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2.幽霊、及びロマンチストの群れ
エドワード・ウィルクス警部は目つきの鋭い、長身痩躯の男だった。やや白髪のまじりはじめた茶色の髪と顔の皺が、すでに四十代を迎えた歳にふさわしい。警部は客間に案内されると、奥の窓際の、一人掛けの茶色いソファに腰を下ろした。テーブルを挟み、客間の扉のすぐそば、真向かいに腰を下ろすサイラス・ヒュームの顔をじっと見つめる。
「病みあがりのところを申し訳ありません」
ウィルクスは堅苦しく切りだしたが、鋭い目にはやや優しさが見える。
「お体はもういいのですか? 電話では、熱は下がったとお聞きしましたが」
「もう平気です。ご親切にどうもありがとう、警部。手と首が鼠に齧られていてちょっと痛むのですが、大丈夫です」
ワインレッドをした千鳥格子模様のぶ厚いガウンにくるまり、首と右手の小指側にガーゼを貼りつけ、青白い顔で微笑むヒュームを見て、警部は気の毒がった。しかし彼はその心を、車のヘッドライトが道をすべっていくように焦げ茶色の目にかすかに表しただけだった。
なんだか厳しそうな人だ、とヒュームは思った。彼は灰色のスリッパの爪先で左足のかかとを軽く蹴った。二人はしばらく黙って見つめあう。ヒュームの右目が義眼だということに、ウィルクスはすぐに気がついた。警部はふいに微笑んだ。
「あなたの本を読んだことがありますよ、ヒュームさん。作家でいらっしゃいますね」
「ええ、そうです。光栄ですね。どの本を? 『バルドット・レポート』ですか?」
「一九二〇年に起こった毒殺事件の犯人へのインタヴュー集ですね。もちろん。でも、いちばん好きなのは『長い雨』です」
「へえ」
ヒュームは純粋に驚いた顔になった。
「修道女と軍医の悲恋の本、でしたよね? たしかに、構成の出来はよかったと記憶しています。あれはとっても感傷的で、警部はきっとロマンチスト……」
ウィルクスは鋭い目つきのまま、ばつが悪そうにちょっと視線を伏せたが、すぐまたヒュームの目を見て、「わたしは好きですよ」と言った。それから急に右手を上着の内ポケットに入れた。黒い表紙の手帳を取りだし、鉛筆を構える。
そのときヒュームは警部の右手の中指と薬指に障害があることに気がついた。どうやら、二本ともやや曲がった状態で動かないらしい。左手はどうかなと思って目をやると、骨ばったその手の薬指にはくすんだ色をした結婚指輪が嵌っていた。
ウィルクスは作家の目をじっと見て、話を切りだした。
「本題に入ります。レイ・グッドウィン陸軍少佐のことです。彼は五日前に亡くなりました。殺害されて。ご存知ですね?」
ヒュームはうなずいた。警部はこれまでよりもはっきりと、同情を寄せる目になった。
「ご友人の訃報を、それも殺害されたという話を聞くのは、とてもつらいものだと思います……」
「いえ……」
ヒュームはちらりと自分の右側を見た。すぐそばにグッドウィン少佐が立っている。黒いロングコートのポケットに両手を突っ込み、戦局を見極めようとする軍人の目でウィルクスのことを見ている。少佐は視線に気がつくと、ヒュームの目を見た。目が合うとヒュームは自然に逸らし、警部を見た。
「大丈夫です。お心遣い、ありがとうございます」
ウィルクスは手帳を開き、メモをとる態勢になった。
「少佐は以前から何者かに命を狙われていたようです。その点に関して、なにかお気づきのことなどは?」
「ありません。少佐がぼくに悩み相談をしたことなんか、一度だってありませんでした。ぼくに話したってむだだ、と思っていた気がしますね」
少佐はちらりとヒュームを見た。作家の青年は警部のほうだけを見ている。ヒュームが右目を擦ると義眼がずれ、斜視ぎみに見えるのがいっそう強まった。
「グッドウィン少佐は」ヒュームは言った。
「ホワイトチャペルで刺殺体となって発見された。たしか、誰かが棄てたぼろぼろの藁布団の後ろから。布団には油が掛けられていて、かなり臭った。そのせいでみんな遠巻きに見ていたから、遺体の発見が遅れた、とか。少佐にも油が掛けられていた」
