛一郎は筆を取り、帳面に作図をする。縦の長さがいくら、横の長さがいくらと書き入れ、縦と横の長さを掛け算すれば面積が求められると教える。螢は興味深そうに頷いている。
「なるほど。案外簡単だな」
「ここにある練習問題も、全部今の方法で解ける」
「そうなのか。なら早速やってみよう」
螢は筆先に墨をつけ、計算式を書き込む。集中している。凛一郎の通う中学でも、こうまでして勉学に励む者はそうそういない。
「君は学問が向いているのかもしれないな。今までしてこなかったのがもったいない。父上に頼んで、今からでも学校へ入り直したらどうだ。そして一緒に中学校に通おう」
「……凛一郎は、女に教育は必要だと思うか」
螢は筆を止め、藪から棒にそんなことを言った。
「女に教育は要らないだろ?」
「そんなことはないだろう。小学校には女子も通うし、最近は女学校も増えているぞ。女子教育を拡充せよとの声も大きい」
「それはお前の考えだ。全ての人間がそう考えるわけじゃない」
帳面に墨汁が滲み、ぼんやりと黒い染みができた。
「中学校はそんなに楽しいのか?」
「楽しいが、君がいればもっと楽しいと思う」
「お前はなぜ学校へ通う?」
「それは、将来は大学へ入って医学の研究がしたいからだ」
「……お医者様になりたいのか」
「医者じゃなくて、研究者になりたいんだ。不治の病の治療法を見つけたいんだ。母が、まだ若かったのに病気で亡くなったから」
凛一郎が言うと、帳面を睨み付けていた螢はようやく顔を上げた。墨汁の滲みはさらに濃く広がる。
「……おれもだ。おれも、両親が流行病で死んだ。だから奉公に出て……」
螢は突然、あっ、と大きな声を出し、筆先を慌てて紙から離した。しかし時既に遅く、次の頁の裏面にまで滲みてしまっていた。
「すまない、凛一郎。こんなに汚してしまった」
「いいんだ。余白はまだ十分ある」
「でもせっかくお前がくれたものなのに」
螢は何を焦ったのか筆に墨汁をたっぷりと含ませ、そのまま帳面の上へと持っていった。すると当然墨がぽたぽた垂れて、その頁はさらに真っ黒に染まった。
*
夏季休暇に入り、同級生の中には家族で海水浴へ行くとか高原の避暑地で過ごすとか言う者もいたが、凛一郎の父は仕事の方が大事で、凛一郎もどこかへ出かけることをせがみはしないので、毎年家で過ごすのが恒例であった。しかし今年は少々事情が異なる。家で過ごすのには違いないが、螢と一緒に一日を過ごせるのだ。
そして今夜は、ここ数年毎年開催されている花火大会の日だ。近所の河原で行われるが、高台にあるこの屋敷からも十分見物できる。さらに屋根に上ってしまえば、邪魔する建物もなく川まで一望できる。
「坊ちゃん、危のうございますよ」
梯子を使って屋根に上った凛一郎と螢を心配してキヨが言う。
「大丈夫だ。ここから見るのが一番いいんだ」
「けれど、もしもお怪我なんてなさったら」
「心配するな。もし落っこちても着地できる。それより、握り飯を持ってきてくれないか」
凛一郎が頼むと、キヨは勝手場に引っ込んだ。
「屋根で握り飯を食うのか?」
「ああ。楽しそうだろう?」
「うん、わくわくする。それにおれ、花火を見るのは初めてだ」
「だったら、もっと近くへ行った方がよかったな。傍で見る花火は迫力が違うんだ。来年はそうしよう」
「ううん。来年もここでいい。川辺の方は凄い人出なんだろ? ここの方がお前とゆっくり見られていい」
そんなことを話している間に、打ち上げが始まった。握り飯もちょうど出来上がり、食べながら見物した。
ひゅう、と笛を吹くような音と共に、小さな炎の種が天に昇る。それからぱっと花開くように、赤や青や橙の色とりどりの火花を散りばめながら、大輪の華が夏の夜空を鮮やかに彩る。少し遅れて、心臓を揺るがすような爆発音が響く。
螢は食い入るように夜空を見上げていた。菊や牡丹や、柳のような花火が一面を照らし、その度にその横顔が様々な色に煌めいた。次々と絶えることなく、無数の光の雫が刹那に降り注ぐ。
「……すごい」
じっと黙っていた螢は、息を吹き返したように呟いた。
「これが、花火というものなのか……」
続け様に爆発音が鳴り響く。暗闇が艶やかに染まる。
「まるで御伽噺みたいだ……な、凛一郎」
不意に螢が振り向き、微笑んだ。凛一郎は心臓が跳ねる心地がして、どういうわけかと一瞬たじろいだ。
「どうした、変な顔をして。花火、ちゃんと見てるか?」
「あ、ああ……」
