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第50話
〈たかが若い愛人のために命を落とすわけがない〉
止まり木の紳士が美しい北京語でそう言って立ち上がった。
じっと優木 の方を見据えながら、紳士は近付く。頬を床に付けたまま、 ほとんど片目で優木は紳士を見ていた。
そして、優木は直感した。
(これが…、シャオミンのお父さんなんだ…)
そのことに気付くと、優木は、妙に冷静になって羽 将軍を観察した。
長身で、姿勢が良く、恰幅が良いと言うよりは、鍛え上げられた逞しい体つきだ。手足も長く、若々しい。
そして、その顔は精悍に日焼けしていたが、優木が愛する羽小敏 に通じる面差しだ。
「優木さん、あなたには選択してもらいます。」
通訳の男が言った。
「あなた自身の命を、守るか、捨てるか…」
命を惜しむなら、小敏を諦めて強制国外退去を受け入れ、2度とこの国に入国できない方を選択すべきだ。だが、それを拒んだら、おそらくこの場で殺されるのだろう。
(どっちにしろ、シャオミンには会えないんじゃないか…)
優木はムッとして、口を堅く結んだ。
「何も無かったことにして、大人しく日本に帰りなさい。何なら、日本にいる中国人留学生を紹介してあげますよ。とてもキレイで、カワイイ青年を知っている」
「さっきも言ったはずです。誰でもいいんじゃない!俺は、『羽小敏』が好きなだけだ」
急に羽将軍が動いた。優木がそれに気付いた時には、すでに近寄った将軍に髪を掴まれ、無理やり仰向けに顔を上げさせられた。
〈2度とその口で、息子の名を口にするな!〉
優木は髪を引っ張られた痛みに、顔をしかめていた。
「イヤだ!俺を殺すなら、殺せばいい!2度とシャオミンに会えないくらいなら、ここでシャオミンの恋人として死んでやる!」
勢いで言ったはずの言葉だったが、優木にとってはこれが本心だった。
〈黙れ!〉
羽厳 が優木の髪を乱暴に手放し、優木は再び床に顔を打ち付けることになった。
「痛いっ!」
優木は反射的に声を上げるが、誰も助けようとはしない。
「ならば、あなたは、この店から自分の足で出ることを諦めるのですね」
冷酷な通訳の声も、もう優木を怯えさせるものではなくなっていた。どう転んでも愛する羽小敏を失うことになった今、優木はもう怖いもの無しだった。
「俺は、死ぬことを選ぶんじゃない。羽小敏の恋人であることを選ぶだけだ。俺は、シャオミンが好きだ!俺からシャオミンを取り上げると言うのであれば、死んだ方がマシだ!」
すっかり開き直った優木が大声で喚 くと、立ち去ろうとしていた羽厳将軍が足を止めた。
〈将軍?本当に、片付けるのですか?〉
通訳が意外そうに声を掛けた。
しばらく、床に這いつくばる情けない日本人を見下ろしていた将軍だったが、不意に口元を緩めた。
〈お前に任せる。…李和平 〉
〈了解しました〉
李和平と呼ばれた若い通訳は、最敬礼をして将軍を見送った。
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