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第2話

      1  東北にある古い屋敷が見える。  その家の台所で祖母が朝食の準備をしていた。  ――ばあちゃん……。  今はもうその屋敷はない。祖母も去年、病気で亡くなった。  それで夢を見ているのだと分かった。  碧人は幼い頃に車の事故で両親を亡くし、東北に家を構える祖母のもとで育った。  祖母以外に家族はおらず孤独な幼少期を過ごしたが、祖母の家系が由緒ある裕福な一族であったことや、飼っていた秋田犬とイグアナが兄弟のように寄り添ってくれたこともあり、それほど寂しくはなかった。二匹はもちろん田舎の動物たちと普通に会話できる生活も碧人の癒しになっていたのだろう。孤独だと思ったことは一度もなかった。  ――ん?  手と頬に違和感を覚えた。なんだろうと思い、閉じていたまぶたを開ける。  ――あれ?  本来なら、東京の片隅にあるワンルームの白い天井が見えるはずだったが、その景色が見えない。おそるおそる顔を上げると、広大な自然が目に飛び込んできた。 「え?」  森だ。  森の中だ。  自分は深い森の底に倒れていた。  死んだのだろうか。  そうかもしれない。  多分、そうだろう――。  見たことのない蝶々が碧人の頬にとまって、すぐにいなくなった。  ――透明な翅を持つ蝶々……ガラスウイングか……。  天を突く剣のような細長い樹々の隙間から、淡く繊細な光が差し込んでいる。樹の幹にはレース状の葉を持った蔦植物が絡み、その根元には分厚い苔が密生していた。表面が濡れて光の粒のようにキラキラと輝いている。森の中を流れる空気は水晶のような清冽さで、胸いっぱい吸い込みたくなった。  深呼吸すると、湿った土の匂いに混じって爽やかな若木の香りがした。樹皮の香ばしさや木の芽の青さまで感じられる。いい匂いだ。自分が知っている森じゃない。つまり、ここは天国だ。 「あー、失敗したなあ。最後、よけられたと思ったのにな……」  ペコちゃんを助けようとして、トラックに撥ねられそうになったところまでは覚えていた。途中で意識がなくなったが、多分、そのままよけられずに死んだのだろう。でなければ、この状況に説明がつかない。残念だが現実を受け入れるしかなかった。  ゆっくりと立ち上がる。  とりあえずこの森を出ようと歩き始めた。  体はどこも悪くない。若干、ふらふらするが腕や脚には傷一つなかった。  やはり、死んだのだと実感する。  本来であれば全身傷だらけで骨が一、二本折れていてもおかしくない状態だろう。目覚めたとしても森ではなく病院のベッドのはずだ。  まだ信じられない。  けれど、心のどこかで自分らしい最期だったと苦笑が洩れた。  人生はいつも、いいことと悪いことが交互にやって来る。だからこの天国は自分にとってきっと〝いいこと〟なのだろう。そう己を慰めながら歩いていると平地のような場所に出た。 「あれ、三途の川じゃないのか……」  宙を見上げると、青ガラスのように澄んだ空と長く連なる氷山の尾根が見えた。あまりの美しさに溜息がこぼれる。自分がいた世界よりも色彩の明度と彩度が圧倒的に高い。 「もっと奥まで行ってみるか」  太陽も大きい。プリズムのように拡散する光に目を細めていると、突然、視界が暗くなった。眩暈だと思い、軽くしゃがみ込む。すると、急に体が浮いた。 「え? ちょっ――」  幽体離脱かと思ったが違った。  リアルに自分の体が浮遊している。地面がどんどん遠くなって、さっきいた場所がジオラマのように小さくなった。  パラグライダーに乗っているみたいだと思った瞬間、恐怖に襲われた。  落ちたら死ぬ。  いや、もう死んでいるのか……。  けれど、もう一度、死ぬのは嫌だ。絶対に嫌だ。頼む、誰か助けてくれ。  ばあちゃん、と情けない声が洩れる。  いいことと悪いことが交互にやって来る、そのルールは死後も健在のようで、碧人は自分の不運をますます呪いたくなった。 「もう……好きにしてくれよ……」  諦めの境地に立って顔を上げると大きな翼のようなものが見えた。バサリバサリという音に、空を切るようなゴウゴウという風の響きが混じる。翼は半透明の青い鱗で覆われていて、太陽の光を反射しながら宝石のように輝いていた。  ――ドラゴンだ。  美しい翼を持った飛竜。  青いドラゴン。  それに首根っこをつかまれて体ごと攫われている。 「嘘だろ……」  このまま地獄に連れていかれるのだろうか。  冗談じゃない。  手足をじたばたさせると急に飛行のスピードが速くなった。  ――怖い。怖すぎる。助けてくれ!  見えていた森が地図のように小さくなり、その先を見ると九十度の断崖絶壁だった。あのまま歩いていたら谷底へ落ちていたかもしれない。それが分かって、二重の恐怖で目尻に涙が滲む。  手足が震えて、下半身がじわりと熱くなった。どうやら失禁してしまったようだ。もうどうにでもなれと半ば意識を飛ばしていると、高度が下がり、地面にふわりと落とされた。  ――え?  飛竜は碧人の様子を確かめるような気配を残して、すぐに飛び去った。  眩暈がする。体に力が入らず、一歩も動けない。恐怖で腰が立たず、どうにか空を見上げた時にはもう飛竜の姿がなかった。その全形を、特に顔を見られなかったのは残念だったが、運ばれた先が地獄でなかったことにひとまず安堵する。 「……全く、なんだよもう」  顔を上げると石でできたドーム型の建造物が見えた。無骨な石が整然と積まれ、屋根が半円状になっている。とりあえず、その中に避難しようと思いついた。教会や修道院のように見えなくもない。 「……ああ、くそ」  思うように動けず、地面に両手両足をついたまま、産まれたての子鹿のように震えていると、突然、目の前の空気が変わった。  ふと顔を上げると一人の男が立っていた。  ――人間……なのか?  幻覚ではない。  厳密に言えば、一人というのも、男というのも違うのかもしれない。  思わず息を呑むような美しい生き物がそこに立っていた。

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