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3 秘密

 最近めっきり寒くなった。木枯らしが雨戸を叩いて眠れない。しかし明日も学校がある。早く寝なければ。凛一郎は布団の中で寝返りを打った。    やはり眠れない。隣の座敷にいる螢は今頃どうしているだろう。もう寝てしまっただろうか。まだ起きているだろうか。気になってますます目が冴える。そういえば、寝る前にちゃんとおやすみを言っただろうか。言った気がするが、言っていないかもしれない。言っていたとしても、もう一度くらい言っておいても罰は当たるまい。    凛一郎はのそりと布団を抜け出した。せっかく溜めた温もりがもったいないが、螢の顔を見たらすぐにでも眠れる気がした。   「螢、起きているか?」    小声で話しかけるも、返事がない。寝ているのだろうと思い、凛一郎は静かに襖を開けた。   「……いない」    布団は敷いてあり、灯りも消えているが、螢の姿はない。厠に起きたのかと思い行ってみるが、やはりいない。厠にいないとすれば勝手場だろうか。腹が減ったとか喉が渇いたとか。しかしやはりいなかった。それから屋敷を一周してみたが、人のいる気配すらもしなかった。    妙な胸騒ぎを覚えた。螢がどこかへ消えてしまったのではないかと不安になった。まだ見ていないのは父の寝室と書斎だけだ。ここは普段から立ち入るなと言われているからなんだか恐ろしい。しかし確認しないわけにもいくまい。螢がいなくなったとしたら大事だ。凛一郎は灯りを吹き消し、忍び足で渡り廊下を渡った。    暗がりに目が慣れてきた。遠くの方に微かな灯りが見える。障子戸の隙間から漏れているらしかった。あの一番奥の部屋は父の寝室だ。庭がちょうど綺麗に見える、客間の次に景観のいい座敷だ。   「っ……」    ふと、何かが聞こえた気がした。一体何の音だろう。凛一郎は耳をそばだてる。虫の声だろうか。いや、この時節に虫は鳴かない。では、梟や夜鷹といった鳥の鳴き声だろうか。いや、そんな風には聞こえなかった。どちらかといえば獣の声だ。手負いの獣の呻き声に似ていた。   「っ……ぅ……」    また聞こえた。今度は確かに聞こえた。父の寝室からだ。ひどく胸が騒いだ。    凛一郎は意を決して、そろそろと障子を開けた。息を殺し、恐る恐る目を開いて、部屋の様子を覗き見た。    その後のことを、凛一郎ははっきりとは覚えていない。思い出したくない。自分の寝室へと逃げ帰り、布団を被って震えていたら、いつの間にか朝になっていた。    いつも通り、三人で朝食をとった。父は普段通り全くの無言で、螢はいささか疲れているように見えた。凛一郎自身も、寝不足のためかやつれて見えた。食事を終えたら父は仕事へ、凛一郎も学校へと出かける。螢は後片付けを手伝っているらしかった。    昨晩のことは、眠れない夜に見た悪い夢だったのかもしれない。父も螢も、あまりにも普段通りだった。そう思いつつも授業中ずっとぼんやりしてしまい、先生に四度叱られた。    家へ帰ると螢は庭を掃いていて、おかえりと言って凛一郎を迎えた。しかし凛一郎はその顔を直視できなかった。ただいまと言ったか言わぬか、目を逸らしたままそそくさと座敷へ上がった。    その晩も、凛一郎はなかなか寝付かれなかった。螢のことが気になって目が冴える。耳をそばだてて様子を窺う。しかし幸いにも、今晩は螢が寝室を抜け出してどこかへ行くことはなかった。なんだ、やはり昨夜のあれは悪い夢だったのか……    と安心したのも束の間。翌々晩の夜半頃、やはり凛一郎が眠れずにいると、隣の座敷で微かに音がする。螢がまた寝室を抜け出して、息を潜めて廊下を歩き、どこかへ行ってしまったのだった。厠にしては長すぎる。いつまで待っても帰ってこない。きっとまた、父の寝室へ行っているに違いない。    恐ろしい。ぞっとした。吐き気がする。気味が悪い。寒さのせいだけでなく体が震える。もう一度渡り廊下の向こうへ行って何が行われているか確認してもよかったが、凛一郎にはとてもそんなことはできなかった。もう二度と、あの光景を目の当たりにしたくなかった。ただただ布団の中で膝を抱えて、小さく小さく蹲っていることしかできなかった。    螢は、三、四日に一度の頻度で父の元へ通っているらしかった。こんなことを知りたくはなかったが、事実なのだから仕方ない。