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第3話

        ***  その男を目の前にして、しばらく時間が止まった。  二足歩行で人型(ヒトガタ)をしているが人間とは明らかに違い、二メートルを超える長身に、長い青色の髪と瞳を持っている。腕と手の甲、そして額に鱗状の模様があり、半透明の青い爪をしていた。肌は白くなめらかで内側から発光しているような輝きがあった。  ――綺麗だ……。  青孔雀やブルーイグアナを初めて間近で見た時のような感動を覚える。  身に纏っている白い服はトーブに似た民族衣装に見えるが、襟周りと袖と裾に細かい金色の刺繍が施され、胸には七色の宝石が縫いつけられていた。身分の高さを感じるような美しい衣装だ。  ぼんやりしているとその男が近づいてきた。  ふわりと爽やかな匂いがする。  男は軽く目を細めると当たり前のように碧人を抱き上げた。  横抱き、いわゆるお姫様抱っこだ。  ――え?  碧人は平均身長でそれほど小さくないが、男の腕の中に体がすっぽりと収まった。  体格が違いすぎる。  抵抗する余裕もなく固まっていると、男は碧人を抱いたままドーム型の建物の中へ入っていった。  ――あれ、俺……死んだんじゃないのか?  男は確かに浮世離れしていたが、天使や死神には見えなかった。  ドームの中は広い空洞で、外とは違い落ち着いた雰囲気だった。光量も風の入り方もちょうどよく、リゾートホテルのテラスのような心地よさがある。  壁はオーガニック建築だろうか。よく見ると、石の素材を活かしながらも綿密に計算された状態で積み上がっているのが分かった。華美ではないがシンプルで美しい。  やはり、どう考えてもここは天国や地獄ではないようだ。  外国にワープしたのか、それとも時空を超えて過去や未来に飛んだのか……分からない。  どちらかというと異空間や異世界に転移したと考える方が自然な気がした。  男は碧人を大きなトランポリンのような場所に寝かせた。ベッドなのだろうか。ぽわんぽわんしている。碧人が驚いて声を上げると、男はグゥと変な声を出した。絶妙な音量で何を言っているのか分からなかったが、不愉快な反応ではないようで安心する。  男は碧人を寝かせるとその上に布をかけて、胸をぽんぽんと叩いた。母親が赤ちゃんにするような仕草だった。  ぽんぽん、ぽんぽん、としばらく続く。  男は優しい目をしていた。  碧人があくびをすると満足したのか軽く頷いてみせた。 「グゥ……」  何か思いついたのだろうか。  男はぶつぶつ言いながら部屋の奥へ姿を消すと、すぐに戻ってきた。その手には分厚い洋書が握られていた。碧人の傍にある台の上に本を載せてぺらぺらと捲り出す。時々、埃が舞い上がるのか小さく咳をした。そんなところは人間と同じだ。 「グウグ……」  男がこれだ! と何かを当てるような声を出した。  あるページを開いてしきりに頷いている。  そのページをちらりと見ると、妖精の赤ちゃんのような絵が描かれていた。碧人とは容姿が全然違う。けれど、その目の色が同じだった。  青い瞳。  東北地方では時々、青い瞳を持った日本人が生まれる。  碧人もその一人だった。  普段は灰色に見える虹彩が光の加減によってブルーに映る。これを神秘的だと称賛する人がいる反面、不気味だと拒絶する人もいて、その評価は半々だった。碧人は特に気にしていなかったが、黒髪、色白のキリリとした和風イケメンの顔に、この色が合っていると自分では思っていた。  男は食い入るようにそのページを読んでいる。  何度か行ったり来たりしながら、絵の横に書かれた文字を熟読していた。当然、碧人には読めない文字だった。 「グウッ……グ」  男は納得したのか、本を閉じると、碧人の方へ近づいてきた。  碧人を優しく抱き上げると、自分の膝の上に向き合う形で乗せた。あやすように背中をトントンされる。  ――え?  近い距離で目が合った。  碧人とは違う青。  虹彩は光に翳した瑠璃ガラスのように青く透き通っている。  その目の奥に生き物としての崇高な深みを感じた。永く遺伝子を繋いできた生命の歴史のようなものだろうか。人の心の奥に光る小石を投げて波紋を起こすような、不思議な魅力があった。  綺麗だなとぼんやりしていると、男が突然、碧人のシャツを脱がし始めた。意味が分からず戸惑う。ワーワー叫んでいると頭をなでなでされた。 「やめっ――」  再び恐怖が戻ってくる。  性的な意味はないだろうが、裸に剥かれて食べられるのかもしれないという、新たな疑いが頭をもたげる。さっきの洋書はレシピ本かもしれないのだ。 「もうっ……やめろって」  抵抗も虚しく、全裸にされた。  男は碧人の濡れた下着を見て笑うような仕草を見せた。うんうんと頷きながら碧人を外へ運ぶ。そのまま水浴び場のようなところへ連れられて、水を張った水槽の中に体を沈められた。 