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灰色の瞳・二
レイ・グッドウィン大尉のどこが好きなのかとマークル夫人が尋ねたら、ヒュームは煙草の葉を紙に巻きながら宙をぼんやり見上げた。
「あの人は、いい人ですからね」
「確かに気立てはいいわね」夫人はむっちりした指でクッキーをつまみながら笑う。「でもすぐカッとなるわよ。それが欠点で女の子が敬遠するのよね。ハンサムで有能なのに近寄りがたいと思われるの」
「大尉は、一度怒るとあっさりしてますからね。ぼくには何度も怒りますが」
「怒らせるからでしょう? ほんとにちゃらんぽらんとしてるんだから。あの人のこと、怖くないの? ――ああ、怖くないわね。あなたがこの前出した本の話、聞いたわよ。グッジ街の殺人鬼と監獄の中で、二人っきりでインタビューしたそうじゃない?」
夫人は皺に半ば埋もれた知的な瞳を輝かせた。
「あの、壁じゅうに内臓をぶちまけた殺人鬼」
「あれを見たら、きっと切り裂きジャックは教えを乞いたくなるでしょうね。現場の写真、見ましたよ。本には載せられませんでしたが」
マークル夫人は眉をひそめた。ヒュームは巻いた煙草を口にくわえ、火をつける。彼女は煙の向こうに作家の顔を見た。ハンサムと言ってもいいが、むしろ特徴のない顔立ちと言ったほうが印象をよく言い当てている。その中で、斜視気味になった右目が目を引く。夫人はふと、義眼が似合っていると言った大尉のことを思いだし、確かにそうかもしれないと思った。しかしそのひらめきもすぐに手のひらからすり抜け、大尉の意図がわかった気がしたのは気のせいかしらと思う。
「グッジ街の殺人鬼といっしょにいて、よく平気だったわね」
ヒュームは紫煙を吐いて微笑んだ。
「殺人鬼だって人間です。悩み、苦しみ、死んでいく。だれでもが通る道を歩む人間をどうして恐れますか? その悩み、その苦しみが自分の殺人衝動を抑えられないことだろうとなんだろうと、失恋した人間の苦しみとどれほどの違いがありますか?」
「よくわからないわね」
「共に悩み、苦しみ、死んでいく人間同士、お互いなにも変わらないのだから、仲良く――まではする必要がないと思いますが、憐れみを持つほうが生きやすいだろうと、ぼくは思うんです」
「要するに、あなたは博愛主義者なのね」
マークル夫人が目を細めると、ヒュームは彼女の目を見返した。
「グッドウィン大尉は『他者に関する致命的な関心の欠如』と言いました」
彼は煙草を吸い、煙の向こうで笑った。
「いつも正しくぼくを見てくれるのは、あの人だけのようです」
◯
サイラス・ヒュームは二番目の扉の前に立っていた。一枚板で装飾はないが、上部に明かりとりの小さな四角い窓がある。一瞬だけ中から光が走ったが、すぐに見えなくなり、それから以降は窓は暗いままだった。中からはなんの物音もしない。
彼は木のドアノブを握りかけ、しかし手を伸ばした状態でじっとしていた。
ふと衣擦れの音が聞こえた。
ドアの向こうから聞こえたのかと思い、ヒュームは耳をすませた。ガサガサいう音が頭の周りをとりまくように響く。ちいさなその音は単調で、繰り返され、神経を逆なでする。ヒュームはふと衣擦れではなく、壁の中を鼠が走りまわっている音ではないかと思った。彼は音を振り払うように首を振り、右を向いた。
女がゆっくり奥の階段を降りてくる。
暗がりの中で、彼女はかすかにうつむいていた。くすんだ赤っぽいドレスを身にまとい、長い裾を引きずっている。ガサガサ音がする。彼女は非常にゆっくりしたスピードで降りてくる。一段降りるたび、頭がガクンと後ろに反れる。
ヒュームは女を凝視した。頭をガクガクさせながら降りてくる姿はまるで壊れた自動人形のように見える。彼は扉の前から離れ、女がいる階段のほうへふらふら歩いていった。奥へ向かって進むと闇が濃くなる。さながら黒いヴェールを幾重にも重ねたようだった。闇の中を進むとヴェールに絡めとられ、息苦しくなってくる。