そしてそれ以外では二人とも全く今まで通り、父はほとんど無口で、螢は相変わらず凛一郎に親しんだ。けれど、あんなに好きだったはずの螢の笑顔が偽物の能面のようにしか思えず、凛一郎は螢をぞんざいに扱って遠ざけた。    そんなある日。学校から帰ると、螢が玄関先を掃除していた。凛一郎はその存在を無視して通り過ぎたが、呼び止められた。   「おかえり、凛一郎」    それでもなお無視して玄関を上がろうとすると、今度は鞄を掴んで引き止められる。   「待ってくれ。話を聞いてくれ、凛一郎。お前、どうして最近こんな……」    凛一郎は頑なに螢と目を合わせない。見たくないし、見られなかった。顔を背けて仏頂面で、歯を軋ませる。   「お、おれが、何かしたのか? それで怒っているのか? だ、だったら謝る。お前の気に障るようなことをしたなら、謝るから」 「……謝る……?」 「あ、ああ。いくらでも謝るから、許してほしい。また前みたいに、一緒に遊んだり勉強したりしたいんだ。お前にまでこんな風にされたら、おれはもう……」    螢は凛一郎の袖を握った。あの夜、布団の上で悶えていた時と同じように。敷布に縋り付いて啼いていたあの夜と同じ、ほっそりとした白い手。ぞっと背筋が冷えた。   「触るな! 穢らわしい!」    反射的に、凛一郎は螢の手を振り払っていた。螢はひどく驚いた、そして傷付いたような面持ちで、呆然と立ち尽くした。   「俺は見たんだ。……お前と父上の、道ならぬ関係を!」    螢ははっとした。みるみる血の気が引いていく。   「ち、違う、あれは……」 「黙れ! どうせお前が誑かしたんだろう。父上は立派な方だ! 尊敬していたのに……!」    弱々しく震える声を、凛一郎は容赦なく掻き消した。   「話は終わりだ。金輪際お前と口を利く気はないし、顔も合わせたくない」 「い、いやだ……」 「お前の意見は聞いてない。年長者の言うことには黙って従えと習わなかったのか」 「ち、ちがう、おれは……は、話を聞いてくれ、凛一郎……」    もう話すことは何もないと言っているのにいつまでもしつこく纏わり付かれ、いよいよ頭にきた。臓腑の煮える心地がする。   「うるさいぞ! 俺の名前を気安く呼ぶな!」    そう叫んで、思い切り突き飛ばした。螢は力なくよろけ、尻餅をついた。   「今度は俺に取り入る気か? 目的は何だ。父上の財産か? 今まで一体何人の男に色目を使ってきた。ずっとそうやって生活してきたんだろう」 「ち、が……」    螢は声を詰まらせ、俯いた。光るものが零れた。そして観念したようにゆっくり立ち上がると、箒を手に門の方へふらふらと歩いていった。    それから、宣言通り螢とは一言も言葉を交わしていない。    *    年が明け、寒さは日増しに厳しい。空は厚い雲に覆われ、ひとひらの雪が灰のように舞っている。    初雪の降った日、螢が橋から身を投げた。後から聞いた話では、川沿いの住人が引き揚げてくれ、戸板に乗せられて運ばれてきたらしい。キヨが動転した様子で学校まで呼びに来て、凛一郎はそのまま早退となった。    キヨに荷物を預け、凛一郎は帰路を駆けた。雪のちらつく中、脇目も振らず息せき切って走り抜けた。下駄が邪魔になり、脱ぎ捨てた。屋敷までの坂道を駆け上り、足を拭く間も惜しくそのまま家に上がった。   「螢!」    勢いよく襖を開ける。螢は座敷の中央に寝かされていた。枕元に座るお医者様が、凛一郎を見て静かにするよう言った。   「あ、あの、螢は……?」 「大丈夫。一命は取り留めました」    その言葉を聞いて、ふっと力が抜けた。ふらふらとその場に座り込む。   「よかった……」 「ただし油断は禁物です。体が冷え切っていますから、肺炎にでも罹ったら厄介だ」    医者の言った通り、螢は夕方から酷い熱を出した。    夜を徹しての看病は、凛一郎が買って出た。額が焼石のように熱く、冷水で濡らした布を当ててもたちまち蒸発してしまって意味を成さない。水を張ったたらいを傍に置いておいて、何度も布を取り替えた。とにかく体を暖めるようにと医師が言っていたので、布団に行火を入れ、火鉢を焚き、滲み出る汗をこまめに拭いた。    螢は一晩中(うな)され続けた。熱は一向に下がらず、息もつけないほどの猛烈な咳が止まない。朦朧とする意識の中で、必死に誰かを呼んでいるようだった。