「よくご存じですね」警部はそう言いながら怪訝な顔になった。「その通りです。……どなたかに聞いたのですか?」
「いいえ」
本人から、とヒュームは思った。彼はちらりと自分の右横を見た。警部はそちらに視線を向ける。彼の眉間の皺が険しくなった。ヒュームは小首を傾げた。
「新聞には……」
「記者たちに渡す情報にはかなり制限を掛けています。……軍と国の意向もあって」
ぼくがあなたの愛読書の書き手であることを思いだしてください、警部、とヒュームは思った。ウィルクスの目つきは険しかった。それでも、まだ冷たいというほどではない。そこいらじゅうくんくん嗅ぎまわって、これから追いかけるにおいを掴もうとしている警察犬のようだった。
右横で少佐がなにかつぶやいたのが聞こえ、ヒュームはそちらを見る。少佐の緑の目はじっとウィルクスの、整った厳めしい顔に注がれていた。
ふいに客間の扉にノックの音がした。
ヒュームが「はい」と答えると、ドアが開いた。男が一人、ぬっと部屋に入ってきた。ヒュームの目には、彼が扉の前に立っている少佐にまともにぶつかるかに見えたが、そんなことはなかった。少佐の姿はゆらぎ、男が部屋の中央あたりまで進みでると、また元に戻った。
場に加わった男はヒュームのほうを振り返ると、「初めまして、ヒュームさん」と穏やかな低い声で話しかけた。
長身で逞しい大柄な男で、警部と少佐よりもまだ上背があった。豊かな髪はほぼ白髪になり、顔のあちこちに皺が浮かび、黒い眉にも白いものがまざりはじめている。彫りの深い顔立ちと薄青い瞳には人柄の穏和さがにじみでていた。彼は帽子を片手に持ち、黒い革手袋をはめた手で体についた細かい雪を払った。
「こちらは、私立探偵のシドニー・C・ハイドさんです」ウィルクスが妙に早口で紹介した。「今回の件を手伝ってもらっているんです」
「あなたの本は、よく読みますよ」
ハイドは警部の脇に立ちながら、にっこりして言った。
「『長い雨』が特に好きです。よく、結ばれることのない恋人たちを描いた悲恋の最高傑作だと言われていますが……あれは、良心が欠如した人格異常の男と死んだ女の執着を描いた怪談ですよね?」
はははとヒュームは笑った。ハイドはにっこりする。ウィルクスの顔が表情をなくし、グッドウィン少佐は腕組みした。
「わたしが今回の件を手伝っている理由は」大柄な体を左足にあずけて、探偵が言った。
「グッドウィン少佐と知り合いだからです。わたしは戦時中、陸軍情報局で少佐のもと、防諜活動を手伝っていました。……少佐が殺されたとは。まだお若かったのに。たしか三十歳をいくつか出たころでしたね」
ヒュームはうなずいた。
「三十四歳くらいじゃないかと思います。ぼくもはっきり知りませんが。……あなたはおいくつなんですか?」
急に尋ねられてもハイドはそれを不躾だとは思わなかった。
「五十七です。警部は四十四。ヒュームさん、あなたは? ……三十歳なんですね。わたしはあなたたちよりずっとおじいさんです」
「少佐はもう亡くなったから、関係なくなりましたね。……あなたから見ても、少佐の死は不慮の死だったのですか?」
ハイドの濃い片眉がわずかに持ちあがった。警部は指に鉛筆を挟んだまま目を細めている。ヒュームがさりげなく右隣に視線をやると、少佐は笑みを浮かべていた。
「それはどういう意味でしょうか?」
落ち着いた声で探偵が尋ね返した。ヒュームは彼の目をじっと見る。
「あなたが登場したということは、少佐が従事していた防諜活動が死の原因になったのではないか、と思ったのです。彼は計画的に命を狙われていた。それは痴情のもつれとか、強盗に殺られたとか、喧嘩沙汰でとか、そういったことではなしに」
「強盗や頭に血がのぼった男相手なら、少佐は殴り倒せると思います」ハイドが言う。「痴情のもつれだとしたら、そういった兆候が以前から?」
「さあ、ぼくは知りません」
ヒュームは考えこむ顔をしながら、もの柔らかな口調で答えた。
「警部にも話しましたが、少佐はぼくに悩み相談なんてしませんでしたから。それで、やっぱりあり得るのはかつての任務がらみかと。そうではないのですか?」
