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5 結末

 仕事で大阪に行っていた父から、明朝帰京すると電報が入った。螢を新橋の駅まで迎えに寄越すようにと書いてあった。馬車の手配等は気にしなくていいから、とりあえず身一つで来るように、人前に出て恥ずかしくない格好で来るようにとも書かれていた。   「なぜわざわざ迎えなんて……」    螢は浮かない顔で身支度をする。   「近所にある駅じゃ駄目なのだろうか。新橋なんて、行ったことがない……。凛一郎は一緒に来られないのか?」 「俺には来るなと書いてある」 「そうか……」    玄関まで出ても、いまだ不安そうな顔をして溜め息を吐く。凛一郎は螢の頭を優しく撫でて励ました。   「そう心配するな。大丈夫だ。道に迷ったら人に尋ねればいい」 「……それは、そうだが……」 「時間帯を考えれば、帰りはどこかへ寄り道をして、美味いものでも食わせてもらえるかもしれないぞ」 「……天麩羅とか?」 「そうだな、天麩羅蕎麦の特上とかな。ほら、そろそろ遅れるから」    やはり浮かない様子の螢の背中を押して、凛一郎は見送った。本音を言えば送り出したくはなかった。二人で過ごす貴重な時間を邪魔されたと感じた。とはいえ、昼過ぎには帰ってくるだろうと踏んでいた。    しかし、そうして待っている間にすっかり日が暮れてしまった。凛一郎は広い屋敷に一人きり、石油ランプの灯りだけを頼りに螢の帰りを待った。キヨは、出産と葬式が重なった親戚の家へ手伝いに行っているため不在だ。    夜が更けても一向に帰ってくる気配がない。もしかすると、今夜はもう帰らないのかもしれない。どこかへ泊まってくるのかもしれない。だったらいつまでも待っていても仕方がない。そろそろ休もうかと思い、布団を敷いた。その時である。    荒々しく玄関が開いた。何かがぶつかる激しい音と、微かな悲鳴と、癇癪を起こしたかのような怒鳴り声、罵声が聞こえてくる。凛一郎は慌てて玄関の方へ走っていき、その光景に目を疑った。   「――ち、父上!? な、何をなさっているんですか……!?」    土足のままで、螢が踏み付けにされていた。父は凛一郎には目もくれない。聞く耳も持たない。何に激昂しているのだろう。物凄い剣幕で、何度も何度も激しく螢を踏み付ける。螢は身を縮めて苦しそうに呻く。   「やめてください! どうしてこんな酷いことを……?!」    凛一郎は父の足元にしゃがんで、螢を庇うように抱きしめた。それが父の逆鱗に触れたらしかった。突然首根っこを掴まれて、思い切り放り投げられた。ひゅっ、と風を切る音が耳元に聞こえる。襖をぶち破り、腰と後頭部を強かに打った。   「貴様、誰に向かって口を利いている?」    地を這うような恐ろしい声に背筋が凍り付く。ゆらりと揺れる黒い影は、さながら羆だ。一体、何をそんなに怒っているのだろう。   「ま、待ってください。父上、落ち着いて――」    父は、やはり全く聞く耳を持たない。荒々しく胸倉を掴まれ、拳で左頬を殴られた。次いで、裏拳で右頬を打たれる。繰り返し、硬い拳が往復する。頭骨内で脳味噌がぐらぐら揺れる。鼓膜が破れそうだ。鋭い衝撃が全身に響く。こうやって父に殴られるのは、いつぶりのことだろうか。    そうだ、確かあれは、母が亡くなってすぐのことだ。たぶん寂しかったのだろう。誰かに甘えたかった。しかしそんな凛一郎を鬱陶しがって、父は何度か手を上げた。それ以来、父を怒らせるようなことはしないよう努めてきた。   「貴様如きが……! 父親を越えられる息子など、居ってはならんのだ!」    頬が腫れて痛い。米神が痛い。口の中が切れて血の味が滲む。瞼も切れている気がする。   「やはり産ませるべきではなかった……! あの時、無理矢理にでも堕胎させておれば……!」    興奮して息が上がり、目が血走っている。抜き身の刃のような剥き出しの敵意に晒されるのは初めてだった。