深夜にキヨが来て、そっと夜食を置いていった。   「――坊ちゃん、坊ちゃん起きてください」    ほんの少しうとうとしている間に、長い夜が明けていた。雨戸の隙間から陽の光が漏れている。   「おやまぁ、幾分落ち着かれましたね」    眠っている螢を見てキヨが言う。   「峠は越したのでございましょう。坊ちゃんもお休みになってください」    後はキヨに任せ、凛一郎は仮眠をとってから学校へ行った。    朝は晴れていたのに、だんだんと雲行きが怪しくなってくる。灰色の厚い雲に覆われた空を見ていると何となく気が急いて、授業が終わるなり教室を飛び出した。坂道を駆け上り、真っ先に螢の寝室へと赴く。螢はちょうど起きて、キヨに白湯を飲ませてもらっているところだった。   「お帰りなさいませ、坊ちゃん」 「あ、ああ……ただいま」    キヨには席を外してもらって、二人にしてもらった。螢は布団に座ったまま、僅かに俯いてじっと黙っている。火鉢の中で赤い炎が炭を舐める。炭火の熾る音がパチパチと響く。   「「あの……」」    二人の声が重なった。凛一郎は気まずい気分になったが、螢はくすりと笑った。   「おかえり、凛一郎」 「……ただいま」 「たった今、お医者様がいらしたんだ。よく診てくださった」    帰り道ですれ違ったから知っている。   「お前の話をしたよ。夜通し付きっきりで看病してくれたと言ったら、感心なさっていた。それから、お前にいいものを頂いたんだ」    螢は衿元から小さな容れ物を取り出し、凛一郎に手渡した。   「……これは」 「ひびやあかぎれに効く軟膏だ。一晩中手拭いを絞っていたから、お前の手、酷く荒れているだろ。これを塗れば早く治るそうだ」    螢は初めて凛一郎を見つめ、微笑んだ。熱に浮かされたような――実際、熱はまだ高いのだろう――とろんとした目をしていた。   「ずっと傍にいてくれて、ありがとう」 「……っ」    凛一郎は感極まった。胸が張り裂けそうになって、熱いものが込み上げてくる。歯を食い縛って堪え、咄嗟に俯いて拳を握りしめた。   「……君は……どうして……」    震えながら声を絞り出した。   「俺は君に……あんなにも酷いことを言ったのに……」    ついに涙腺が決壊し、大粒の涙がぼろぼろ零れた。ぼたぼた垂れて手の甲が濡れる。勝手に溢れて止まらない。みっともなく嗚咽する。   「理不尽に君を傷付けておいて、俺は……」    あの日、螢が川へ身を投げたと聞いて、真っ先に覚えたのは恐怖だった。螢を永遠に喪うかもしれないという恐怖。二度とその声を聞くことはできず、その瞳は永遠に光を宿さない。冷たく横たわる螢の体を思い浮かべたら恐ろしくて堪らなくなって、生きた心地がしなかった。あんな思いは二度とごめんだ。   「すまない……すまなかった。俺はとんでもない愚か者だ。身勝手でどうしようもない男だ。許してくれ、螢。喪いかけて初めて、君の大切さに気づくなんて……」 「凛一郎……」 「でも君は無事でいてくれた。生きていてくれた。それだけで俺は救われた。本当にありがとう……」    優しく慰めるように、螢は凛一郎の背中を撫でる。その手付きはまるで、今は亡き母を彷彿とさせるもので。胸が温かくなり、心が穏やかに凪いでいく。   「……君はどこまでも優しいな」 「お前の方こそ。この手がその証だ」    あかぎれだらけの凛一郎の手を取って螢は言う。   「お前が夜通し付いていてくれて、おれはどれだけ心強かったか」 「……傍にいたかったんだ」 「お前の手は冷たくて、触れたところから熱の引いていく心地がした。お前がまたおれに触れてくれて、傍にいてくれて、本当に嬉しかった。お前とはもう二度と口を利けないものと思っていたから……」 「それは……本当にすまなかった。酷いことを言った」 「いや、いいんだ。あれは当たり前の反応だ。お前もさぞかし傷付いただろう。正直、もっと恨まれて憎まれても仕方がない。それくらい、おれの抱えていた秘密は大きかった」    火鉢の炭が爆ぜ跳び、真っ赤な火の粉が舞い上がる。   「昔の話をしよう」    *    螢は上州のとある農村で生まれ、両親と祖母と四人で慎ましく暮らしていた。村は比較的豊かで、螢も小学校へと通わせてもらった。しかし五年生に上がった年、両親が相次いで病に倒れた。こうなっては学校なんか通っている場合ではない。螢はすぐさま奉公へ出ることになった。