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第30話
実家からの手紙がくるようになってから五ヶ月。九月に入って夏休みボケもおさまるころ、いつものようにポストへ投函されていた封筒を見て、博美はため息をついた。
真っ白なクラフト封筒。宛名は博美の名前のみ書いてあり、差出人も書いてない。
そのまま破って捨ててしまおうかと思ったが、一応いつもの人物か確かめるために中身を見てみる。
しかし、文の途中で今までにはなかった単語に、博美は激しく動揺してしまった。
『博美にいさん、会いたいです』
「……っ! いまさら何なんだ!」
今年の三月まで音沙汰もなかったくせに、家から追い出したくせに、と博美は感情に任せてその手紙を破く。
最後にそのかけらを床に叩き付けて、ベッドに突っ伏した。いつもはただ会いたいとだけ書いてくるのに、今回は博美が最もその人物から呼ばれたくない呼称が書いてある。
(何で放っておいてくれないんだ!)
出ていけと言ったのはあちらの方だ、しかも汚い言葉で博美を罵って。なのに今更会いたいとはどういうことだ、と枕を叩く。
その途中で、尻ポケットに入れている携帯が呑気な音を立てる。特定の人からの着信はこの曲にしていて、発信源は幸太だ。しかし、今は出る心の余裕がない。
先月、夏風邪を引いて倒れた時、いつも以上に治りが遅く、幸太が甲斐甲斐しく看病してくれたのだ。
しかし、あの話の続きをすることはなく、九月に入って博美の仕事のサイクルが変わってから、ろくに会えなくなってしまった。
(もう、どうでもいいや……)
投げやりな言葉を呟くと、不思議と心が軽くなった気がする。
しかしそれは一時的なもので逃げにしかならない、と博美は分かっていた。
「ごめん幸太、疲れたから寝る」
そう呟いた後、声が聞こえたかのように着信音が止まったから笑えた。
◇◇
「博美さん!? いるのか!?」
夜、幸太の大きな声で目が覚めた博美は、すっかり暗くなった部屋を見て、慌てて電気を点けた。
明かりが点いたことに気が付いた幸太は、ホッとした様子で寝室を覗く。
「何だ……休んでただけ? ごめん、起こしたか?」
「ううん、大丈夫。それよりどうしたの?」
「どうしたのって、電話に出ないからだろ? それに……床に落ちてるの、片づけたほうがいいな。それから、そこで人を拾ったんだけど、博美さんに会うまで帰らないって聞かないんだ」
目線だけで玄関を指した幸太は、「知り合いか?」とドアを開ける。博美は寝室の入口から顔を出して、玄関にいる人物を見て、ひゅ、と息を飲んだ。
「な、なんで……」
「にいさん!」
玄関にいたのは手紙の男だった。別れた時よりずいぶん背が高くなって、博美よりもたくましくなっている。
スポーツでもやっているのか肌は焼けていて、髪は短く黒い。学校から直接来たのだろうか、ブレザーの制服を、若干着崩している。
「おい、説明が先だ。お前は一体何者だ?」
勝手に上り込み、動揺する博美に近づこうとした「弟」を幸太が止める。
しかし、背の高い幸太に威圧されても、その青年はひるむことなく幸太を睨んだ。
「お前こそ、何なんだよ」
「俺は博美の恋人だ。それより博美さん、これ弟?」
幸太に話しかけられてもなお、博美は目を見開いたまま「弟」を見ている。
「……お、弟なんていない」
「にいさん!!」
博美は壁に凭れた。そうでもしなければ立っていられなかったからだ。
こんなことで動揺してしまうのも、ここにすべての元凶がいるから。その過去を幸太に知られるのが怖い。
そんな様子を見ていた幸太は、とりあえずリビングへ行くか、と二人を促し、青ざめたままの博美の代わりにお茶を入れた。
(何でここに来たんだろう?)