泣けばいいのか怒ればいいのか許しを請えばいいのか、そもそもなぜこんなことになっているのかわからない。顔面が、全身が、とにかく痛い。   「やめ……やめて……凛一郎を殴らないで……」 「やかましい! 貴様は黙っていろ!」    恐怖に震えながらも凛一郎を庇おうとする螢を、父は乱暴に突き飛ばした。父の害意は凛一郎から螢に移る。凛一郎を床に叩き付けて、螢の元へぬらぬらと歩いていく。   「貴様……! 貴様が悪いのだ! あの人とは似ても似つかぬ……あの人なら、私を裏切るようなことはしなかった!」 「ぅ……ご、ごめん、なさい……ごめんなさい……」 「なぜ私を裏切った……? 散々可愛がってやっただろう。この恩知らずめが……!」    体をくの字に曲げて苦しそうに呻きながら謝罪を口にする螢に圧し掛かり、細い首に手をかける。   「許せん……死んで詫びるがいい」 「父上!」 「騒ぐな! 貴様はそこで黙って見ていろ」    凛一郎の叫びも一蹴された。そして、何を思ったのか父は螢を四つ這いにさせ、あろうことかその着物の裾を捲り上げた。褌を着けていない白い尻が露わになる。嫌な予感がした。物凄く、嫌な。背中を冷たい汗が伝う。口が渇く。胸が騒ぐ。逃げ出したい。   「動くな」    こちらの様子は見ていないはずなのに、太い声で怒鳴られた。凛一郎は筋肉が硬直したように動けなくなる。   「そこで指を咥えて見ていろ。此奴が誰のものであるか、貴様に分からせてやる」    と言うなり、何の準備もしないでその剛直を突き挿れた。赤い血が、つうと太腿を伝う。白濁した粘液が、中から押し出されて溢れ出る。既に数え切れないほど犯されていたのだろう。混ざり合って桃色になった液体が、どろりと垂れて畳を汚す。   「ぅ゛……ん゛……っ」    螢は自身の指を噛んで耐えている。きつく目を瞑り、眉を寄せて耐えている。見ていられない。凛一郎は唇を噛みしめ、顔を背けた。途端に怒号が飛んでくる。   「見ていろと言っただろう! 目を逸らすことは決して許さん」    本当に情けない。空気だけで圧迫されて動けない。愛情のない非道な行為を、ただ指を咥えて眺めているばかり。   「もっとよう見んか! 此奴が今どんな顔をしているか、目に焼き付けておけ」    螢の髪を掴んで、強引に顔を上げさせた。酷い有様だ。あちこち殴られて赤く腫れ上がり、黒い血がこびり付いている。螢は身を捩って逃れようとする。   「い、やだ……ゆるして……ごめん、なさい……ごめんなさい……っ」 「許せるわけがなかろう。裏切った貴様が悪いのだ。恥を知れ」 「ゃ゛……は、ぁ゛……ん゛、くっ……ぅ、う」    どうしても口が開いてしまうらしく、声が漏れる。心底苦しそうな呻き声。聞いていられない。耳を塞ぎたい。   「よく見ておけ、凛一郎。これが誰のものであるか、鈍い貴様にも分かるだろう」    よく見たところで、痛ましいばかり。螢が可哀想だ。これ以上傷付けないでくれ。酷いことをしないでくれ。螢を解放してくれ。   「お前もだぞ、螢。お前は私のものだ。お前がどう望もうと、お前は永久に私のものなのだぞ。勝手にどこかへ行こうとするな。次はないからな」    気味の悪い猫撫で声で囁く。螢の顎を掴んで引き寄せ、強引に口を吸った。粘度の高い唾液が、螢の口から零れ落ちる。   「分からせてやるのだ。あそこで阿呆のように呆けておる彼奴に、私とお前がどれほど深いところで強く繋がっているかということを……」 「っ……ぅ……」    螢の虚ろな瞳が凛一郎を映す。途端、大粒の涙が堰を切ったようにぼろぼろ溢れた。血に塗れた頬が、さらに涙で濡れていく。螢は涙を散らしながらかぶりを振り、手足をバタつかせ、男から逃れようと必死に藻掻く。   「やっ……やだっ……みないで……みないでっ……っ」 「どうした、急に暴れるな。大人しくしておれ」 「やだっ、やっ、みるな……っ、みないでくれ、りんいちろ――」    名前を口にしたのがよくなかった。男は突然逆上する。