似たような境遇の子供は村にたくさんいた。    年季が明けて村へ戻っても、すぐにまた奉公に出る。祖母も出稼ぎや内職などをして家計を支えていたが、無理が祟ったのか急に亡くなってしまった。たった一人の肉親の死を、螢は遅れて知らされた。村へ帰ると葬儀は終わっていて、見知らぬ男が螢を待っていた。   「君の後見人という方だ。東京からいらした偉いお方だよ。失礼のないようにね」    村長にそう教えられ、男を泊めることになった。藁葺き屋根のみすぼらしい家だ。春先だというのにひんやりとして薄暗く、だだっ広いばかりで寒々しい。祖母と最後に囲炉裏を囲んだのはいつだったか。こんなことになるなら、もっと頻繁に手紙を書けばよかった。   「あの……東京のお方? うちなんかより、村長さんのお宅の方がいいんじゃありませんか。木綿の立派なお布団があるって話ですよ」 「いや、ここでいい」 「はぁ、そうですか」    寡黙な男だ。何を考えているのかわからない。何のためにここへ来たのかもわからない。ただ東京の偉い人というのは本当らしく、この辺りでは珍しい西洋風の装いをしていた。この村ではまずお目にかかれない。近隣の町でも滅多に見ない。立派なコートに身を包み、蝶ネクタイを締め、ハットを被りステッキまで持っていた。   「……おけいさんとは古い知り合いでね」    ふと、男が口を開いた。   「祖母を知っているんですか」 「ああ。嫁に行く前、うちで女中として働いていたんだ」    徳川の代も終わりに差し掛かろうという頃だ。男はしがない地方藩士の家に生まれた。   「おけいさんはいつでも優しく、美しく、聡明で、働き者で、非の打ち所がない素晴らしい女性だったよ。幼少期からずっと、私の憧れの存在だった。ある時、私は彼女に、夫婦(めおと)になってほしいと申し込んだ。子供の戯言だと誰もが思ったろうが、私は本気だった。本気で、おけいさんを娶るつもりだった」    しかし、そんな結婚が罷り通るわけもない。   「それから一年もしないうちに、彼女は嫁に行ってしまった。国へ帰って、男の子を産んだと聞いた。それからすぐに御一新があり、戦が始まって……気づいたらこの歳だ」    亡くなった祖母と然程変わらない年齢なのだろうが、祖母より随分若く見えた。威厳たっぷりに蓄えた髭のせいかもしれない。   「先日、おけいさんから手紙が届いた。三十、いや、四十年ぶりの手紙だ。君のことをよろしく頼むと書かれていた」 「……おれを?」 「きっと死期を悟っていたのだろう。後に一人残される君を不憫に思って、この私に託されたのだ。今日から君は、うちの子になるんだよ」    あまりに突拍子もないことを言われ、螢は開いた口が塞がらなかった。   「……でもおれ、貴方を知りません。今初めて会ったばかりだし……」 「私は知っている。君は、あの頃のあの人に瓜二つだ」    男が螢の頬に触れる。触れられたところから肌が粟立つ。何か嫌な感じがした。   「あ、の、おれ……」 「もっとよく見せてくれ…………ああ、本当に美しい顔をしている」    顔を背けようとしたが、顎に手を添えて無理やり正面を向かせられた。男は舐めるように螢を見つめる。その視線も、何か嫌な感じがした。具体的に何なのかはわからないが、とにかく嫌な感じがする。蛇に睨まれた蛙のような気分だ。   「も、もういいでしょ。離れてください――」    男の手をやんわり外すも、今度は腕をがっしり掴まれる。そしてそのまま、崩れるようにして床に押し倒された。高い天井と太い梁が見え、螢の視界を隠すように男が覆い被さってきた。   「本当に美しい……おけいさん」    男はうっとりと呟く。螢は戦慄した。   「ち、ちがう……」 「いいや、貴女は貴女だ。あの頃のまま、若くて美しい……」    否応なしに、男の顔が迫ってくる。逃げ場はない。床板は酷く硬く、冷たかった。    *    女を知る前に、男の味を覚えてしまった。螢はそう言って、諦めたように笑った。凛一郎は何も言えなかった。   「幻滅したか」 「ああ……」 「そうか」    螢は切なげに微笑む。   「そうだろうな。男なら誰だって、女には貞淑であってほしいと願うものだ」 「……何を勘違いしているんだ? 俺が言ったのは父上のことだ。わざわざ遠い田舎まで出向いて、そんなことをしていたとは……しかも、半世紀も前の初恋をいまだに引き摺っているなんて……」    心底気持ちが悪い。