階段のそばまで近づくと、おぼろげだった女の姿がヒュームの目に次第にはっきり見えはじめた。ドレスの表面には細かいギャザーが寄り、絹糸の縁取りがかすかに浮かびあがる。女はうなじでシニョンを結い、華奢な首はむきだしだった。
ふとヒュームは違和感を覚えた。女が階段を降りるたび頭が激しく揺れる。手首の向きがおかしい気がする。手すりに添えられた女の手の指先は背中のほうを向き、背後に伸びている。胸にまったく膨らみがない。ヒュームは目を凝らした。そして気づいた。
女は背中を向けて階段を降りている。首がねじれ、頭が真後ろを向いていた。
女と目が合うと、彼女の頭がガクッと胸の上に垂れた。
そのとき二番目の扉が勢いよく開いた。グッドウィン少佐が部屋から飛び出してきてヒュームの左手首をつかんだ。彼が振り向くと少佐はその顔をじっと見つめた。そしてにやりと笑った。
「きみが怯えた顔を一度見てみたかった。だが、やっぱりきみはきみだな」
「少佐」ヒュームは目を丸くし、呆然として口を開いた。「見ましたか? あの女。ぼくは初めて見ましたよ。少佐?」彼は自分の手首を握る少佐の素手を見た。「あなたはなぜそんなに冷たいんですか?」
「冷たい?」少佐は握っていた手を離すとつぶやいた。「そんなはずはないよ」
ヒュームが階段のほうに振り向くと女はいなかった。廊下はしんとして、窓に当たる雪の音だけが聞こえる。少佐が出てきた扉は開け放たれたままで、その向こうからなにかが軋むような音が聞こえてきた。
「女は天井から首を吊ったのですか?」
開いた扉を見ながらヒュームがつぶやいた。少佐も扉のほうをゆっくり振り返った。なにかが高い音で軋んだ。
「いいや。ドアノブに荒縄を巻きつけて死んだんだよ。死ぬまで時間がかかって悶え、縄が何重にも巻きついた。そのために首がねじ切れそうになっていた。あの部屋で見たんだ。どんな事情にしろ、気の毒な女性だな」
ヒュームのほうを振り向くと、少佐はロングコートの中に両手をつっこんだ。
「よく言うよな。『幽霊より生きている人間のほうが怖いもんだ』って。だが大事なことを忘れている。幽霊だって元は人間なんだ。そう考えると、どこへ行っても人間、人間、人間しかいないように思える。だが世界に人間しかいなかったら、さぞつまらないだろうな。どこへ行っても自分と似たようなやつらばっかりだ。言ってることをこっちが理解できないような天才もそりゃあいるだろう。だが、そういう人間も結局は人間の型に則って行動し、思考している。瞬間瞬間では、相手の言動や思考を理解できないこともあるだろう。だが改めて考えてみると、予測を裏切られたことなんて一度もないよ。予測可能な世界で生きる。それってつまらないと思わないか。きみはそうは思わないか? ヒューム」
ヒュームはポケットからシガレット・ケースを取りだし、煙草をくわえた。マッチをすると鋭い緑の目が光る。作家は微笑んだ。
「あなたはエレガンス、そしてとてもロマンチックだ。でも作家として言わせてもらいますよ、少佐。あなたは人間についてわかっていない。たしかに人間自体はつまらないものです。みんな同じですよ。だが、自分と他人は別であり、ぼくとあなたが別ものなら、予測できるものは本当は一つもない。他人のことがわかったと思った瞬間、それは自分の心を語ったに過ぎなくなる。相手を『人間』でくくって見ているようじゃ、きっとこれからも独り身ですね」
ヒュームが言うと、少佐は鼻を鳴らして「きみもな」と答えた。
開け放たれた扉の向こうでなにかが激しく軋んだ。
「黙ってろ」
少佐が扉に向かって怒鳴りつけると音はやんだ。
「寒いんですがね、少佐」