博美はソファに座りながら、この男が来た理由を考える。いくら住所を変えても必ず直接郵便受けに投函してくる奴だ、幸太との仲も知っていて来たに違いない。
とすれば幸太との仲を裂きに来たか、博美の過去をばらしに来たか。
想像して身震いした。それはどちらも嫌だ。
「はい、博美さん。熱いから気を付けて」
「あ、ありがとう」
幸太からマグカップを渡されると、紅茶が入っていた。鎮静作用があると言われるそれは、残暑厳しい季節でも効果があるらしい。
隣に座った幸太が、博美の顔色が少し戻ったのを確認してから、話を始めた。
「で、お前は何者だ」
博美には絶対見せない態度で、幸太は男に聞く。彼によって対面の床に座らされた男は、不服そうに幸太を睨んだ。
「坂田 恒昭 。だから、弟だって言ってるだろ」
「博美は弟なんていないって言ってるが?」
「ホントだって! 何でにいさんは嘘をつくんだよ!」
声を荒げた男に、博美はびくりと肩を震わせる。再び震えだした手に、マグカップの中身がこぼれそうになるのを、幸太がそっとマグを放してくれた。
幸太が男に対して博美と呼び捨てなのは、公の場と私的な空間と分ける為だ。ただ単に、「これは俺のものだ」と言いたいだけなのかもしれないが。
「少なくとも、お前が博美を兄さん呼ばわりすることを、本人は嫌がってるように見える」
「そんな……」
幸太の言葉に、ショックを受けたような男の声。その悲しそうな声音に、幸太の考えは少し変わったようだ。
「じゃあそれはとりあえず置いといて。何年も会っていない身内が、何しに来たんだ?」
話を進めるのが先だ、と幸太は質問を変えると、今度は恒昭が動揺したように視線を逸らす。
「に、にいさんに会いに……」
「会って何するんだ? 実家に帰れって言うつもりだったのか?」
「違う!」
容赦ない幸太の質問攻撃に、恒昭は弾かれたように否定する。
「本当ににいさんに会いたかっただけなんだ。博美にいさんは俺の憧れで、目標で、今でも尊敬してる」
必死に言い募る恒昭は、ずっと黙ったままの博美を見つめた。
その痛い視線を感じながら、博美は俯いたまま、顔を上げることができない。
「……今更」
小さな声でそれだけ言うと、恒昭が息を詰めたのが分かった。
しかし、彼はそろそろと息を吐くと、意を決したのか、本当のことを話し出す。
「実は俺、家出してきたんだ。何でって、にいさんなら一番よく知ってるよね」
それを聞いて博美は、あの人たちは相変わらずなんだ、と心の中でため息をつく。
博美の両親は教育熱心な人だった。何人もの家庭教師を雇って、勉強のみならず、芸術、マナーなどの知識も叩き込むのだ。
そして、自分の思い通りにならないと、すぐに癇癪を起こした。そしてその矛先が自分に向かないよう、必死になるしかなかったのだ。
当時のことを思い出して、博美は眩暈を起こし、ぎゅっと目を閉じた。
「だからって、何で博美を頼る? わざわざ音信不通の兄弟頼らなくてもいいだろ」
幸太の声は相変わらずだ。しかし、同情を引いたのか、責めるような口調はなくなった。
「俺にはにいさんしかいなくって。俺たち……」
「こ、幸太、とりあえず連絡だけさせたら? ほら、親御さんも心配してるだろうし」
恒昭が話してほしくないことを喋りそうだったので、博美は慌てて遮った。
しかし、博美の言葉に引っ掛かりを覚えたのだろう、少し眉を寄せて博美を見る。
「俺は帰らないからな!」
「分かった分かった。じゃ、親に連絡入れろ。そしたらここに泊めてやる」
「ちょっと、幸太!」
何を思ったのか幸太はそんなことを言い出し、恒昭はしぶしぶそれに答えた。
これはいよいよ話をしなくちゃいけないな、と博美はすっかり冷えた紅茶を見つめた。
数時間後、何故かみんなで食事をし、リビングのソファーを恒昭が陣取った頃、博美は寝室で幸太が出す不機嫌オーラを感じて、逃げ出したい気分になった。
「お、怒ってる?」
「うん」
短い言葉に博美の体がすくみ上る。普段この寝室では甘い雰囲気を楽しむ二人だが、さすがに今日はできない。
「俺たち付き合って何年目だよ。兄弟がいるってことも初耳だし、実家にまつわることだから、話したくないってのも分かってたけど、こういう突発的な問題が起きた時に、博美さんのこと、守れないだろうが」
「うん……ごめん」
「謝らなくていいから全部話せ」
きつい口調で促すも、博美の手を包んだ幸太の手は温かくて優しかった。
どこから話したものか、と迷っていると、彼は焦れたように質問してくる。
「まず、アイツは本当に弟か? ずいぶん似てないけど」
博美は答えに少し迷いながら、少しずつ話していった。
「会ったことは二回ぐらいしかないし、血は繋がってない。あの子は養子だよ」
博美が繊細で美人だと形容されるタイプに対して、恒昭は男性そのものという感じの力強さがある。
血は繋がっていないなら似ていないのは当然だし、そこは大して問題じゃない。