額に青筋を浮かべて、螢の髪を乱暴に鷲掴みにすると、顔面を思い切り床に叩き付けた。ひっ、と思わず凛一郎の方が悲鳴を上げてしまう。潮のように鼻血が噴き出す。それなのに、何度も容赦なく叩き付ける。畳が、座布団が、生々しい血の色に染まってゆく。   「や……め……」    どうしたらいい。このままでは螢が殺される――。  凛一郎は弾丸のように飛び出した。床の間に飾ってある日本刀を手に掴む。白刃が稲妻のように閃いた。        男は血塗れになって床に突っ伏している。心臓を一突きに貫かれ、事切れている。そしてその隣、自らの流した血と男の返り血に塗れた少年が二人、息を荒くして重なり合っている。血のにおいと精のにおいが充満して鼻が曲がりそうだ。手を伸ばせば掌が血に染まり、口を吸えば血の味がする。   「んっ……」 「……痛いか?」 「は、……だいじょうぶ、だ……もっと、強く……」    手足を絡ませて、きつく抱きしめ合う。血液が迸り、全身に巡り漲る。火照った体がますます熱い。生を実感する。今ここに二人、確かに生きている。   「螢……もう二度と、誰にも、お前を傷付けさせたりしない。誰にも手出しはさせない。これから先、ずっと……」 「凛一郎……」 「俺についてこい。ついてきてくれ、螢」    唇を重ね、夢中で舌を絡めた。唾液をたっぷり纏わせて抜き挿しすると、蕩けた粘膜がねっとりと吸い付いてきて離さない。局部が密着し、汗や諸々の体液でぬるぬる滑る。凛一郎は激しく腰を使う。激しく突いて、中を掻き回して、押し込むように奥を擦って、軽く引き抜いては浅瀬を擦って、また深く突き挿れて。    螢は豊かな黒髪を振り乱して身悶え、腰をくねらせる。陰肉が小刻みに痙攣し、喘ぎ声までもが細く震えて――二人は同時に果てた。    夜のうちに、血痕は全て消し去った。冷たくなった男の体は、手足を結わえて二人がかりで運び出し、裏の竹林の古い井戸へと放り込んだ。深く深く落ちて、微かに水の跳ねる音が反響した。        *    東京を遠く離れた西国の港町。藤棚の下で、幼い少女はある男を見た。男にしては長い黒髪、儚げな眼差し、粗末な着物を纏い、誰かを待っている様子だった。その相手はすぐにやってきた。彼よりも背が高く、男らしい雰囲気で、しかしやはり粗末な着物を着ていた。二人で縁台に腰掛けて、何やらぼそぼそと喋り始める。   「……キヨには気の毒だったな。今頃どうしているのやら」 「親戚の元へでも身を寄せているんじゃないか。ほら、あの時……」 「ああ、赤ん坊は無事生まれたのだろうか」 「それより、今朝の新聞……お前、読んだか?」 「ああ……いまだに……ないらしいな」    後から来た男はふと顔を上げ、咲き乱れる藤の花を見上げた。風にそよいで甘い匂いが香り、誘われてやってきた蜜蜂が飛び交う。   「美しい花だ」 「今が盛りだろ」 「君に似合う」 「……すぐに散る花が?」 「そう捻くれた考え方をするな。だってほら、無条件に美しいじゃないか。まさに君そのものだ」    一片の花びらがひらりと舞い落ち、男の黒髪を飾った。   「ふふ、思った通り、似合ってるぞ」 「お前な……恥ずかしいことばかり言うのはよせ」 「俺は思ったことしか言わない」    男は花びらを手に取ると軽く口づけ、ふうと吹いて飛ばした。ひらひらと舞って、どこかへと行ってしまう。   「甘いな。君の唇と同じだ」 「……」 「すまない。怒ったか?」 「怒ってはないが……そういうのは外では控えろといつも……」 「……螢」    凛々しい方の男が、儚げな雰囲気の男の腰に手を回し、抱き寄せる。顔を近付けて何かをしようとしたが、   「おい待て。子供が見てる……」    少女の存在に気付いたらしかった。男が振り向いて、凛々しい眉を下げてにっこり笑うので、ここにいては何かまずいのだろうかと思い、少女は足早にその場を去った。

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