生返事をしてから、心臓が跳ねたのは打ち上げの爆音のせいだと腑に落ちた。凄まじい轟音であるから、心臓が跳ねることもあるだろう。
「凛一郎……?」
ぐっと螢の顔が近付き、凛一郎は思わず仰け反った。
「おい。なぜ逃げるんだ」
「君が急に近付くからだろう」
「だからって、そんな風に仰け反ったら危ないぞ……? そんなことより、さっきから頬に米粒がついているのが気になって仕方ないんだ」
螢は凛一郎の頬にそっと触れて米粒を摘まみ上げると、ぱくりと食べてしまった。爆発音は聞こえていないのに、凛一郎の心臓はなぜかまた激しく鳴り始める。
「よし、取れた。これですっきりしたな」
「ああ……ありがとう」
「お前、ご飯粒をつけてるのにも気づかないくらい、花火に夢中だったのか」
「……そうかもしれない」
「意外だな。毎年見ているんだろ? それでなくても東京は毎日賑やかで祭りのようだし、この程度のことは慣れていると思っていたが」
「俺だって、慣れないことはある……。殊に、今年の花火は美しかった」
「そうか。なら、来年はもっと綺麗かもしれないな。楽しみだな」
螢の笑顔を見ると、上等の砂糖菓子を食べた時のような気持ちになる。一生懸けてもこの笑顔を守りたいと思った。これがきっと愛おしいという感情なのだろう、と凛一郎は初めて理解した。
*
休暇中、他にも夏らしい遊びをした。学友に誘われて川へ入り、小さな子供のようにずぶ濡れになって泳ぐということはしないが、竹筒で水鉄砲を作って遊んだり、カニやフナを釣ったりした。誰かが家からこっそり持ってきたスイカを川の水で冷やし、皆で食べた。螢が凛一郎の友人と会うのは初めてだったが、案外すぐ馴染んだ。
夕暮れになると学友達は一人また一人と家へ帰っていき、いつも最後に残るのは螢と凛一郎の二人だった。涼やかな音を立てて流れる川の畔 を、仄かな光を放ちながら蛍がゆらゆら舞い踊る。普段はこれを眺めているだけだが、凛一郎は今宵はこれを捕まえて持ち帰るつもりでいた。
「家にいながら蛍を見られたら、素晴らしいと思わないか?」
凛一郎が言うと、螢はきょとんと首を傾げる。
「おれはいつも家にいるぞ?」
「えっ、あっいや、君のことを言ったんじゃないんだ。つまりこの、ぴかぴかしながら飛んでいる虫のことを言ったんであって――」
凛一郎が慌てて取り繕うと、螢は可笑しげにくすくす笑った。
「わかってる。ちょっと揶揄っただけだ」
「なっ……人が悪いぞ」
「しかし虫捕りか。ここ最近、そういう遊びとは縁がなかった」
二人は早速蛍を捕まえ、凛一郎の持ってきたガラス瓶に詰め込んだ。十匹ほど集めたところで、容器はいっぱいになってしまった。息をするように明滅する黄緑色の淡い光が、瓶の中で乱反射して眩く輝く。
「こいつらはなぜ光るんだろう」
「本で読んだ話では、交尾の相手を探すために光っているらしい。短い寿命の間に効率よく相手を見つけて、子孫を残しやすくするためだそうだ」
「じゃあ、今がちょうど青春真っ只中というわけか」
螢はガラス瓶を持ち上げて、上下左右からじっくりと観察した。蛍の光が螢の顔を朧気に照らし出す。
「そろそろ帰ろうか。夕食ができているはずだ」
「うん……」
螢は曖昧な返事をして、まだガラス瓶を覗き込んでいる。
「これ、持ち帰ってどうするんだ?」
「蚊帳の中にでも放ったらさぞ美しいだろうな。どうせならもっとたくさん捕まえたかったが」
「……」
すると螢は言いにくそうに口をもぐもぐさせる。
「……可哀想じゃないか?」
「蛍がか?」
「ああ。だって、短い生涯なんだろ。蚊帳の中に放ったらさぞかし綺麗だろうが……その後すぐにこいつらは死んで、交尾もできず、子孫も残せないんだ」
螢は気の毒がって眉を寄せた。
「……君は優しいな」
「……男なのに女みたいなことを、と思わないか?」
「思うものか。君のその優しさは美徳だ。俺は考えも及ばなかった。蛍の寿命が短いことを前々から知っていたのに」
凛一郎は瓶の蓋を開けた。蛍は一斉に舞い上がった。二人の上空を自由に飛び交い、やがて夜の闇へと溶けていった。
「……行ってしまったな」
少々惜しかったと思っているのか、螢がぽつんと呟いた。
「来年また会えるさ」
「今逃がしたやつらの子供が?」
「ああ、そうやって命は続いていくんだ。さ、帰ろう。きっとキヨが心配してる」
凛一郎は螢の肩を抱いて言った。帰ると夕食の支度はすっかり済んでいて、遅くなったことを叱られた。
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