息子と歳の変わらない子供相手に欲情して無理やり手籠めにするなんて、気持ち悪い以外に言葉がない。螢に彼の祖母の面影を重ねているというのも、気持ち悪さに拍車を掛けている。    ただ、なぜか妙に納得してしまう。凛一郎が生まれた時からずっと、父は母に対する愛情をこれっぽっちも持っていなかった。そして、自分もまた父から愛されていないということを、凛一郎は子供ながらに肌で感じ取っていた。それらは全て、初恋相手を忘れられずにいたためだったのだ。   「……長らく病に臥せっていた母上がいよいよ危篤となった時、再三電報を打ったにも関わらず父は帰ってこなかった。……仕事で渡米していたんだ。だから仕方ないと、父上を恨んではならぬと、母上は仰った。だから俺は、その言葉をずっとずっと守ってきた」    しかし昨日、螢が川に入った時、電報を受け取ってすぐに父は帰ってきた。血相を変えて、螢の容態を凛一郎に尋ねた。アメリカに渡っていたわけではないから純粋には比較できないが、それにしたって、その愛情をほんの少しでも母上に分けて差し上げることはできなかったのか。   「そんなことが……」 「父は余程、君の祖母君を愛していたのだろうな」 「……すまない」 「君が謝ることじゃないだろう。というか、謝るのは俺の方だ。父が酷いことをした」 「それこそお前の謝ることじゃない。抵抗できなかったおれも悪いのだし」 「抵抗なんてできるものか。俺だって、あの父に睨まれたら竦み上がってしまうのに」    お互い謝り合って、笑い合った。張り詰めた空気が緩んだ気がした。  喋りすぎて喉が渇いた。火鉢で湯を沸かし、お茶を淹れた。螢は湯呑を両手で持ち、ふーふーと冷ましながら飲んだ。   「しかし、俺が一番腹を立てているのはそんなことじゃないんだ」    凛一郎が言うと、まだ何かあるのか? とでも言いたげに、螢は首を傾げる。   「父は結局、君を祖母君の代わりにしているだけだ」 「当たり前だろ。元々身代わりとして連れてこられたんだから」 「それが許せない。螢は螢であって、他の誰でもないのに」 「そんなこと――」 「ある。君は唯一無二の存在だ。他の誰にも代わりは務まらない。君の代わりなんてどこにもいない。今回のことでよくわかったんだ。君は俺にとってかけがえのない存在だ」    つい、台詞に熱が籠ってしまった。螢は驚いて目を丸くしている。凛一郎は深呼吸をして、逸る心を落ち着かせた。   「……俺のものにならないか」    時が止まったように思えた。心臓が早鐘を打ち、爆発しそうだ。螢は目を見開いたまま固まっている。   「俺のものになれ、螢。父よりも君を愛している自信がある。父よりも君を幸せにしてみせよう。俺のものになってくれ」    螢は小さく息を呑んだ。   「だが、おれは既に……」 「そんなこと気にならない。君がいいんだ。愛している」    細い手を取り、口づけた。螢は真っ赤になって手を引っ込める。   「ななっ、なんだ今のは!」 「したかったからした。いけなかったか?」 「い、いけないとか、そういうんじゃなく……恥ずかしいだろ……」    螢は頬を赤らめたまま俯いた。   「きゅ、急にどうしたんだ。今まで全然、そんな素振りなかったのに……」 「善は急げというだろう。自分の気持ちに気づいたから、君にいち早く伝えたかった。君の思いも聞かせてくれ」 「そ、そんなの、おれだって……」    螢は俯いたまま呟く。長い睫毛が蝶のように瞬く。夕焼けに染められたみたいに、頬が紅潮する。   「……好き、だ……」    透き通った空気が微かに震えた。考える余裕もなく、凛一郎は螢の肩を掴んで抱き寄せ、口づけをした。衝動的な接吻。そして初めての接吻。ふんわりと甘く、柔らかく、これが螢の唇なのだと知った。   「凛一郎……」 「螢……好きだ」    そのまま、思わず押し倒しそうになったが――   「坊ちゃん、お夕飯の支度ができましたよ」    障子の向こうでキヨが呼ぶ。二人とも息を詰めた。   「坊ちゃん? 聞こえてらっしゃいます?」 「あ、ああ。今行く」 「螢さんも、食べられるようでしたらお雑炊をお持ちいたしますよ」 「……は、はい。いただきます」    押し倒さずに済んだ。

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