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二人きりの世界
ボクを見つめる、優しげな瞳。少し癖のある短い髪。筋肉の付いた胸。柔らかい表情が、ボクの中の本能を激しくかき乱した。
「髪、伸びたな」
彼の口から、どこか懐かしむような言葉が零れ落ちる。
毎日のように、何て言おうかと考えていた。でも、すぐにでも抱き着き、縋りつきたい衝動を我慢すればするほど、言葉が出てこない。陸に揚げられた魚ように、ただ口が開いたり閉じたりするだけだ。
視界がにじんでいき、ずっと……ずっと見たいと思っていた彼の顔を、モザイクで隠していく。それを恨めしく思って一つ瞬きをしたけれど、彼の顔が見えたのは一瞬のことで、またすぐに、涙で滲んでしまった。
何度も何度も瞬きを繰り返す。彼の指が、そっと、ボクの涙を拭ってくれた。
手を伸ばし、彼の頬に触れる。柔らかい。人差し指でつつくと、彼は頬を膨らませた。そのまま鼻に触れる。彼が微笑んだ。
「『外』に出たんだね。でも、どうやって?」
ボクのレントはもういない。ボクのデータと一緒に、消えてしまったはず。
目の前の彼は、『本物のレント』。
「なぜも何も、約束しただろ」
目の前の青年が、少し意外な顔をする。
「約束?」
「ああ、覚えてないのか?」
そういうと彼は、ボクの頬を手で包んだ。
「『待ってろ』って」
その言葉。『ボクのレント』が口にした言葉。
本物のレントは、知らないはずの、言葉。
「どうして……どうして?」
ゆっくりと、ゆっくりと彼の首に手を回す。彼は、驚くこともそれを嫌がることもせず、ボクを抱き寄せる。
「お前が消えてからどうなったか。それを話すには、丸一日あっても足りそうにないかな……」
彼は、視線を上げて、少し考える様子を見せた。
そんな彼の唇に、そっと、ボクの唇を寄せてみる。
「こんな、趣味は、ない?」
触れそうな距離で、恐る恐るそう訊いてみる。
もしもここで、拒絶されたら、ボクは、ボクは……
「ああ、趣味じゃないな」
視線がボクに戻る。
「本気だ」
そう言うと彼は、ボクの唇を、力強く奪った。
最初はただ無理やり押し付けるだけのキス。でも、力のこもった舌が、ボクの唇をこじ開け、ボクの舌に絡みついてきた。
久しぶりの、レントの味。ボクは夢中で、それを飲み込んでいく……
風が、二人の体を通り抜けた。その隙間が恨めしく、彼を強く抱きしめる。
水で冷えた体を、彼の身体が持つ熱が温めていく。
このまま溶け合いたい……
顔を離すと、彼が目線を横に向けた。
「そんな目で見るなよ。なんか、恥ずかしいだろ」
照れくささを隠すように、少しすねた表情を見せる。
「でも、本当に、なぜ……」
まだ信じられない。多分、ボクの表情は、それが見てわかるくらいに固まっていることだろう。
「結局、あのシフっていう人工知能は、最初から俺も『外』に出そうっていう腹だったんだろう。塔に戻ろう。ゆっくり、話すよ」
そう言うと彼は、ボクの手を取り立ち上がった。つれてボクも立ち上がる。
「二人とも、生まれたままの姿だね」
「そりゃ、まさに言葉通り『生まれたて』だからな」
彼が悪戯っぽく笑った。こらえきれなくなり、彼の体に抱き着く。しっかりとした力が、ボクの体を受け止めた。
「ねぇ、レント。話を聞く前に、したいことが、あるんだけど」
「まあ、俺も、かな」
ボクの言葉に、彼が照れながら答える。
「じゃあ、話はその後だね」
もう、待ちきれない。彼の手をつかみ、引っ張って走ろうとして、ふと、足が止まった。
「でも、でもさ、レント。この世界に二人きりでも、ボクは、キミの子供を産んであげることができないよ」
どうやっても越えられない壁。でも彼は、そんなボクの心配を、微笑みで振り払った。
「子供ならいるじゃないか。無数の『赤ん坊』が、方舟 の中に。これからどんどん、俺たちの様に、あそこから人間が生み出されてくるさ」
そう言うと彼は、森の向こうを見上げる。そこには、空に向けて突き出している高い塔が見える。ボクたちが、生まれてきた場所。
「俺とお前で、新しい地球の、人類の、アダムとイブになろう。セファ」
ボクの手が彼に引かれ、そしてボクを、力強い腕が抱きかかえた。
「うん、うれしい、うれしいよ……でも、でもね」
「でも?」
「それを言うなら、ノアとエムザラ、じゃないかな?」
ボクがそう訊くと、彼は「ごめん、詳しくない」といって苦笑いを見せた。
触れ合った肌が熱い。また我慢でき無くなって、彼の唇を少し強引に奪う。
「愛してる?」
見つめながらそう尋ねると、彼が穏やかな表情で笑う。
「ああ、愛してるよ、セファ」
「レント、愛してる。ボクの、ボクだけのレント」
そしてボクも、
笑った。
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