声が震えてしまうのを感じながら、ゆっくりと話し出す。
「俺が十六の時に引き取られて来たんだ。身寄りもいない。当時俺は全寮制の学校に入れられてたから、紙切れ一枚でそれを知らされた」
中学の頃、博美は性嗜好が男性であることを自覚した。当時は素直だった博美は自然にそれを受け入れ、クラスメイトとも仲良くしていたが、ある日恋愛話になったとき、自分がゲイであることを打ち明けてしまったのだ。
多感な中学生たちは少数派を叩くのが大好きで、それがもとでいじめに発展し、親にもばれた。
しかし、本来子供を守るべき立場の親はゲイだという博美自身を否定し始め、合格が決まっていた有名私立高校を蹴って、全寮制の高校に入学させたのだ。『考えが改まるまで帰ってくるな』という言葉つきで。
そして、恒昭を養子に入れた時に『これからは恒昭をうちの正式な跡継ぎにする』と養子縁組をしたという知らせの紙に書いてあった。
博美は一人っ子だったから、その意味はすぐに理解する。
「その時、ああ、この子は俺の代わりなんだって思った。すっかり人間不信になっちゃって、後は擦れる一方だったよ」
幸太が傷つかないように、と努めて優しく言うと、やはり幸太は眉を寄せて傷ついた顔をした。
優しいから、自分のことのように思ってくれるところが好きだ。
「でもね、それでもあの人たちの心は治まらなかったみたい。結果、今の俺は恒昭とも兄弟じゃないんだ」
「……それって」
目を見開いた幸太に、博美はうなずく。
「二十歳になったら分籍しろって言われてたから。だから、俺には親も兄弟も戸籍上はいない」
「……」
「高校卒業したとたんに大学の学費とか生活費も切られちゃって、稼ぎながらはきつかったけど、いろんなとこにお世話になって正直助かった」
「やめろよ」
自虐的に言うと、幸太は怒ったように博美の手を握った。こうなることが分かっていたから、話したくなかった。
自分は幸太に守られるほど大した人間じゃない、そう伝えたかった。
「……俺が一緒に住みたいって言ったとき」
博美の話がショックだったのか、幸太は珍しく言葉を選ぶようなしぐさをする。
「その先のこと考えちゃったからためらったのか?」
「……うん。籍入れるとなると、どうしても見ることになるでしょ? 幸太、絶対それで自分のことのように傷つくって思ったし、それなら言葉は変だけど、事実婚で良いかなって、……っ」
どうしてか、気分的には落ち着いていたと思ったのに、今更ながら涙が出た。
「でも、やっぱり俺、幸太をこっちの道に引きずり込むわけにはいかないし、子供もほしいなら早く別れなきゃって……っ」
胸に押しとどめていた想いを告げると、堰 を切ったように嗚咽する。
「ちょ、博美さん? ……ああもう」
慌てた幸太の声がしたと思ったら、ふわりと空気が動いて抱きしめられていた。
たくましい腕に包まれて、博美はさらに涙が溢れてくる。
幸太に出会えて幸せだった。たぶん、これ以上に好きになる人は今後現れないだろう。
そういえば、出会った時も博美が泣いていて、今ほど親密な形ではなかったけど抱いてくれたな、とそんなことを思い出した。
優しくてお節介な幸太。唯一、幸太の存在を認めてくれた恋人。ずっとずっと、このやすらかな時間が続けばいいのに、と何度思ったことだろう。
「博美さん……俺」
濡れた目じりを拭ってくれた幸太は、優しく髪を梳いた。
「籍入れるのも子供のことも、全部博美さんが相手っていう前提で考えてるよ? 引きずり込むって、博美さんと付き合った時点でそれは関係ないし、そもそも七年も付き合わない」
可愛い、と言いながら幸太は、目尻の涙を舐めた。
「だ、だって、幸太、長男でしょ?」
それがどうした、と幸太から返ってきた。頬を両手で包まれて額をくっつけると、眼鏡が邪魔ですぐに離れた。その顔は笑っている。
「うちの両親には了解得てるから。それに、うちはまだ弟がいるし」
「そう、なの……?」
にこにこと話す幸太に博美は納得しかけて、いやいや、と首を振った。
そういえば、幸太の家族のこともあまり聞いたことがない。聞けば、自分のことも聞かれると思って、話したことがなかった。
「でも幸太、それじゃ弟くんが……」
「ひーろーみーさーん」
聞き分けが悪い、と窘められると、博美は大人しくさがるしかない。
今日は疲れただろうから、寝ようと促され、釈然としないながらも従う。
シングルのベッドに二人で寝るのは狭いが、幸太は博美の不安を包むようにずっと抱きしめていてくれた。
それが嬉しくて、そっと涙を拭くと、寝ていると思っていた彼が抱きしめる腕を強めてくる。
「もう十分傷ついてきたんだから、そろそろ思い通りに生きても良いんじゃないか」
ぼそりとそんな声が聞こえて、今度は嗚咽を堪えるのがしんどくなってしまったのだった。
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