がたがた震えながらヒュームが訴えた。吸いつけたばかりの煙草を無意識に床に捨てた。絨毯が焦げたが、彼が踏みつけると火は消えた。確かにヒュームは真っ青になっていた。悪寒がして体じゅうが小刻みに震える。止めようとしても止まらず、筋肉が震えている感じだった。おまけに頭がぼうっとしてきた。きつく目を閉じ、また開ける。
「少佐?」
少佐はいなくなっていた。ヒュームは頼りない足取りでふらふらと開いた扉のほうに進んだ。壁紙が腐って剥がれ、家具もなにもない真っ暗な小部屋の床に懐中電灯が点灯したまま転がっていた。彼はしばらくその光の輪を見つめた。
ゆっくり顔をあげると女が背中を向けて立っていた。首がゆっくりと後ろに回りはじめた。
ヒュームは扉をそっと閉じると、一階に続く階段のほうへよろよろと歩いていった。ふいに足がもつれ、彼は階段を転げ落ちた。
◯
サイラス・ヒュームのどこが気に入っているのかとマークル夫人に尋ねられて、グッドウィン大尉は訝しげな目で彼女を見た。マークル夫人は大尉の嫁いでいった妹の義母で、要は親戚なのだが、未だに二人はサロンでもてなす女主人と客という態度を貫いていた。
「ヒュームの本のどこがいいか、ということですか?」
大尉が尋ねると夫人は目を丸くした。
「それも気になるわね、文学的にはね。でもわたしが知りたいのはヒュームさんその人について、どこを気に入っているのか、ってことよ」
「そもそも仲良しに見えますか?」
「見えないわね」夫人は紅茶をカップに注ぎながらあっさり言った。「あなたはいつも怒ってるし、ヒュームさんはどこ吹く風だし」
「あの男はなにも怖くないんですよ。幽霊だって怖くない」
「あなたといっしょに幽霊屋敷に入りこんで、とっても怖いルポルタージュを書いてるじゃない」
「とっても怖い目に遭っているのはわたしだけですよ。あの男はなにも感じていません。ヒュームと知り合ってわかりました。彼が書いているのは心にも思っていないことだけだ。それをすばらしく、美しく書ける。だから彼は才能があるんでしょう」
大尉は紅茶を一口飲むと、宙に視線を向けて言った。
「だからわたしは彼が好きです」
◯
目を開けると二階の踊り場の小窓は雪で塞がりかけていた。ヒュームはゆっくりと床から上体を起こした。口の中に舌がはりつき、頭がぼうっとして、ぶ厚い綿のマスクをかぶっているようだった。あたりは暗く、ほとんどものが見えないが、次第に目が慣れてきて階段の輪郭がぼんやり見えてきた。ヒュームの脇を黒い小さな塊が凄いスピードで駆け抜けていく。はるか上から鼠の鳴き声が聞こえた。
黒い影が一歩一歩階段を降りてきた。背が高く、背筋を伸ばし、顎を引いて歩いてくる姿には見覚えがあった。
グッドウィン少佐は階段を降りてくると、床に座りこみ、ぼんやりした目を上向けているヒュームの前に立った。
「義眼がずれてるぞ」
「ああ」ヒュームは右目を擦った。「いいんですよ。別に」
「おれが気になるよ。まあいいか。どうせ見えていない目だからな。きみらしいよ」
「ぼくらしいってどういうことですか?」
少佐はポケットに両手をつっこんだまま、じっとヒュームの顔を見た。
「きみの右目は本当には見えていない目だ。だがそこにあることで世界を睨んでいる。見えるはずのないものが本当は見えてるように、こっちに感じさせる。それがきみらしい」
「意味がわかりませんが」
「おれがその目に怯えているとき、きみはこっちのことなんか見てもいない。笑って別のことを考えている。それが清々しいよ、サイラス・ヒューム。きみが好きだ」
ヒュームは首を後ろに反らして影を見上げていた。がっしりした肩のラインと鋭い緑の目だけがかろうじて見える。
「どうせ気がつかなかっただろうな?」
「ええ」ヒュームはつぶやいた。
「きみがそのことに気づいたとき、おれは我にかえると思っていたよ。だがきみは気がつかなった。きみらしいよ。だがな、あとであれこれ考えて、おれの気持ちを推しはかろうなんて思うなよ。おれはな、例えおれがもう一人いようと、そいつにおれの気持ちなんか理解されたくないね」
