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第1話

 プロローグ  芹澤(せりざわ)碧人(あおと)にとって重要な一日が始まろうとしていた、その日――。  星野(ほしの)動物病院に来た最後の飼い主(オーナー)はチワワを抱いた美魔女だった。 「朝からペコちゃんの様子がおかしくって……何か変なものでも食べたのかしら。先生、診てくださる?」  巻き毛のマダムは胸の谷間を強調させながら、抱いているチワワを診察台の上に乗せた。  心配そうな表情のわりには髪形や服装に乱れがなく、メイクも完璧に決まっている。嵌められた時計と指輪も服のデザインに合っていた。慌てて出てきたわけではないだろう。  ――全く。  獣医師一年目の芹澤碧人は患畜の体を保定しながら心の中で溜息をついた。  このマダムが星野動物病院へ来るのは今月でもう五度目だ。その内容は病気や事故、通常の健診ではなく、マダムが訴える小さな違和感のみだった。ペコちゃんと呼ばれた雌のチワワは数年前に避妊手術を終えており、慢性疾患やガンなどの治療中でもない。至って健康なワンちゃんだ。  来院の目的は診察ではなく、院長の星野に会うためだろう。  星野は〝神対応のイケメン三獣(医)師〟とメディアで取り上げられるほどの男前で、女性のオーナーから絶大な人気があった。確かに星野はスタイルのいい二枚目で、獣医としての腕も確かだ。俺だってそんなに悪くないけどな、と思いつつ碧人が顔を上げると、当の星野がマダムに笑顔を向けていた。 「何を食べたのか分かりますか?」 「そうね……ええと、気づいたら電動の玩具がバラバラになっていて、細かいパーツを飲み込んじゃったかもって。入っていた電池も見当たらなくて、とにかく不安で――」 「なるほど。異物や電池を飲み込んでいる可能性が考えられますね。とりあえずレントゲンと血液検査をしましょう」  星野が白い歯を見せると、マダムは潤んだ目で星野を見つめ返した。チワワのペコちゃんよりも瞳がウルウルしている。マダムのそんな様子に呆れつつ碧人が患畜の体を抱き上げると、ペコちゃんが悲しそうな声を上げた。  ――わたし、なにもたべてない! ママはうそをついてる! おうちにかえりたい!  ペコちゃんはキャンキャンと甲高い声で鳴いているが、碧人の耳にはその心の声がはっきりと聞こえた。 「院長、すみません。ペコちゃんは異物誤食をしないタイプだと思いますが。頭のいいワンちゃんですし、噛み癖や異物摂取の既往歴もありませんから」 「オーナー様が心配なさっている」 「え?」 「視診だけで異物摂取を百パーセントしていないとは言い切れない。まずは検査だ」 「……はい。すみませんでした」  確かにそうだろう。院長の判断は正しい。動物の言葉が分からない人間にとって患畜が誤飲や誤食をしていないかどうか確かめるにはエコーやX線、CTなどの画像検査しか方法はない。碧人はペコちゃんに小さい声でごめんねと謝りながら採血のフォローを済ませ、彼女をレントゲン室に連れていった。  碧人には不思議な力があった。幼い頃から動物の話す言葉が自然に理解できた。あまりに自然すぎて聞こえることが当たり前だと思っていたが、それが違うと気づいたのは幼稚園の時だった。  園庭で飼っていたリスが一斉に逃げ出し、皆で追いかけた。けれど、動きが敏捷なシマリスを捕まえられたのは碧人だけで、先生をはじめ他の誰もシマリスを捕獲できなかった。碧人はリスが出す声を頼りに、進路を先回りすることで捕らえられたが、その声が碧人にしか聞こえていないのだと、その時、初めて気づいた。  結果として、碧人の能力を誰も信じず、周囲の大人たちからは腫れもの扱いされたが、碧人の祖母だけがそれを信じてくれた。  人はたくさんのものを同時に持つことはできない。荷物であっても能力であっても、それは同じだ。だからこそ自分が手にしているもののどこに光を当てて生きるか、慎重に考えて行動しなければならない。  祖母はいつも、そう言っていた。  だから碧人が獣医になりたいと言った時、祖母は迷わず応援してくれた。