「質問に答える必要はないんですよ、ハイドさん」
冷静な、しかし厳しい声でウィルクスが言った。ヒュームはちらりと警部を見て、右隣りを向く。少佐はウィルクスを見ている。
ほんとうに警部は気づいていないのかな? ヒュームはそれが不思議だった。ハイドがヒュームの視線を辿るように目線をそちらに動かした。探偵の目に映るのは、扇形のステンドグラスが上部にはめこまれた、今は閉ざされた扉だけだった。
ハイドは警部の横顔を見下ろすと、くすっと笑った。
「わかっているよ。でも、この場合答えを拒否するのは答えたことと同じになる」
ウィルクスはため息をついた。
「そうとも限りませんがね。でもまあ、いいでしょう。あなたにお伝えする許可はとってあります。でも、口外厳禁ですよ。――レイ・グッドウィン少佐は軍務絡みのことで殺害されたという見方が有力です。任務が失敗したからではなく、成功したから。報復です」
「大戦から四年も経ってですか?」
それとも最近の軍務――? ヒュームは尋ねようとしたが、ウィルクスの目に制された。
「目下、捜査中です。それで、ヒュームさんに少佐がなにか打ち明けていれば、と思ったのです。尾けられているとか、誰かに危害を加えられそうになっているとか……あるいは、望みがかなり薄いですが……なにか任務そのもののことについて。でも、あなたはなにも知らないようですね」
「犯人が誰かは知っていますよ」
ヒュームがそう言うと、客間はしんとした。
突如、見えない、しかし手で触れる透明な氷塊が出現したかのように、部屋はぎこちない沈黙と冷たさに閉ざされた。カーテンを半ば開けた窓に雪が当たる音が聞こえてくる。時計が秒針を刻み、彼らは凍りついた。落ち着いた穏やかな物腰で、どこか一歩引いた態度で場を見守っていたハイドすら引き締まった顔になった。
「どういう意味ですか?」
ウィルクスがゆっくり口を開いた。その顔はさらに険しく、きれいな(ほんとうにきれいだとヒュームは思った)眉のあいだには深い皺が寄っていた。少佐は右手の拳を口元に当て、咳をしている。笑いをごまかしているんだとヒュームは思った。少佐はいい人だけど、ときどきちょっと意地悪だからな。彼はそう思った。なるべくまじめな顔をして口を開く。
「そのままの意味です。ぼくは犯人を知っています。でも、証拠はあなたたち警察が見つけてください」
「どういう意味ですか?」
ウィルクスがもう一度尋ねた。ヒュームはやや前かがみになる。
「もちろん、ぼくが殺ったんじゃありませんよ。――少佐本人に聞いたんです。そうですよね」
ヒュームは右隣りを振り向いた。緑の瞳と目が合う。
「ねえ、少佐?」
「ああ」少佐は口の端でにやっと笑った。
「少佐はここにいます。この、扉の前に。ぼくには見えるんです」
右手を振るとヒュームは傷が痛むのを感じた。警部と探偵は表情の読めない顔で彼を見ている。今度の沈黙も重たかった。しかしヒュームは慌てなかった。ハイドの目を見ると、静かに言った。
「ハイドさん、でしたね」
「ええ」
「あなたの噂、知ってるんです」
「噂?」
「あなたの別れた奥さんはもう亡くなっていて、それなのに今でもあなたを愛している。だからあなたに恋愛感情を抱く人間の目には、嫉妬に燃える幽霊の妻の姿が見える。……そうですよね?」
突然ハイドは笑った。ウィルクスは凍りついたようにヒュームを見ている。ハイドの明るい笑い声は、まったく芝居がかっては聞こえなかった。彼はヒュームを見てうなずいた。
「ええ、そうですよ。もうかなり昔からね。ぼくも探偵稼業ではなく、そんなところで有名になってしまったな」
「ええ、すごく有名なんです」ヒュームは目を輝かせた。そのせいで、死んだ灰色の右目がよけいに不気味さを帯びた。「都市伝説って言うんですかね。事実ですか?」
「事実ですよ」
ハイドはさらっと認めた。ヒュームは両手のひらを胸の前でくっつけ、尋ねた。
「ということは、あなたも幽霊が見える?」
「見えます。妻のことは、ですよ。他の幽霊は見たことがありません。だからもしそこに少佐がいたら……」
ハイドは扉のあたりを凝視した。細めた青い目は少佐の姿を素通りし、またヒュームの顔に戻った。
