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1.灰色の瞳・一

 予報では雪になる予定だった。  サイラス・ヒュームは寒さのあまり居間の真ん中で足踏みした。吐く息が煙のように立ち昇る。壊れたブラインドの向こうから夕方の淡い日差しが射しこみ、埃よけのカヴァーに覆われた家具を白塗りの舞台俳優たちに見せていた。コートのポケットに手をつっこみ、べっ甲縁のシガレット・ケースを取りだして煙草をくわえる。手袋をはめてこなかったのは失敗だった。手がかじかんでマッチがうまく擦れない。  苦闘のすえ、なんとか火をつけて一服すると紫煙が深々と体に染み入った。よかった、これでなんとかなりそうだ。安堵すると禍々しさを孕んでいるように見える白塗りの家具たちもそれほどおぞましいようには見えない。  ヒュームは窓際に歩みより、顔に夕暮れのまだらな光を浴びながら、ハリー街の物悲しい裏通りを眺めた。 「いい身分だな、ええ?」  急に背後から鋭い声が掛かり、ヒュームはびくっとした。振り返ると全身黒づくめの大柄な男が彼のことを睨みつけている。影のような姿の中で、濃い金色の髪と緑の目だけが輝いていた。 「グッドウィン少佐じゃないですか! 来てくれたんですか?」  ヒュームは顔を輝かせ、煙草を口元から離すと虚空に煙を吐いた。「手紙は宛先人不明で戻ってきてたんですが、あなたがなぜ――」 「せっかくきみと縁が切れると思ったのに、なんてことだ」少佐は大股でずかずか窓際に歩み寄った。「それもこれもきみの性格が雑だからだ」  ヒュームはぽかんとした。 「ひどいことを言いますね」 「きょう別れるまえに何回でも言うぞ。きみは性格が雑だ、サイラス・ヒューム。自分に霊感がかけらもないくせに、なぜ心霊ルポなんか書こうと思うんだ?」  少佐は居間をぐるりと見回した。樫材の高い梁、ヤニですすけた壁、むだに幅をとっている煉瓦造りの暖炉。細々とあるソファやカウチ、テーブルなどはすべてカヴァーで覆われている。作家もつられてあたりを見回し、漂う雰囲気に満足した。 「あなたが協力してくれるからですよ、少佐。ある点ではあなたはとっても繊細だから」  ミスター・ヒュームがにこっと笑うと春風が吹くようだ。社交の場で女性たちはみんなそう言って喜ぶが、少佐は微塵もそんなことは思わない。ロングコートのポケットの中で両手の拳を握りしめ、窓から射しこむまだらになった光を浴びて低い声でささやく。 「きみの趣味につきあうのもこれが最後だぞ、いいな? ワイン・ボトル一本じゃ割に合わない。たとえ年代物でもだ」 「ハバナの葉巻もつけますよ。どうですか?」 「どうもこうもない。今回はワインも葉巻もいらない。いいか? 最後だからだ。最後だから協力してやるよ」  ヒュームはにこっと笑った。未練などないのだった。グッドウィン少佐は整った顔に静けさを浮かべ、鋭い目で年下の青年の顔を見つめた。緑の瞳に光がちらちら踊る。ヒュームの吐く息が霧のようにその瞳に掛かった。 「行くか」  少佐がつぶやくと作家はポケットの中の懐中電灯を取りだし、スイッチを入れないままくるくる回した。 「行きましょうか」  二人は静かに居間を出た。 ◯  サイラス・ヒュームとレイ・グッドウィン少佐は四年来の知り合いである。終戦の年だった。当時、戦火の下でも芸術家たちの活動を資金面で支援していたマークル夫人の晩餐会で、二人は出会った。ヒュームが二十六歳、グッドウィンが三十歳になったばかりで、彼は当時まだ大尉だった。  売れっ子ではないが暇でもない作家と、大戦で防諜活動に従事していた陸軍大尉に共通点はない。ましてや作家は呑気なたち、大尉は有能だが癇癖の持ち主だということになればなおさらである。  晩餐会に出席していた面々はみんなそう思ったし、実際に共通点はなかった。しかしグッドウィン大尉は一方的にヒュームのことを知っていた。  大尉はヒュームの小説の愛読者だったのである。 「まあ、ロマンチック」  マークル夫人の若い姪がむりやりそう言った。大尉の気を引き立てようとしていたのは明白であった。彼女はひと目見たときから大尉に惹かれていたし、彼は愛読書の書き手に出会っていささかがっかりしたように見えたからだ。  この出会いがロマンチック? 大尉は自分自身に問いかけていた。そのあいだにヒュームは客間のソファにゆったり座り、煙草をくゆらせていた。彼が壁に掛かっている絵のほうを見ると、右目は動かず、やや斜視だということがわかる。灰色の目は義眼だった。子どものころに病気で失った右目を同情されると、ヒュームはいつも微笑んで礼を言う。自分ではなんとも思っていないことを気の毒がられると、道で知らない子どもからきれいなチョコレートの包みをもらったような気分になる。  彼は本当によく気の毒がられる。ふてぶてしく見えるとか、せっかくの好青年が台なしだと言われた。