「しようなんて思いませんよ」
床についたヒュームの手を鼠が齧った。彼は手を振り上げる。皮膚が破れて血が滲み、肉が見えかけていた。少佐はポケットから青ざめた手を出すと、その手をヒュームに差しだした。
「つかまれ。降りて、家から出ろ」
「できますかね」
ヒュームは立ちあがろうとしたが、床に両手をついた体勢で動かなくなった。吹きつける雪で窓がぎしぎし鳴っている。
「外は大雪だし……頭がぼうっとするんですよ。なにも見えないし。でもあなたの目の」作家は顔を上げた。「白目はまるで光みたいだ」
彼は床の上に崩れ落ちた。少佐は低い声で罵ると、ヒュームの肩を猛烈な勢いで揺さぶり、頬を平手で叩きはじめた。
二人を包む暗闇は濃くなり、鼠がその周りに集まりはじめた。
◯
ふたたび目を開けると、サイラス・ヒュームは自宅のベッドにいた。胸元まで毛布と布団が掛けられている。鼠にかじられた手と首筋に鋭い痛みが走った。彼はかすかに顔を右に向けた。なじみの編集者、バートンが神妙な顔で覗きこんでくる。
「あんたは死んだように眠るな、ヒュームさん。死んでないことに驚いてるよ」
「ぼくはどうなったんだ?」
ヒュームは義理を果たすような調子で尋ねた。汗をびっしょりかいているが、気分は清々しく体が軽かった。
「いまはいつだ?」
「幽霊屋敷の取材を決行した、二日後だよ。あなたは屋敷の外玄関で倒れていた。高熱だったし、雪が体じゅうに積もりかけてた。様子を見にきた不動産屋が発見したんだ。死ぬところだったぞ」
「ああ、そう」
ヒュームは天井を見上げた。電気に替えたシャンデリアが控えめに輝き、あたりに自身の影を幾重にも投げかけている。心が落ち着いた。
「少佐は?」
「なに?」
「グッドウィン少佐は? いっしょに行ってたんだ。あの人は世話焼きだから、ぼくを捨てていくはずがないと思うんだ」
「知らないのか?」
ヒュームは右を向いた。バートンはややまごついたが、この男なら事実を受け入れられるだろうと思って、はっきり言った。
「少佐は殺されたよ」
編集者は眼鏡を鼻梁に押しあげて残りを話した。
「今から五日前だ。発見されたのは二日前だがね。どうやら何者かに命を狙われていたらしい。ホワイト・チャペルの裏通りで刺殺体で発見された。刺し傷が十四もあったそうだ」
「じゃあ、ぼくは夢でも見たのかな」
そうつぶやくとヒュームはバートンのさらに背後、フェルナン・クノップフの複製画のそばに置かれた緋色の椅子に目をやった。
「ウィルクスという名前の警部がきみを訪ねてきてたぞ」バートンが言った。
「目が覚めたら、少佐についてなにか知らないか聞きにきたいそうだ。警視庁に連絡を入れてほしいと言っていた。だが、もう少し安静にしたほうがいいな」
「大丈夫だよ」ヒュームは天井を見上げて言った。
「善良な市民として警察には協力しないとね。悪いんだが、電話してきてくれないか?」
編集者が腰をあげて部屋から出ていくと、ヒュームはふたたび緋色の椅子のほうを向いた。グッドウィン少佐が座っていた。
「死んだんですか? 少佐」
少佐は黙って椅子から立ちあがった。両手をロングコートのポケットにつっこみ、ベッドに向かってゆっくり歩いてくる。ヒュームは静かな緑の瞳を見ていた。
「ぼくには生きてるように見えるけど。生きてますよね? また取材、いっしょにつきあってくれませんか?」
「最後だって言っただろ」
ベッドの枕元に立つと少佐は左手をポケットから出した。
「おい」
「なんですか?」
「直していいか?」
いいですよ、とヒュームは答えた。彼は少佐の目を見上げた。
少佐は左手を伸ばし、灰色の義眼に触れた。
窓の外で、雪はやまずに降り続けていた。
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