「ぼくに少佐は見えませんね、ヒュームさん。ウィルクス君も?」
「はい」
警部はどこか遠い目をしていた。ヒュームがそっと尋ねる。
「警部さんは、信じてくださいますか?」
「ええ……信じますよ」
ややあって、ウィルクスはつぶやいた。
「ハイドさんは、実際に『見える』そうですからね。幽霊は、見える者の前にはいるんです」
(ヒュームはあとで知ったが、ウィルクスも「見える」ということだった。グッドウィン少佐が、ではない。警部はハイドの亡き妻が見えるのだった)
「あなたに少佐が見え、その声が聞こえるなら、捜査は飛躍的に前進します」
ハイドが快活に言った。口調は力強く明朗だったが、その薄青い目を見て油断はできないとヒュームは思った。ハイドはヒュームが大嘘を吐いている可能性もちゃんと考慮に入れている。死人の女にとり憑かれていると噂される男を前に、さも自分が少佐の幽霊を見たように偽証する。探偵はヒュームに話を合わせているだけかもしれない。
「たしかに、前進する。……でも、警察は慎重でなければなりません」
ウィルクスがさりげなく言った。信じるとは言ったけど、警部もそうなんだな。ぼくは泳がされているのか、とヒュームは思った。めったにない体験だ。本が書ける素材になりそうだ。
彼は左手で右手首を撫で、満足した。目にかかりそうになっている黒い前髪を手で払う。急にシャワーを浴びたくなった。警部はヒュームが病人であることなど忘れた目で、彼を見ている。それから鋭い口調で言った。
「犯人の名前は?」
「もちろん、お話します。その代わり、お願いしたいことがある」
「お願い?」
「ぼくにこの事件のルポルタージュを書かせてください」
ウィルクスの目がこの瞬間初めて冷たさを帯びた。
「あなたは記者ではないはずだ、ヒュームさん」
「ええ。記者ではありません。作家としてです。秘匿しなければならない部分は書きません」
「本のほとんどすべてが白紙になってしまいますよ」
「それでも。書きたいんです。作家として。それから、少佐のためにも」
「少佐のために?」
ヒュームはうなずいた。彼はグッドウィンのほうを見なかった。
「少佐が言ったんです。この事件をルポにしてほしい。きみがそうしてくれたら、おれは気持ちの整理をつけてあの世に行く。この世から消えて、きみの前からも消える。きみを自由にする、と」
ヒュームは熱っぽくそう言ったが、最後の部分は彼の偽証だった。
少佐は「きみを自由にする」とは言わなかった。「おれがどれだけこの世にいようと、きみの目に映ろうと、きみは自由だろうがな」。彼はそう言ったのだった。少佐の言葉が正しいことを、ヒュームは知っていた。
グッドウィン少佐は呆れた目で年下の作家のことを見下ろしている。二人の目が合うと、少佐は少しだけ微笑んだ。彼はヒュームがものを書いているということ、それ自体が好きなのだった。
「ルポの件は、おれの一存では……」
眉間に皺を寄せてウィルクスが言う。ハイドが軽く彼の肩をたたいて、優しく言った。
「また怖い顔になっているよ、警部。……ヒュームさんは、ルポを書いたとして、それを出版するつもりですか?」
ヒュームはにこっと笑った。
「できれば、したいですね。ぼくは作家ですから。でも世に出なくても、それはそれでかまわない。それもまたロマンチックですから」
「あなたもロマンチストですね、ヒュームさん」
ウィルクスがつぶやくと、少佐がまた咳払いした。ヒュームは警部と探偵の顔を順繰りに見た。「ルポの件は、少し考えさせてください」と警部が言う。
「出版しないと約束してくださるなら、あなたに好意的なお返事ができるかもしれませんが……」
「ぜひ、お願いします」
口をつぐみ、ウィルクスは落ち着かなげな目でハイドをちらりと見上げた。ハイドは扉のほうを見ていた。グッドウィン少佐は彼の目を見返し、ハイドは目を逸らした。
「そう……ときに幽霊は、見る必要のある人の目には見えるものですからね」
どこか昔を懐かしむような口調で、警部は言った。
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