「くそっ、洗って食う気かよ! 冗談じゃない!」  碧人が暴れていると頭の後ろに男の手が入った。腕まくりしたその手で碧人の背中を支えると、もう片方の手で水をすくって碧人の体にかけた。それを何度か繰り返す。  ――え?  男の手つきは野菜を洗うような乱暴なものではなく、熟練トリマーが子猫を洗うようなやり方だった。一つ一つの仕草に愛情が溢れ、表情も穏やかだ。その目に〝保護ネコチャン、初めてのお風呂〟的な、庇護欲丸出しの感動と喜びが滲んでいる。  ――俺のこと、本気であの妖精だと思ってるのか……。  男は四角いレンガのようなものを擦って泡立てると、それを碧人の頭につけて髪の毛を洗い出した。オーガニック石鹸だろうか。頭皮がほどよく刺激されて気持ちがいい。鼻に飛んだ泡に反応して碧人がくしゃみをすると、男がグゥと声を出した。  ――なるほど、その「グゥ」は笑い声なんだな。  だんだん理解ができてきた。  けれど、何を言っているのかまでは分からない。動物だったら理解できるのに、と少しだけ残念に思う。  男はシャカシャカとリズミカルに髪を洗い終えると、手で水をすくって泡を濯いだ。耳に水が入らないように上から指で押さえてくれる。そのまま首の皺を洗われ、胸や脇、腕や膝の裏まで丁寧に擦られた。布などは使わずに全部、手のひらで洗われる。 「わっ!」  突然、性器を握られた。  男はオスだな! という顔をしている。  碧人の驚きをよそに男の手は止まることがない。  両足首を片手でひょいっと上げられて、お尻を丹念に洗浄された。会陰部や孔まで見られて恥ずかしい。これはもう赤ちゃんの沐浴だなと思った。  ――けど……なんか心地いいな。  気が張っていた分だけ脱力する。太陽の光を浴びながら澄んだ水で体を洗われて、気分がすっきりした。空は高く、空気は清潔で、生き物の営みが感じられる。落ち着いたせいか、なんとなく自分の状況がつかめてきた。  今いる世界が、過去なのか未来なのか、異世界なのかパラレルワールドなのかは分からない。けれど、元いた世界と違うことだけは確かだ。何か特別なアクシデントが起こって、この世界へ飛ばされてしまった。死んだわけではなく、体は元の状態のまま維持されている。  ――これは、やっぱり……世界線が変わった、ってやつか。  そして今、全く知らない生き物に体を洗われている。  悪意はないようだ。  多分、だが――。 「グウグ……」  男は納得したのか、碧人の体を引き上げると上下に振って水切りした。髪もぎゅっと絞られる。そのまま屋内へ運ばれて、元のトランポリンの場所に寝かされた。  今度は布で体を拭かれる。足の指の間まで丁寧に拭かれた。くすぐったくて暴れると男がグゥと笑った。碧人の反応が楽しいようだ。  服ぐらいは自分で着ようと思い、体を起こしかけた時、お尻にぽんぽんと粉のようなものをはたかれた。そのまま長い布を腰にぐるぐると巻かれる。  ――え?  これってオムツだよな……。  男の顔を覗くと慈愛に満ちた表情をしていた。  最後に大きな織布で体を巻かれる。すっぽり包み込まれた状態で男に再び抱っこされた。  ゆらゆらと左右に揺らされる。  ――マジか。  これってやっぱり赤ちゃんだよなと自問自答する。  どうやらこの男は、碧人のことを本物の赤ちゃんだと思っているようだ。優しい目であやしてくる。しばらくすると、男は掃除機のような声を出し始めた。 「グーゴゴ、ゴゴゴ、グーゴゴ、ゴゴゴ」 「何?」  疑問も虚しく、グーゴゴ、ゴゴゴが続く。  もしかして子守歌?  子守歌なのか。  衝撃が走る。  驚くほどの音痴だ。  ピッチとリズムが壊滅的に悪い。  こんなにイケメンなのに音痴なんて! と可哀相になる。  いや、この世界では音痴じゃないのかもしれない。場所が変われば判断基準も変わる。  そう思ったが、聴くに堪えない声色だった。どう考えても桁違いの音痴だろう。 「……ゴゴゴ……カワイ……ベイビ……」 「ん?」  男の声に聞き取れる単語があった。  可愛い? ベイビー?  すると、今度ははっきりと聞こえた。  可愛い、ベイビィちゃん――と。  違う、違うんだ。俺は赤ちゃんじゃない!  下着が濡れていたのは恐怖による失禁で漏らしたわけじゃないんだ!  そう言おうとしても男が話す言葉を喋れない。なんとか身振り手振りで伝えようとしたが逆効果だった。 「カワイ……ソレ、カワイ」  だから違うって言ってんだろ!  碧人が本気でブチ切れても男は笑顔のままだった。  ――ああ……駄目だこれ……。  脱力感に襲われる。  ぐだっとしているとトランポリンに戻された。  布をかけられてお腹をぽんぽんされる。  くそっと思いつつ、疲れが限界に達したせいか、そのまま意識が遠のいた。

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