義眼のせいでどことなく冷酷に見えるからだ。  大尉はヒュームの横顔をじっと見ていたが、やがて口を開いた。 「右目は義眼ですか?」  さすが軍人、不粋だとその場にいた全員が思った。一人ヒュームだけは微笑んでいた。 「義眼です」  彼が答えると大尉は真顔で作家の顔を見つめ、言った。 「似合ってる」 「え?」 「あなたに似合っていると思う」  そこで大尉は初めて微笑んだ。ヒュームは目を丸くし、笑いだした。 「あなたはエレガントな人ですね、大尉」  彼がにこにこして言うと、グッドウィン大尉はまたどこか真剣な顔になった。 「煙草をいかがです?」  ヒュームが自分のシガレット・ケースを差しだすと大尉は礼を言って受けとった。周りの人間はみんなぽかんとしていた。  その日は雪が降っていた。 ◯ 「降りだしたな」  中二階に唯一ある踊り場の小窓から外を覗いてヒュームがつぶやいた。杉の木で窓は半ば塞がっているが、その向こうに重い雪がちらついている。 「おい、どこから見るんだ? メインはどこだ?」  少佐が背後から苛立たしげに尋ねると、ヒュームは両手をコートのポケットにつっこんだまま振り返った。口の端で煙草が上下する。 「メインはこの上、寝室のとなりの化粧部屋です。そこで女主人が首を吊って以来、出るとか」  少佐は眉間に皺を寄せた。ヒュームは靴の踵で丹念に煙草の火を消したあと、吸い殻をポケットにつっこんだ。魔所の「場」に物を捨てる、置き忘れることで、持ち主が悪しき影響をこうむりやすくなるらしい。ヒュームは感じないが、グッドウィン少佐がそう主張するので、訪れた幽霊屋敷では物を捨てたり忘れたりしないよう細心の注意を払う。ヒュームは吸殻の入ったポケットを上から手のひらで叩き、白い息を吐きながら言う。 「この屋敷は彼女が死んで以来、七組の借り手がありましたが、うち六組の誰かがなんらかの形で自ら死を選んでいる。この家はまちがいなく魔所ですね」 「要は、ここにいればたいてい死ぬということだな」少佐は眉間に皺を寄せ、上階へ続く階段に顎をしゃくる。「のぼれ。階段は大丈夫だ。――きみはなにも感じないのか?」  ヒュームがこっくりとうなずくと、少佐は手で煙を払うしぐさをした。 「なら、いい。きみはおれが霊気に苛まれて具合を悪くしていたときも、のほほんとしていた男だからな。この程度はなんでもないんだろう」 「自分に霊感がなくてよかったと思います」 「違うな。性格が雑なだけだ」  少佐は切り捨てると先にたって階段をのぼりはじめた。ヒュームがあとからついていく。埃が舞いあがり、階段に固い靴音が響いた。 「きみの新しい本……」  少佐の声が聞こえて、ヒュームは顔を上げる。暗くなりはじめた家の中に少佐の背中は黒々として見えた。急に寒気を感じ、ヒュームは首をすくめた。 「新しい本が、なんですか?」 「読みかけで止まってしまったよ」 「ああ、そんなこと」ヒュームは屈託ない笑顔になる。「気にしませんよ。今回は文章の装飾が過度になってしまったから、読みにくかったかなと思っていたんです」 「いや、どれも美しく適切な表現だったと思う。時間がなくてな」 「気にしませんよ。そういえば、任務で忙しかろうとあなたはいつも必ず最後まで読んでくれますね」  二人は二階の長い廊下の端にたたずんでいた。 「いよいよ寒くなってきたな」  ヒュームがつぶやいても少佐は答えず、左手の奥から二番目の部屋を切りつけるような目で凝視していた。  作家はあたりを見回す。厚い黒の絨毯を敷いた廊下を挟んで、左右に扉がある。階段をのぼり右を向いた状態で左手に扉は四つ、右手に二つだ。奥には三階の使用人部屋に続く階段がある。二人の背後には縦長の窓があり、雪に掻き消されるように日が落ちていった。ヒュームは懐中電灯をつけた。 「ひと部屋ずつ見て回りますか? それともすぐに化粧部屋に?」  少佐は振り返らず、二番目の扉を見ている。 「きみの仕事としては、ひと部屋ずつ見回って取材して、読者の恐怖感をあおるほうがいいんじゃないか?」 「いつもはそうしていますね。でも、今日はやけに寒いから」 「帰りたいのが見え透いているな」 「実際、帰りたいですね。もう今日はやめにしましょうか。いっしょにホット・ウィスキーでも飲みませんか? いつものパブで」  グッドウィン少佐が振り向いた。金色の髪はヒュームの目にかろうじて見えたが、瞳は暗がりに溶けこんで、見えなかった。少佐は手を伸ばした。 「おれが見てくるよ」  彼は懐中電灯を受け取り(光の輪が廊下をすべった)、あたりを照らした。それからいつものきびきびした足取りで右手の奥から二番目の扉まで進む。扉に向き合い、力強く三度ノックした。  ノックが返った。  ヒュームが目を丸くしているあいだに、少佐はさっさと部屋の中に消えていた。  あたりは真っ暗になった。

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