碧人の能力を活かすにはこの仕事が一番だからだ。正しい光の当て方ができたとその時は喜んだ。  だが――。  ペコちゃんは台の上で「かえりたい、もういやだ」と繰り返している。  オーナーの都合で必要のない検査を繰り返されるペコちゃんが不憫で仕方がなかった。こんなふうにストレスを与えることが彼女にとって一番の健康被害なのだ。そう思っても院長の指示を無視するわけにはいかなかった。 「もう終わるからね。ごめんね」  罪悪感が胸を突く。正しいことができない無力感でいっぱいになった。  ――全く、やりきれないな……。  ままならない現実に溜息が洩れる。碧人はペコちゃんをどうにか宥めつつ、ひと通りの処置を済ませた。  その後も残りの業務を続け、全ての仕事を終えた時には午後八時を過ぎていた。看護師たちと協力しながら掃除を済ませ、ロッカーでスクラブから私服に着替える。最後、院長に挨拶を残して病院を出た。 「あ……寒っ……」  十月も半ばを過ぎると夜は寒い。  吹く風に湿った冬の匂いが混じっていた。  碧人はジャケットの前を手で合わせながら歩道へ出た。駅までの道のりを急ぐ。 「なんか疲れたなあ……」  愚痴のような、慰めのような言葉がこぼれる。  ほとんどの社会人一年生と同じように、碧人は憧れを胸に抱いて獣医師の世界に飛び込んだ。  碧人には夢があった。  特定の動物や疾患に限定せず、総合的な治療が行える獣医になること。予防医療や再生医療など、あらゆる診察領域を習得すること。様々な現場をこの目で見て、そして、自分の能力を活かすこと――。  学生時代から積極的に海外へ足を延ばし、地道な勉強と経験を重ねて、一つでも多くの命を救いたいと臨床の現場に飛び込んだが、現実はそう甘くはなかった。 「なんだかなあ……」  空を見上げると小さな星が輝いていた。  動物病院の場合、患畜を診るのはもちろん、飼い主の心に寄り添うことも仕事の一つだ。  オーナーの不安を取り除いてその希望を叶える。選択上、必要のない治療であっても要望があれば行う。病院経営にビジネスの側面がある以上、オーナーに気に入られなければ仕事にならない。それが病院獣医師の現実だった。 「あれ?」  病院の建屋から百メートルほど離れた場所に専用の駐車場があった。そこにさっきのマダムがペコちゃんを抱いて立っている。傍には院長のフェラーリが止まっていた。  院長を待っているのだろうか。  気になって声をかけようと思ったその時、マダムの腕の中からペコちゃんが飛び降りた。いやだいやだと叫びながら道路に向かって走り出す。パニック状態なのか止まる気配がない。 「ペコちゃん!」  マダムの声と自分の声が重なった気がした。  大通りにはたくさんの車が走っている。幹線道路のためバイクやトラックの往来も多い。そこに向かってペコちゃんが一目散に駆け出した。 「危ない!」  碧人は反射的に追いかけてリードの端をつかもうとした。けれど、持ち手には届かず、絡まったリードをつかむのを諦めてハーネスの根元へと手を伸ばす。  ――くそ、あと少し……。  碧人の指先がハーネスの金具に触れた、その時だった。  脇腹に衝撃があり、景色が一転した。  体が宙に浮き、星空が目前に迫ったかと思うと、今度は灰色に染まった。訳が分からない。  すんでのところでペコちゃんが道路の脇に転がっている姿が見えた。  ――よかった。助けられた。  そう安堵した瞬間、空を切るような墜落感に襲われて息ができなくなった。  急激に意識が遠のく。  ――ペコちゃん……。  視界が灰色から真っ黒になった。五感ごと闇に飲まれる。  体が深く沈んでいく感覚があったが、すぐに世界が静寂に包まれ、その違和感もなくなった。  ――ああ……俺……。  碧人の意識はそこでプツリと途切れた。  トラックに撥ね飛ばされた碧人の体は、橋の欄干を越え、十メートル以上離れた川面へ落下したが本人がそれに気づくことはなかった。

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